綾蝶王女 下
時は移ろい、過ぎ去った。綾蝶王女は、乳の香も失せぬ女童から、妙齢の巫女姫へと変貌を遂げていた。
ある年、領土の島々を疫病の嵐が襲った。薬師たちがどれほど手を尽くしても、神官たちがどれほど天に訴えても、嘲笑い玩弄するかのように病魔は猖獗を極め、掌から水のこぼれ落ちるようにむなしく人命は失われた。
蔓延した悪疫がようやく終息した後も、折悪しく野分の暴風雨が田畑の実りを手当たり次第に引きちぎり、容赦なく踏みにじった。塩害による不作と飢饉が広がり、国土と人心は荒れすさんだまま傷を深めた。
王府の指揮のもと、内政外交の要衝である本島の復興が優先され、苦痛に喘ぎながら更なる重税を負わされた属島の怨嗟はつのった。
湯玉の走るように、内乱が勃発した。
蜂起したのはあの機織りの側室の故郷で、逆賊との関わりを疑われた妃は廃され、後宮を追われた。
双子の兄の率いる討伐軍の旗艦に、綾蝶王女も同乗した。
港湾を離れ、海洋に漕ぎ出でた船は櫓をしまい、帆柱に帆をあげた。波間に照り返す日射しのまぶしさに、綾蝶王女は目を細める。手庇をした手の甲には、王族神女の一人であることを示す濃藍の刺青が彫り込まれている。
高揚とも不安ともつかない小波に、絶えず胸をざわめかせながら、王女は遠ざかっていく本島の入り江を振り返った。埠頭には、出征する兵士たちと別れを惜しみ、無事の帰還を願う見送り人が詰めかけている。護衛を従え、玉輦に駕して王宮から赴いてきた母后もその一人だった。
兄妹が遠征を命じられたことを知ると、柔弱な母は紙のように青ざめ、紫檀の脇息にすがりながら唇を噛んだ。父王の意図は明らかだった。並み居る群臣ではなく、あえて世継ぎの王子に指揮を執らせ、前線に立たせることで、度重なる災禍に損なわれた王家の威信を取り戻そうというのだろう。属島の反乱を招くほどに失政を重ねた王府にとっては窮余の策だ。だが、それは年若い王子が戦死する危険と紙一重なのだった。
兄も、そして戦勝を祈願する巫女として従軍するよう任じられた綾蝶王女も、やや表情を硬くしたが辞退することなく拝命した。国情がわずかな楽観も許さぬ瀬戸際にあることは承知していたからだ。兄は武官たちと軍議を重ね、船団を編成し、陣容をととのえた。王女は杜に参籠して祭歌を詠唱し、神意を伺ったが、武運の吉凶は漠として見顕せず、この戦の行く末を占うことはかなわなかった。
泣き腫らした目でそれらの様子を見守っていた母后は、後先なしに夫に直訴することも、自らの故国に働きかけて強引に決定を取り下げさせることも思いとどまった。御子たちの選択を重んじ、腕をほどき、望むままに行かせた。ただ、送り出す前に、震える指先で手ずから縫いあげた戦襖を兄王子に、斎衣を綾蝶王女にさしだした。
勾欄に手を添えながら、王女は前に向き直った。順風を受けて帆は膨らみ、船脚は速く、波頭を切って進む。背後の港はすでに芥子粒ほどに縮み、翠緑の島影に霞んで見えなくなりつつある。眼前には碧羅を折り重ねたような青海原が寥々と広がっていた。
兄も自分も、琥珀に閉じ込められた羽虫のように母の舎殿の内に守られ、外敵を恐れて身を縮めていたというのに――無力な雛鳥としてはぐくまれる時は過ぎ、いつしか巣から飛び立つ翼を手に入れて、牙剥く謀叛人たちと対峙し、血腥く干戈を交えようとしている。
属島の叛意を知らせる早馬が息せききって王府に駆け込んでくるまで、あの機織りの側室の存在は記憶の中の小さな影に過ぎなかった。綾蝶王女にとっては、父王の後宮に星の数ほどいる妃の一人だ。遠い昔にただひとたび、思いがけず出会い、短い言葉を交わしただけのこと。正直なところ、顔も名も忘れかけていた。
だが、見事な織り布と穏やかな歌声だけはうっすらと覚えている。それゆえに、反逆に連座させられた不憫な妃が、追放と幽閉とはいえ死罪を免れたことには密かに胸を撫で下ろしていた。
王女は水平線に思いを馳せ、波のまにまに航路を運ばれる我が身を顧みた。どこまでもひらけた空と雲の色を目に焼き付けた。手折られて玻璃の壺に生けられた花の匂いと、押し込められた女人たちの白粉の香の入り交じる、後宮の甍の下から、なんと懸け離れた場所まで来たことか。半ば人身御供として死地へ差し向けられることは分かっていたが、足緒から解き放たれた鷹のような冴え冴えとした心地で、不思議と恐怖は覚えなかった。
だが、袖を通した斎衣の、縫い目の一つ一つから、引きとどめる声を押し殺した母の悲嘆が、いつまでも肌身にまとわりついてきた。
王府の軍船は隊列を組み、雲霞のごとく沖から浜に押し寄せたが、反乱軍は海岸に陣取って死に物狂いに弓を引き、双方睨みあったまま戦況は膠着した。
互いに消耗し、官軍には船旅による疲労の蓄積が、反乱軍には戦力差による将兵の練達不足が、じりじりと兆し出した頃、おもむろに島の神女が波打ち際に進み出た。蔦葛を髪に戴き、樹枝を手に捧げ持っている。貫くような眼差しで沖を見据えた女は、流れるように舞い、白波を蹴立てて踊り、王府軍を呪った。空の風や潮の路に親和する、凄まじい力を持つ神女だった。
一天にわかに掻き曇り、稲光が暗雲を引き裂き、雷鳴が轟いた。滝のような豪雨が、船団めがけて降り注ぐ。海面は白く逆巻きながら荒れ狂い、高波は黒い山のように盛り上がった。舵を失った軍船の群れは木の葉のように荒海に揉まれ、軋みを上げ、転覆しかかった。
綾蝶王女は慌てふためく水夫たちを押しのけて甲板を駆け、舳先に飛び出して、ひたと浜を見据えた。
雨と波をまともに浴びた斎衣は重く手足にのしかかり、濡れた髪は頬に張りついたが、王女は胸のはち切れんばかりに息を吸い込み、朗々と呪歌を歌った。雲一つなく晴れ渡る蒼穹のなごやかさを祝い、花々をほころばせ赤子のゆりかごを憩わせるそよ風を褒め、船人や海女を生かして子の待つ家に帰す凪を讃えた。やがて風雨は止み、海は油のように静まった。
軍船は陸に漕ぎ寄せた。
島守一族は捕らえられ、斬首された。神女は辛くも捕縛を逃れて島の密林へ落ちのびたが、王女の兄は残党狩りの追手を差し向けた。丈なす黒髪を振り乱し、紅樹の根に足をとられながら、神女は獣のような強靱さで、憑かれたように駆け続けた。だが、次第に包囲の輪は狭まり、罠に嵌められた窮鳥のように、山中を追い詰められていった。
ついには逃げ場のない断崖へ続く悪路をひた走り、神女は身を投げた。残照を浴びながら、白い袖をひらめかせ、翅をもがれた蝶のように墜ちていった。
「あの神女、他人の空似とはいえそなたによく似ていたな。不思議なこともあるものだ」
何気ない兄の呟きに、綾蝶王女は血の気が引いた。
王宮では戦勝の宴が、武勲をたてた王子と王女を待ち受けていた。反乱を鎮圧した兄君が次期国王となられ、大海原の神の加護を受ける妹君が大君神女の座につかれるのはもはや時間の問題だろうと、めざとい宮廷人たちは手に手に祝いの品を掲げて馳せ参じた。
家鴨は羽を毟られ、山羊は腹を裂かれて、黒豚は丸焼きにされた。儒艮は首を落とされ、泥蟹は生きたまま煮え鍋に放り込まれる。祝宴のために、厨房には断末魔の鳴き声と血の悪臭が充満した。
なみなみと注がれる酒とくちぐちに浴びせられる阿諛追従は兄に押しつけ、人垣から離れた綾蝶王女は厩から白駒を引き出して鞍をつけた。口をつぐみ、胸の奥底に動揺の火種をくすぶらせたまま、馬にまたがると、王宮を抜け出した。
兄の戦襖と、王女の斎衣。布を裁ち、針に糸を通して、母后は二領の衣を縫いととのえた。だが、その布帛を機から織り上げたのは誰だったのか。梭を飛び交わせ、筬を打ち、糸に糸を費やして織り上げた布を、后の手にあずけたのは誰だったのか。巫女の血のそなえる直感が、王女の目を開かせ、帳の内の秘密を指し示した。
『わたくしの子どもたちを守れ。わたくしの子どもたちを害そうとする者は、死に絶えるがいい』
そう念じながら布に触れる女の声が、二重に重なる。
今、王女が青銅の鏡を覗けば、女童から木犀の花のように成長した娘が――あの側室の相貌とよく似た面差しが、物問いたげに見つめ返してくるのだろう。虚弱で子のなせない后に、自らの腹を痛めた王子と王女をひそかに託した女人の――一切の誉れを断って、日の当たらぬ場所で、物言わぬまま機を織り続けた人の。
――だとしたら、王女と兄が屠ったあの島の人々は。
誰に何を問えばよいのか、何も問うべきではないのか、王女は思い惑いながらひたすらに馬を走らせる。打ち棄てられた離宮を覆い包むような甘橙の木立に、馬は王女を乗せて分け入った。腐り落ちた実を、蹄が踏みにじる。
風に乗って、幻のように機の音が聞こえ、王女は思わず手綱を引いた。言葉を失い、しばしその場を動けずにいた。




