綾蝶王女 上
綾蝶王女は、一度だけその側室に会ったことがある。
正式な后は綾蝶王女の母ただ一人だが、一国の王である父の後宮には灼爛と咲き乱れる鳳凰木のように数多の妃嬪が仕え、寵を争っている。丈高い檳榔樹に囲われた王宮の奥庭には、領土の島々から磨きをかけられて入内し、あるいは異国の宮廷から船団を引きつれて輿入れしてきた、選りすぐりの女人たちが夜に日を継いで妍を競っている。
燃え立つように泡立つように瑞々しい花々は盛りを誇示し、宮殿を席巻し、しかし時に一顧だにされることなく末枯れていく。息苦しいまでに密生し、狭い土中で根と根を絡みひしめかせた花の蜜に、毒が養われていくのも自明のことだった。花園には危険が満ち、警戒を怠った幼い命が暗い手によって葬り去られることもしばしば起きた。
王女の母は、北東にある雪と桜の国の皇家から政略によって嫁いできた人で、正后として冊立されてからも、この国の暑熱に苦しんだ。線が細く小柄な后が、綾蝶王女と兄の双子を無事に出産できたことは奇跡とまで称され、国中を驚かせた。体調を崩した母が倒れるようにして寝込むと、幼い綾蝶王女はいつも枕元で蒲葵扇を煽ぎ、兄は甘橙の果汁を絞った飲み物を運んでさしあげ、蒼白い顔で力なくほほ笑む母上にかわるがわるお頭を撫でていただくのだった。
深窓の後宮に一歩足を踏み入れれば、二度と生まれ故郷に戻ることのない后妃らは、国元のしるしとなる花樹を各々の舎殿の中庭に植え付け、せめてもの目の慰めとする。だが、王女の母の持ち込んだ山桜の苗は、いかに宮仕えの庭師たちが手を尽くしても根付かず、花をつけることもなく傷んで枯れ、后を悲しませた。――嫉妬深い妃の一人に仕える端女が、密かに幹を害し、土を穢したのだという噂もあった。
手弱い正后を苛むのは、煮え返るような酷暑ばかりではなかった。蒲柳の質の后の後釜を狙わんとする妾妃、我が子こそを世継ぎにと機会を窺う庶子の母妃は、表立つことはなくとも後を絶たず、獲物の周囲を泳ぎ回る鮫のように、異国人の后とその嫡子らを取り巻いた。煙るような睫毛から涙をぬぐった后は、かぼそい腕を伸ばし、父の血を示す暖かな小麦色の肌をした二人の御子をひしと抱きしめた。
一人で母の舎殿の外に出てはいけない、母の腹心の女官たちの目の届くところにいなければならない、というのが、綾蝶王女と兄王子に課された掟だったが、王女はそれを破ってしまったことがある。
そそっかしい宮女の一人が唐猫を逃がしてしまったのだ。西大陸の帝国の大使から籠に入れて贈られたものを、父王がわざわざ母上に下さったというのに――ほかの妃の舎殿に入り込んで虐められているかもしれない、餓えて弱っているかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられず、王女は自分もこっそり抜け出して捜すことにした。女官たちに相談すれば猛反対され、とんでもないことを言い出した用心として監視付きで御座所に閉じ込められるに決まっているから、黙って実行した。
枯死した桜の苗木一つを、典雅な母上がなりふりかまわず惜しむことはなかったけれど、内心でどれほど胸を痛められたか、王女は知っている。猫に同じ轍を踏ませるわけにはいかないと、幼心に固く決意したのだ。
だが、意気揚々とした出発とは裏腹に、当然のことながら王女の華奢な足一つでは、広大な奥向きの探索ははかどらなかった。そうしているうちに、だんだん脹ら脛や足の裏が痛くなってきて、情けなくべそを掻きながらうろうろしていると、後宮の外れに行き着いてしまったのだった。
厨房や召使い部屋に近接したこの一角は、子のなく、寵も薄れた妃たちの逼塞する場所だったが、王女は知らなかった。髷に一筋のほつれもないお抱えの女官たちが滑るように裳裾をさばき、つややかな青磁の香炉から天女の吐息のように白檀の香煙がくゆる、洗練された母の舎殿の様相とは懸け離れていた。踏み古された回廊を行く人々の足音は荒く、油断ならない隙間風が節の浮いた板壁を吹き抜けるのも、乳母日傘にはぐくまれた王女を怖じ気づかせた。
ただ、うらぶれた茅葺きの軒のいずこからか、規則正しい機の音と、楚々と口ずさまれる機織り唄が聞こえ、それが妙に優しく懐かしく耳を打った。思わず足の痛みも迷い猫のことも忘れ、心惹かれて音のする一室に近付いた。
「何を織っているの?」
そよ風のように呼びかけると、機の前に腰掛けていた女人は驚いたように口をつぐみ、振り返った。飾りけなく束ねて結っていても、隠しおおせぬ豊かな黒髪は、月のように形良い瞳を漆のように引き立てていた。
「……あら、こんな場所にも客人が」
闖入してきた王女を見下ろして呟き、ほほ笑みを浮かべる。巴旦杏のような美しい目をしているが、木犀の花のように儚い、どこか悲しげな微笑だった。敵意は感じられなかったので、王女は馴れ馴れしくまとわりついて手元を覗き込んだ。
「機織り、お上手ね」
「まあ、ありがとうございます。わたくしの母が、縫いと織りの技に長けた人だったのです。母の気を惹きたくて、わたくしも修練しましたの」
いとけない王女にも、その側室はうやうやしい口調を崩さなかった。
「そうなの。とても素敵。もちろんあなたのお母様はうんとお褒めになったのでしょうね、こんなにお上手なのですもの」
たおやかな手元に広がる綾目の見事さに王女は感嘆のため息を漏らしたが、女人は黙して答えず、ほほ笑むだけだった。
「ねえ、もう一度、さっき歌っていたお唄を歌って」
頑是なくねだると、女人ははにかむような表情を見せたが、ついには折れて王女の願い通りに歌ってくれた。満開の花の房をくすぐる南風のような、浜辺の貝殻を洗い清める夕波のような、どこかで聞き覚えのある不思議な調べだと、王女はじっと耳を傾けながら思う。どこで聞いたのだったか――兄と一緒に、二人で寄り添いあいながら聞いていたような気がする。外敵のいない、温かく閉ざされて、心地良く守られた場所で……
歌い終えた女人は目を細め、小さな頭をひねって考え込む王女を静かに見つめた。ほっそりとした腕が伸び、そっと王女の髪を撫でるような素振りをしたが、触れる寸前に肘を引いた。何かを封じるように両の手の指を絡め、目を伏せる。
「あなたもお母様の元にお戻りにならなくては、王女殿下。きっと心配しておられます」
どこにも見当たらなかった唐猫は、いつの間にかしらりと戻ってきており、母の螺鈿細工の鏡台の上で丸くなって昼寝をしていた。人の苦労も知らないでのんきに眠りこける猫を、安堵と非難をこめて覗き込む。すると、ぴかぴかに磨かれた青銅の鏡の面に、もう一匹の猫ともう一人の綾蝶王女の顔が映った。
側室が歌っていた機織り唄を、王女もいつしか口ずさんでいた。唇の上に音楽を遊ばせると、慈しみ深い腕に抱かれ、あやされているような幸せな心地になった。
歌いながら、鏡の前で笑い顔をしたり顰めっ面をしたりして一人遊びをしていると、何か靄がかったものが脳裏をよぎった。だが、その疑念に輪郭を持たせるには、王女はまだ幼すぎた。




