第4話 助けを求める声を聞いてしまった
俺は、酒場を飛び出した。
理由なんて考えている余裕はなかった。
大男、巨大な斧、明らかに普通じゃない客、そして、あの子ども。
全部が怖かった。何が何だか分からない。
だから、逃げた。
「何なんだよっ…!」
息を切らしながら、路地を歩く。
どこへ向かっているのかも分からない。街灯もない。知らない道は不気味だった。
それでも、あの場所から離れたかった。
後ろから誰かが追ってきているような気がして、何度も振り返る。
誰もいない。
(本当に?)
そう思った瞬間、背筋が寒くなった。
「どこだよ……ここ」
思わず声が漏れた。
(何で俺は、こんなところにいる?さっきまで会社にいたはずだ。いつものように煙草を吸って、それから)
「…くそっ」
今考えても分からない。とにかく、今は安全な場所を探さないと。
明かりのある場所、駄目だ。
さっきの酒場、あの連中がいる。
人の多い場所も怖い。
そもそも、この辺りには人影すらほとんどない。
建物も見慣れない。道だって、日本で見るものとはどこか違っていた。
「……そういえば」
歩きながら、さっきの酒場を思い出す。
酒場の客の服装も違った気がする。話している言葉は日本語に聞こえたが、雰囲気が明らかに違う。
そもそも、あんな巨大な斧を持った人間なんて日本にいるか?
「……いや、いるわけがない。」
言葉に出した途端、余計に不安になった。
街並みも、建物も、人間も、全てがどこかおかしい。
「……まさか」
足が止まる。
頭の中に、一つの考えが浮かんだ。
(ここ、日本じゃないのか?)
自分で考えておいて、馬鹿馬鹿しくなった。
(日本じゃないなら、どこなんだよ。)
(そもそも俺は、どうやってここに来た?)
本当に、何も分からない。
「……やめよう。」
今考えても答えなんて出ない。
それよりも現状だ。
このまま外を歩き回るのは危ない。朝まで隠れられる場所を探そう。
しばらく歩くと、大きな建物が見えてきた。
「……工場?」
近づいてみる。
古びた工場のようだ。
何棟もの建物が、渡り廊下のようなもので繋がっている。
ただ、壁はところどころ崩れ、窓も割れていて、かなり昔に使われなくなった場所っぽい。
「……ここなら、隠れられそう。」
正直、入りたくない。でも、外にいるよりはマシだ。
俺は周囲を確認してから、工場の中へ入った。
◇
中はさらに暗かった。
月明かりが割れた窓から差し込んでいるだけだ。
古い機械が並び、床には木箱や金属片が転がっている。
何に使っていた工場なのかは分からない。ただ、人の気配はなかった。
「……朝までは、ここにいよう」
朝になれば明るくなる。明るくなれば、周りも見える。
そのときに、どうするか考えればいい。
そう思って、壁際に腰を下ろした。
いつもの癖で煙草を探そうと、ポケットの中に手を入れる。
何かに触れた。
「あ……」
取り出してみると、ペンダントだった。
さっき、酒場で子どもから渡されたもの。
「……受け取っちゃったんだよなぁ。」
掌の上でペンダントを眺める。
「これ、どうしよう……」
小さく呟く。
ペンダントをポケットに戻そうとしたその時、何か聞こえる。
「……助けて」
かすかにだが、子どもの声がする気がする。
「……え?」
思わず立ち上がった。
俺は息を止めて、耳を澄ます。
「……誰か!……」
また聞こえた。
間違いない、子どもの声だ。
「……子ども?」
こんな廃工場で?夜中に?
背中に冷たいものが走った。
「……お化け?」
思わず呟く。
そういえば、路地裏で子どもたちが「お化け」と言っていた。
いや、そんなわけ……ないよな?
俺は暗い廊下を見つめた。
誰もいないはずなのに、確かに声がした。
「……なんで、こんなところに子どもがいるんだよ」
逃げてきた矢先、今度は廃工場で子どもの声だ。
「……関わらないほうがいいよな」
聞かなかったことにして、朝まで隠れている。それが一番良い、そう思った。
「助けて…」
今度は、はっきり聞こえた。
無意識に、手の中のペンダントを強く握っていた。
「……ちょっとだけ」
助けに行くつもりなんてない。何がいるのか確認するだけだ。
「……幽霊じゃないか、見るだけ」
自分に言い聞かせながら、声のした方向へ歩き出した。
◇
「……こっちか?」
声を頼りに進んでいくと、古い部屋の前に辿り着いた。
扉が少しだけ開いている。
「……誰かいるの?」
中を覗くと、そこには、一人の少女がいた。
床に座らされ、両手を後ろに拘束されている。顔には疲労が浮かんでいた。
「……!」
思わず息を呑む。
少女もこちらに気づいた。怯えた顔だった。
だが、ただ怯えているだけじゃない。俺を睨みつけるように見ている。
「待ってくれ。俺は敵じゃない。」
両手を上げ、敵意がないことを示そうとした。
少女は答えず、ただ俺の手元を見ていた。正確には、握っているペンダントを。
「それ……弟の?」
少女が身を乗り出そうとする。だが、拘束されているせいで動けない。
俺は、ペンダントを見る。
「何で、それを持っているの?!弟に何したの?!」
鋭い声が飛んできた。
少女の顔から血の気が引いている。怒っているのか、怯えているのか分からない。
ただ、必死だった。
「何もしてない!酒場にいた子から渡されたんだ!」
「……じゃあ、弟は!?」
「生きてる」
少女の動きが止まった。肩が震えている。
「……本当に?」
張りつめていた声が、少しだけ揺れる。
「少なくとも、俺が会ったときは無事だった。」
少女は俯いた。泣いているのかもしれない。
俺には何を言えばいいのか分からなかった。
ただ、弟が生きていると伝えられただけでもよかったと思う。
しばらくして、少女が顔を上げた。
「……教えてくれてありがとう」
声は小さかったが、俺を見る目に、ほんの少しだけ和らいでいた。
「……いつから、ここにいるんだ?」
「分からない。連れてこられてから、ずっとここ。」
「誰に?」
「分からない。」
少女は、短く答えた。
俺は少女を縛る拘束具に目を向ける。
革のような素材、そこに金属の部品が取り付けられている。
金属には細かな文字のようなものが刻まれていた。
「……これ、外せるか?」
「無理。解除の言葉がわからない。」
「解除の言葉?」
「これを着けられてから、魔法もうまく使えなくなった。」
(「魔法」、「解除の言葉」?何を言ってるの?)
俺には何のことか分からない。
そんなもの、俺にはどうしようもない、と思った。
「……ちょっと待ってくれ」
俺は拘束具を調べた。
金属部分はかなり頑丈そうだ。革の部分を引っ張ってみる。
「痛っ!」
「ご、ごめん!」
力を緩めた。
「……硬いな」
かなり丈夫だ。金属部分もびくともしない。刃物でもあれば違うかもしれないが、そんなものは持っていない。
(これの素材、革じゃん。燃やしたら切れないか?)
俺はポケットからライターを取り出す。
「何をするの?」
「動かないでね。」
ライターを点ける。青白い炎が伸びた。
「……火?」
少女が目を見開く。
革の部分に炎を当てる。
革が熱を持ち始める。だんだん表面が黒くなっていき、焦げた臭いがしてきた。
「何してるの?」
「革なら、熱を加えたら弱くなるから、さ。」
さらに炙ると、革が縮み、表面が硬くなる。
それでも炎を当て続ける。
やがて、革の一部がひび割れた。
「……お?」
指で触れてみる。
さっきまでとは明らかに違う。
「これなら……」
俺は両手で革を力いっぱい引っ張った。
ブチッ。
革が裂けた。
「……外れた。」
「……え?」
少女は焼け焦げた拘束具を見つめていた。
「今の……魔道具を使ったの?」
「魔道具?」
俺は手元のライターを見る。
(なるほど…この子は、これをそういうものだと思ってるのか。)
「そうだよ。火が出るやつ。」
「この拘束具、普通の火じゃ壊せないはずなのに…」
少女はしばらく黙っていた。
俺には、その反応の意味が分からなかった。
「…立てる?」
「うん」
少女は立ち上がった。少し足元がふらつく。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
(強い子だなぁ…!俺なら、こんな場所で拘束されていたら泣いてるよ。)
俺たちは部屋を出た。
◇
少女は、廃工場の中を迷わず進んでいく。黙ってその後を追う、俺。
(あれ、いつのまにかヤバイ状況に巻き込まれてね?)
「こっち」
「分かるのか?」
「この辺の子どもなら、みんな知ってる。」
「みんな?」
「こういう場所は、覚えておかないと困るから。」
少女は、振り返らずに答えた。
(待って、不穏なこと言うのやめて!怖いんだけど!)
しばらく進んだところで、建物同士を繋ぐ古く、細い通路に出た。
「この道を進めば、外に出られる。」
(俺、ここに隠れてたかっただけなんですけど?!)
そのときだった。
「……助けて!」
声が響いた。俺は足を止めた。
「……今、助けてって言わなかった?」
「言ってた。」
少女は、声のした方を見るが、それ以上は動かなかった。
俺も声の方を見る。
「……行かないのか?」
「……行かない。私たちがまた捕まったら、もう助からない。」
淡々とした言葉だったが、その声は小さかった。
(ってことは、まだ誰かいるってこと?!ここ、そんなやばい場所だったの?!)
怖い。怖い。怖い。
でも。
「……聞いちゃったからなぁ。」
俺は声のした方へ歩き出した。
「待って」
少女が呼び止める。
振り返る。
「……あなた、本当に行くの?」
「うん。」
「……怖くないの?」
「怖いよ。」
即答した。
「めちゃくちゃ怖い。」
少女は黙った。
「でも、あの声を聞いたら……放っておけないだろ。」
俺は再び歩き出した。
少し遅れて、少女もついてきた。
◇
同じ頃。
少女が拘束されていた部屋に、一家の構成員が入ってきた。
男は部屋の中を見回す。
「ガキがいねぇ…!」
床には、焼け焦げた拘束具が落ちていた。
「……なんだ、これ。」
男は拘束具を拾い上げる。
革の一部が黒く変色し、裂けていた。
解除の言葉を使った形跡もない。物理的に壊すことも簡単ではないはずだ。
(あのガキが自力で外したとは考えにくい。とすると…)
「……誰かが助けたのか?」
男は顔を上げる。
廊下の先には、薄暗い通路が続いている。人の気配はない。
だが、少女が消えた以上、誰かがここへ入り込んだことは間違いない。
「……まだ近くにいるかもしれねぇな」
男は拘束具を床へ落とした。
「探せ」
低い声が、静まり返った廃工場に吸い込まれていった。




