第2話 酒場で、大男に睨まれた
扉を開けた瞬間。
俺の脳は、完全にフリーズした。
(ひえええええ!?)
目の前にいたのは、身長二メートル近い大男。
その手は、カウンターに立てかけられた巨大な大斧にかかっている。
そして…
何故か、俺をガン見している。
(助けを求めて入っただけなのに、なんで二メートルの大男が大斧を握りながら俺を睨んでるの!?)
(なにあの斧!?本物?!意味分かんない! 怖すぎるんですけど!!)
慌てて周囲を見渡す。
粗末な木の椅子、薄暗い店内、煤けたランプ。
そして、机の上、床に無造作にナイフや鉄の棒が置かれている。
どう見ても、まともな店じゃない。
店内の客たちから、値踏みするような視線が突き刺さってくる。
関わったら、絶対に面倒なことになる。
(うわ……なんだここ。めちゃくちゃ治安悪いじゃん……!)
今すぐ逃げたい。だが、足が動かない。
冷や汗が背中を伝い、ワイシャツを肌に張り付けた。
(なんで誰も喋らないんだよ……!)
店内には、異様なほど重い空気が漂っていた。
誰も声を上げず、動かない。まるで、俺の周りだけ時間が止まったかのようだった。
ただ、タバコを吸っていただけなのに。どうして俺は、こんな危ない場所でゴロツキどもに睨まれてるんだ。
(もう訳が分からないよ……。どうなってるのよ……)
◇
その姿を、カウンターからガルニエが睨んでいた。
(……なんだ、この男は……?)
この街の裏社会を知るガルニエでさえ、目の前の男には覚えがない。
異国風の仕立ての服、見慣れない革素材の靴。
そして、このスラムでは場違いな身なり。
この場所で、あれほど目立つ男が動いていれば、普通ならすぐに噂になるはずだ。
だが、今日まで、こんな男の話は聞いたことがない。
これだけでも十分怪しい。
だが、それよりも気になったのは、立ち姿だった。
周囲の客たちが警戒する中、黒服の男は入口に立ったまま動かない。
逃げるわけでもなく、身構えるでもない。ただ、そこに立っているだけだ。
背後の扉から、淡い月明かりが差し込んでいる。
光を背負うように立つその姿は、黒い服の輪郭だけを浮かび上がらせていた。
ガルニエは、男の顔を見る。ほとんど表情がない。
驚いている様子もない。怯えているようにも見えない。
(……妙だ。)
ここは、スラムの中でも、裏社会の人間が集まる酒場だ。
武器を持った人間も多く、用もなく足を踏み入れるような場所ではない。
それなのに、この男は何のためらいもなく入ってきた。
しかも、周囲を警戒する様子すらない。
(……何をしに来た?)
ガルニエは、男から目を離さなかった。だが、男は何も反応を見せない。
ただ黙って立っている。
(……何を考えている?)
その無表情が、不信感をさらに強めた。
そして、その指先には、見慣れない白い筒が挟まれている。先端には、小さな火。
そこから白煙が細く立ち昇っている。
(……あれは、何だ?)
黒服の男は、それを持ったまま動かない。
まるで、この場にいる全員を観察しているようにも見える。
(この状況で、あれほど平然としていられるだと……?)
ガルニエの背筋を、冷たい汗が伝った。
黒服の男の耳の下、首元を見る…が、一家の刺青はない。
(……まさか、今夜の取引に関係する人間か?)
だとすれば、なぜこんな場所に直接姿を現した。目的は何だ。こちらを監視しているのか。
それとも…
◇
俺は必死だった。とにかく視線を逸らしたい。
落ち着こうと、いつも通りたばこを口元へ運ぼうとする。
そこで、ようやく気づいた。
自分の指先から、白煙が上がっている。
(……あ)
煙草。
持ったまま店に入ってしまった。
(これか!?)
この物騒な連中の前で、こんなものを持ったまま突っ立っているのはまずい。
慌てて消そうとした。
(いや、待て。ここで焦ったら、余計に目をつけられるんじゃないか?)
下手な動きをしたら、何をされるか分からない。
(こういう時は、できるだけ平静を装うしかない…!)
俺は刺激しないよう、できるだけ自然な動作で懐から携帯灰皿を取り出した。
そして、タバコを中へ入れる。
パチン。
小さな金属音が、静まり返った店内に響いた。
蓋を閉じ、懐へ戻す。
何事もなかったかのように、再び前を向いた。
(よし……)
ただ、内心では心臓が爆発しそうだった。
◇
ガルニエは息を呑んだ。
(……今の動作……)
店内の視線が注がれる中、黒服の男は物怖じする気配もなく、魔道具らしきものを慣れた手つきで処理した。
(落ち着いている……?)
こちらを警戒している様子すらない。
だが、その静けさが、逆に恐ろしい。
ガルニエは、男から目を離せなかった。
◇
そのとき。
ガルニエの足元で、姉が弟の手を握り直した。
少女は、目の前の状況を別の意味で理解していた。
(……この大男、完全に呑まれてる。)
大斧を持ったガルニエ。
その前に立つ、黒い服の男。
少女には、この男が何者なのかなど分からない。
それでも、このままここにいるのは危険だ。
(あいつ……絶対ヤバい!)
少女は、無意識に呟いた。
「……この大男じゃダメ。」
弟の手を強く握る。
「あいつには、勝てない…」
(今のうちに逃げないと)
ガルニエは、黒服の男に気を取られている。
二人が睨み合っている今なら――
少女の身体は、勝手口へ向かって動いていた。
「待て。そっちは」
ガルニエが気づく。
だが、遅かった。
少女は弟の手を引き、勝手口から飛び出した。
◇
俺は、その動きを見ていなかった。
というより、怖くて周囲を見る余裕がなかった。
だから、店の奥で何が起きているのかも知らなかった。
外へ飛び出した姉弟に、さらなる危険が待ち構えていたことも。
暗い路地。
その物陰に、一人の男が潜んでいた。
今夜の取引のために待機していた、一家の下っ端だ。
「ひひひ、見つけたぁ。」
少女が振り返る。
次の瞬間。
ガシッ。
腕を掴まれた。
「ひっ…!」
少女が悲鳴を上げる。男の腕を振りほどこうと、必死にもがく。
だが、離れない。
少女は、後ろの弟を見る。
「逃げなさい!!」
弟の背中を、思い切り押した。
「お姉ちゃん!」
「早く!!」
よろめいた弟は、泣きながら来た道へ向かって走った。
泥を蹴り、暗闇の中を必死に駆ける。
頼れる大人はいない。逃げ込める場所もない。
それでも、弟には一つだけ思い当たる場所があった。
さっきの酒場。
明かりがあった。人がいた。そして、黒い服の男がいた。
弟は必死に走った。
◇
バキッ!
『クロックド・クラウン』の木扉を、弟が勢いよく開けた。
「助けて!!」
泣きながら叫ぶ。
「悪い奴らが、姉ちゃんを攫っていったんだ!!」
店内に声が響いた。
誰も動かなかった。
このスラムでは、人さらいは珍しくない。普段なら、誰かが鼻で笑って終わる話だ。
しかし、今日の酒場はいつもと違った。
店内に、まだあの黒服の男がいるからだ。
黒い服、静かな顔、そして一言も発さず、入り口に立っている男。
誰もが、そちらを意識していた。
ガルニエは、足元に戻ってきた弟を見た。
そして、その奥、勝手口の向こうから聞こえた少女の悲鳴を思い出す。
賞金首が死ぬ間際に残した情報。
――裏通りの奥で、人身売買が行われる。
あのときは、半信半疑だった。
しかし、目の前で泣いている子ども、裏口から聞こえた悲鳴、それらが、一本に繋がった。
(……真実だったのか)
ガルニエの奥歯が、ギリッと鳴る。
(あの裏通りで、今まさに人さらいが起きた……!)
決断は、一瞬だった。
「……クソッ!」
ガルニエは、大斧を背負い直し、床を蹴った。
ドンッ!!
巨体が動く。
背中には巨大な大斧。
そのまま、悟とは反対側にある勝手口へ向かって猛然と走り出した。
「うわあああ!?」
突然のことに、俺は飛び上がりそうになった。
(な、なんだ!?)
二メートル近い大男が、大斧を背負ったまま全力疾走していく。
(何で急に走り出すんだよ!?)
ガルニエは客たちの間を突っ切り、そのまま勝手口の扉を蹴り開けた。
バンッ!!
そして、夜の闇へと消えていった。
俺は、呆然とその背中を見送った。
「………何だったの、今の」
何が起きたのか、さっぱり分からない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
(……やっぱり、この店、怖すぎるだろ……)
俺はこのときまだ知らなかった。
この夜の出来事が、物部悟の、長い「勘違い」の始まりになることを。




