第1話 異世界スラムに放り込まれた
「待て! こ、殺すな! た、助けてくれ!」
夜の暗い森に、男の悲鳴が響いた。
男がじっとりと湿った土の上を必死に這っていた。
腕は傷だらけ、服は泥まみれ、そして、顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。
それでも、必死に何かから逃げようとしていた。
その耳に、容赦なく距離を詰めてくる背後の足音が響く。
コツ、コツ、コツ。
月明かりに照らされ、巨大な男の姿が浮かび上がった。
身長は二メートル近い。筋骨隆々とした身体には、無数の傷跡が走っている。
そして、右手には、男の身体ほどもある大斧。
「た、頼む……!見逃してくれ!か、金なら欲しいだけ払う!」
男が振り返った。
「ま、待て! 俺はまだ役に立つ!」
「……何?」
「情報をやる! あんたが欲しがる情報だ!」
大男――ガルニエの足が止まった。
「話せ。」
男は息を整えながら、必死に笑顔を作った。
「今夜だ。裏通りの奥で、とんでもない取引がある」
「取引だと?」
「人身売買だ!攫ったガキどもを、内地の貴族に売る、かなり大きな取引だ!」
男は必死だった。生き残るためなら何でもする。組織の情報だろうと、売る。
これで見逃してもらえる、そう思った。
ガルニエはしばらく男を見つめていた。
「……そうか。」
ガルニエは、大斧を担ぎ直した。
「お前は、何の罪もない商人を襲ったな。」
「違う!あれは仕方なかったんだ!金が必要で」
静かに、大斧を振り上げられる。
「では、私がお前をここで斬ることも」
ガルニエの目から、光が消えた。
「『仕方がない』ことだ。」
「え、待――」
鈍い音が、森の静寂を引き裂いた。
◇
数時間後。スラムの酒場――『クロックド・クラウン』。
「…人身売買だと?」
カウンターの奥にいた店主が、グラスを拭きながら目線だけを向けた。
ガルニエはグラスを一口煽った。
「今夜、裏通りの奥で取引があるらしい。」
「この街じゃ、珍しい話でもねえ。」
「攫われた子どもを、内地の貴族に売り渡すつもりらしい。」
店主は一瞬だけ手を止めた。
「…本当か?」
「情報源は殺した。嘘をついている可能性もある。」
店主は小さくため息を吐いた。
「うちは、お上の組織じゃねえ。そんな話に首を突っ込むなよ。」
話を終わらせるかのように、ぶっきらぼうに言い放った。
そして、棚から酒瓶を取り出した。
だが、店主の目は、笑っていなかった。
その会話を、少し離れた席にいた男が聞いていた。
耳には、刺青が刻まれている。
「…なぜ、その話が漏れている。」
刺青の男は酒を飲み干すと、静かに席を立ち、そのまま、何も言わずに酒場を出ていく。
◇
「……おい」
その様子を、別の男が目で追っていた。
酒場の中央、娼婦を二人両脇に侍らせ、両腕で抱き寄せながら酒を飲んでいる軟派な男――フェリックスだった。
「どうしたの?」
女の一人が尋ねる。
「ちょっと気になる客が出ていっただけだよ。」
フェリックスは、いつものように微笑んだ。
「あら、私たちだけじゃ満足できないのかしら?」
「まさか。」
女たちには、ただの酔っ払いにしか見えない。
だが、その目は笑っていなかった。
「……キナ臭くなってきやがった。」
小さな情報が、夜の街を静かに動かし始めていた。
◇
同じ頃。
「神様…仏様……ッ!」
俺――物部悟は、トイレの個室で、壁に頭を叩きつけながら、必死に祈っていた。
「もうタバコも酒も絶対に辞めます…!」
身体がガタガタ震える。
「これからは毎日、真面目に生きます…!」
尋常じゃなく腹が痛い。
脂汗でワイシャツが濡れる。
胃と腸を、誰かに素手で握り潰されているような痛みだった。
(だからお願いします!この腹痛だけ、何とかしてください……!)
神様がいるなら、今だけは本気で信じる。そう思った。
――限界を迎えた、その瞬間。
痛みが消えた。
「…………治った?」
恐る恐る腹を撫でる。痛くない。
地獄からの生還。
俺はしばらく便座に座ったまま、放心していた。
やがて立ち上がる。しかし、足に力が入らない。
それでも、俺にはやらなければならないことがあった。
煙草だ。
◇
いつもの狭い喫煙室、いつもの場所で、いつものように煙草を吸う。
命の危機を乗り越えた後の一服。
これ以上の贅沢が、この世にあるだろうか。
ポケットから煙草を取り出し、一本咥える。
ライターを手にする。
カチッ。
小さな火が灯る。
深く息を吸い込み、そして、瞬きをした。
「…………え?」
暗かった。
暗いなんてものじゃない。完全な闇だった。
「……は?」
俺は煙草を咥えたまま、固まった。
さっきまであったはずの蛍光灯がない。空調の音もない。
社員たちの話し声もない。
何も聞こえない。
「……何だ、これ」
鼻を突く、嫌な臭いがした。
カビ、湿った土、腐った植物。
そして、どこからか下水にも似た臭い。
さらに、妙な違和感。
俺はゆっくりと目線を落とし、足元を見た。
見えない。
だが、革靴の底から伝わってくる感触がある。
これは床じゃない、ましてやアスファルトでもない、泥だ。
ぐにゃりと靴底が沈む。
脳が理解することを拒む。
(俺、会社にいたよな?)
「……どうなってんだ?」
俺は手元を見た。
暗闇の中、煙草の先だけが赤く光っている。
それ以外には、本当に何も見えない。
――カサッ。
「…………!」
すぐ近くで、何かが動いた。
俺は息を止めた。
暗闇の中。何かがいる。
(何だ……?)
声を出していいのか分からない。逃げるべきなのかも分からない。
俺が固まっていると、
――ガサッ。
今度は、はっきり聞こえた。
「……あ」
思わず声が漏れた。
突然、風が吹いた。木々の葉がざわめき、雲が流れる。
建物の隙間から、淡い月明かりが差し込んだ。
少しだけ、 周囲が見えるようになった。
古びた壁、泥、石畳、そして遠くへ続く細い路地。
(……月?)
俺は空を見上げた。
雲の切れ間から、月が覗いている。
「……よかった」
何がよかったのか、自分でも分からない。
ただ、完全な闇ではなくなったことに、少しだけ安心した。
その時、小さな人影が見えた。
「……子ども?」
目を凝らす。
月明かりに照らされ、ようやく相手の姿が見えた。
少年と少女だ。
「――ひっ!」
子どもたちの悲鳴が重なった。
「お、お化け……!」
バチャバチャバチャッ!
子どもたちは泥を蹴りながら、必死に走り去っていった。
「ちょ、待って!」
反射的に声をかける。
だが、足音はどんどん遠ざかっていく。
(何で逃げるんだ?)
俺は自分の姿を見下ろす。
ジャケット、ワイシャツ、 スラックス、革靴。
いつもの格好だ。
(……お化け?)
そんなわけがない。俺はどう見ても人間だ。
……たぶん。
子どもが、あんなに必死で逃げて行った。
ということは、
(……この近くに、俺以外にも何かいるんじゃないか?)
そう思った瞬間、背中が冷たくなった。
「……まずい」
ここにいるのは危険だ。理由は分からない。場所も分からない。
だからこそ、人がいる場所へ逃げなければならない。
俺は煙草の小さな赤い灯を頼りに、ゆっくり歩き始めた。
◇
一方、逃げた少年少女は、必死に走っていた。
「急いで!」
「お姉ちゃん……!」
「振り返らないで!」
弟の手を引きながら、少女は何度も後ろを振り返る。
追ってきていない。
それでも、とにかく怖かった。
暗闇から突然現れた、あの異様な男が。
少女は弟の手を強く握った。
「……人のいるところへ行こう」
二人は走り続けた。
◇
俺は、ゆっくり歩いていた。
足元は泥。壁に手をつきながら、慎重に進む。
一歩、また一歩。
やがて、泥の感触が消え、足元の感触が硬くなった。
「石…?」
どうやら、石を敷き詰めた道、らしい。
こんな道、見たことがない。
俺は立ち止まり、周囲を見渡した。
遠くに、小さな光が見えた。
「……明かり?」
街灯ではない。暗闇の中に、ぽつんと浮かんでいる。
よく見ると、建物から漏れる明かりだった。
(人がいる……!)
俺はほっとした。助かった。
少なくとも、あそこには人がいるかもしれない。
俺は明かりを目指して歩き進めた。
◇
同じ頃。
スラムの酒場――『クロックド・クラウン』
店内では、姉弟の話を聞いた店主が、露骨に面倒そうな顔をしていた。
「……お化け?」
グラスを拭きながら、吐き捨てる。
「こんな夜中に、何を見たか知らねえが……騒ぐなら、外でやれ」
「本当にいたの! 真っ黒な服で、指が赤く光って……!」
少女が必死に言い返す。
「ここじゃ、そんな奴、珍しくねえ」
店主は興味なさそうに言った。
「でも……!」
周りの男たちも、特に助けようとはしなかった。
「お化けだってよ」
「酔っ払いでも見たんじゃねえか?」
「放っとけ」
誰も本気にはしない。姉弟は顔を見合わせた。
頼れる相手がいない。
カウンターにいたガルニエの脳裏に、賞金首の話が蘇った。
人身売買、裏通り。何か関係しているのではないか。
ガルニエは立ち上がり、姉弟のもとへ向かった。
「そいつは」
姉弟に話しかけようとした、その瞬間
ギィィィ……。
酒場の扉が、ゆっくりと開いた。
視線が、一斉に入口へ向く。
◇
少しずつ、建物の輪郭がはっきりしてくる。
古びた木造の建物だった。窓から明かりが漏れている。
近づいていくと、中から人の声も聞こえてきた。
俺は、少しだけ足を速めた。
人がいる。間違いない。
やがて、建物に掛かる古びた看板が見えてきた。
文字が書かれているが、読めない。
それでも、看板の中央に描かれた妙なマークだけは分かった。
少し傾いた、左右非対称の歪んだ王冠。
そして、その中央から酒が、だらりと流れ落ちている。
(なんだ、このデザイン。)
王冠なのに、妙に傾いているし、酒まで流れている。
「……酒場?」
俺は、その前で足を止めた。
目の前には、古びた木の扉。その向こうから、人の気配がする。
(よかった……! 人がいる!)
ここなら、少なくとも一人ではない。
俺は扉へ手を伸ばした。
だが、一瞬だけためらった。
(……怖いな)
中にいるのが、どんな人間なのか分からない。
それでも、外にいるよりはまし、か。
俺は意を決して、扉の取っ手を握った。
ギィィィ……。
古い扉が、ゆっくりと開いていく。




