第3話 酒場で、依頼を受けてしまった
酒場の勝手口が、バタンッ! と激しい音を立てて閉まった。
その直後。
店の中央にある特等席で、二人の娼婦を侍らせていた男――フェリックスが、肩に回していた両腕をゆっくりと下ろした。
さっきまでの軽薄そうな笑みは、もう消えていた。
耳を澄ます。
キィン――。
裏通りから金属がぶつかる音。
ドサッ。
何かが泥の上に叩きつけられたような、鈍い音。
「……!」
続いて、荒々しい怒声。
フェリックスは、勝手口へ視線を向けた。
――戦っている。
姉を助けてほしいと泣き叫ぶ弟。
その訴えを聞いたガルニエが、迷うことなく飛び出していった。
(……偶然か?)
あの黒服の男が現れてから、妙なことが続いている。
ガルニエが動いたのも、あの男が来てからだ。
(あの男が、何かをしたのか……?)
胸の奥に、嫌な感覚が残る。
椅子に立てかけていた刀へ手を伸ばした。
この国では珍しい、細く湾曲した刃。鞘に添えた指が、わずかに動く。
カチリ。
合口拵えの鞘から、刃がほんのわずかに覗いた。
(何を企んでやがるのか知らねえが……)
静かに立ち上がった。
(あの大男を、好きにはさせねえよ)
次の瞬間。
その姿が消えた。
音すらほとんど残さず、漆黒の路地へと消えていった。
◇
店内に残された弟は、どうしたら良いのか分からなかった。
ガルニエは姉を助けるために飛び出していったが、その背中を見送ることしかできなかった。
「姉ちゃん……」
小さく呟く。
しばらくして、 店の外から微かな物音が聞こえてきた。
キィンッ!
続いて、何かが倒れる音、怒鳴り声も聞こえる。
弟は顔が強張り、肩が震える。
助けに行きたい。でも、怖い。
自分には何もできない。
弟は、必死に店内を見回した。
そのとき、入り口に立つ黒服の男が目に入った。
異国風の服、見慣れない靴、さっきから一言も発さず、微動だにしない。
ただ、そこに立っている。
なのに、周囲の男たちは、誰も近づかず、声もかけない。
まるで、その男を恐れているかのようだった。
姉を助けてほしいと叫んだ直後、大斧を握ったガルニエは、目の前の男をじっと見ていた。
男は、何も言わなかった。ただ、静かに立っていた。
それなのに、ガルニエは何かを決めたように勝手口へ向かった。
弟には、その理由は分からない。
でも、この店にいる大人たちの中で、実際に助けに動いてくれたのはガルニエだけだった。
そのガルニエが、あの男を見ていた。
(この人なら……)
理由なんて分からない。
ただ、この人なら姉を助けられる。
弟はその男のところまで駆け寄り、その脚にしがみついた。
「お願い!!」
「……ふぁ?!」
俺は、思わず声を漏らした。
弟は首から下げた、泥まみれのペンダントを必死に外した。
「姉ちゃんを助けて!」
「え、いや、ちょっと待って……」
「これ、母ちゃんの形見なんだ!」
俺の手に、ペンダントが押しつけられる。
「これあげるから! お願い! 姉ちゃんを助けてよぅ!」
(えええええ!?)
悟の頭が真っ白になった。
(いやいや、待って、重い!母親の形見ぃ?!そんな大事なものを、初対面の俺に渡さないでよ!)
そして、俺は気づいた。咄嗟に、ペンダントを握り返してしまっている。
(……やっちまったぁぁぁ!)
怖くて頭が回らず、反射的に受け取ってしまった。
(どうしよう……!)
返したい。今すぐ返したい。
足元にしがみついた弟が、涙でぐしゃぐしゃになった顔で俺を見上げている。
ここで「はい、返すね。」なんて言えるわけがない。想像しただけで胸が締め付けられる。
(いや、そもそも俺、助けに行けないよ!?)
人を殴ったことすらない。
ましてや、こんな危険な場所で戦うなんて絶対に無理だ。
俺は、普通のサラリーマンだ。
営業先で怒鳴られるだけでも胃が痛くなる。
そんな俺が、スラムの犯罪者相手に殴り込み?
無理、絶対に無理!
(誰か助けてくれええええ!!)
◇
カウンターの奥にいたギルドマスターも、二人の様子を見ていた。
弟が、自分の母親の形見であるペンダントを黒服の男に渡した。
そして、それを手にしたまま立っている。
マスターは、黙った。
周囲の男たちも、互いに顔を見合わせたが、誰も口を開かない。
この場にいる者たちには、分かっていた。
取引を行う一家は、今この街で勢力を伸ばしている中堅組織だ。
人身売買も、一家が手掛ける商売の一つである。
裏社会では、無用な抗争を避けるため、大組織が一定の秩序を保っている。
他組織の商売に手を出すことなど、普通はしない。
それなのに、正体も分からない黒服の男が、その一家に関わる依頼を引き受けたように見えた。
しかも、酒場にいる人が見ている前で、である。
「……マジかよ。」
誰かが、小さく呟いた。
別の男が、無意識に腰の武器へ手をやる。
誰も、黒服の男に声をかけようとはしない。ただ、様子を見ている。
この後、何かが起こる。そんな空気が、酒場を包んでいた。
◇
俺には、何が起きているのか分からない。
(空気重くなった……?!)
周囲の視線が、さっきより怖い。
(何で!? 俺、何もしてないよ!?)
心臓が飛び出しそうになる。
ここにいたら危ない。一刻も早く、この店から出るしかない。
だが、歩こうとすると足が震えそうだった。
(落ち着け…)
俺は、平静を装って歩き出した。
ゆっくり、まっすぐ、何も気にしないように。
ギシ……ギシ……
床板が鳴る。一歩進む。
すると、店内の男たちが、無言で左右へ避けた。
(……え?)
また一歩、さらに一歩。
男たちは、また道を空ける。
誰も何も言わず、俺を見ている。
(なんで……?)
分からない。
だが、男たちには別の意味に見えていた。
「道を空けろ。」「俺を止めるな。」
そう言われているような、異様な威圧感があった。
黒い服の男は、何も言わず、ただ歩く。
その静けさが、かえって恐ろしい。
(因縁つけられる前に、早く外に出よう……!)
だが、周囲から見れば、
誰一人として声を上げさせず、近づかせない。
まるで、この酒場そのものを支配しているかのように、悠然と歩いている。
◇
俺は、そのまま勝手口へ向かった。
扉へ手をかける。
ギィ……。
ゆっくりと開く。その向こうには、暗い夜の街。
(よし……!)
俺は外へ出た。
その背中を、店内の全員が見送る。誰も口を開かない。
ただ、ギルドマスターだけが、低く呟いた。
「……あの男、何者だ?」




