雲風姫 下
いつしか舞い手として島を越えて名を知られ、召し出された豊節祭も、雲風姫は霊鎮めの場と思いさだめて臨んだ。
領土の島々のみならず外つ国からも商船が漕ぎ寄せ、水牛に牽かせた屋形車のしげく行き交う王都の殷賑も、姫の目には入らなかった。郷里では最も広壮な島守屋敷がまるで竹編みの小箱に等しい、朱漆もけざやかな王宮の威容を目の当たりにした時も、姫は心を動かさなかった。舞姫の朋輩たちから、身の程知らずの田舎娘と小声でそしられても、姫は耳を貸さなかった。
大君神女の膝下の、あらたかな霊地で踊ることにのみ集中し、潔斎をして広袖のあでやかな紅衣に袖を通し、花笠の緒をきりりと結び、金泥の扇に指を添えた。雲風姫はただひたすら音律に身をゆだねて無心に舞い踊り、観衆の目をことごとく奪ったが、それすら姫の心に掛からぬことだった。
国土の弥栄を祈る群舞の終盤、桟敷の楽師たちが奏でる管絃や鼓の調べに合わせ、足を引いて力強く旋回した時、ふと姫は目が眩んだ。舞台の暑熱にあてられたのだろうか。踊り続けながら、するりと心が肉体のくびきをすり抜け、金緑の風の中に浮かんでいるような心地だった。蝶のように扇を遊ばせると、母の我執が薄らいでついには空無に溶け去るのが分かった。
凄まじいまでの霊威が手の内にあったが不思議と恐ろしくはなく、無垢な嬰児のようにほほ笑むと、耳元に渦巻く風音があえかな言葉を形作った。
『一人は神に娶られ、一人は王に娶られる』
天をどよもす満場の喝采が、姫を我に返らせた。ほかの舞姫たちからわずかに遅れて舞台袖に下がりながら、今しがた聞いたはずの言葉が、姫の耳の奥でこだました。
舞い終えた娘たちは王宮に呼び集められ、御前で褒賞された。
特に舞踊の巧みであった姫君には真珠の簪が下賜されるとして、王族筋のやんごとない息女の名が呼ばれた。あらかじめそのような段取りだったのだろう。雲風姫は悔しさすら覚えず控えていた。それよりも、無事に母の菩提を弔えたことに心安らいでいた。だが、姫の代わりに憤った者がいた。
簪の授与が終わるか終わらないかという時に、つつましく目を伏せた雲風姫の前に影がさした。当惑しながらそっと目をあげると、深緑の礼服をまとった若者が姫の前に立っていた。恐れを知らぬ若獅子のような眼差しで、彼は姫を見つめていた。
「私にはそなたの踊りが最も美しかった。まるで地上に降りた天女のようだった。もし良ければこれを受けてくれ」
日に灼けた頬にまだ少年の名残りのある貴公子は、自らの喉元から琥珀を連ねた首飾りを外した。不正への怒りに燃える瞳は凜々しく、姫は我知らず頬を赤らめた。答える声は消え入るようにかすれた。
「頂戴致します」
甘橙の実のような琥珀の首飾りを受け取ってから、雲風姫は目の前の若者が世継ぎの王子であることを知った。
郷里の島へと戻る船の中で、姫は首飾りの紐に指を絡めながら、王子の面影を繰り返し思い浮かべた。一人は王に娶られる、という言葉を反芻する。体の奥深い場所に火花が散るような心地だった。
潮に押し流されて運ばれるように、雲風姫を取り巻く物事はすでに動き出しており、島守は姫を王子の後宮にあげるための支度をととのえた。島の女たちは老いも若きも駆り出され、糸を紡ぎ、機を織り、布を染め、衣を縫った。長櫃や葛籠がずしりと重みを増した頃、島守は神女に船出の日を占わせた。
勾玉を首に下げ、祝詞を唱え、吉凶の神託に耳をそばだてた神女は、なぜか息を呑んだ。そして、青ざめた顔でこう言った。――行かせてはならぬ。姫の産む王の子どもらは、島に災いと滅びをもたらすであろう。
島守でさえ、神女を介した神の声に逆らうことはできない。
だが、ここまで万端に準備をととのえ、根回しを行なっておきながら縁組みを反故にすれば、王家との間に軋轢を生む。
雲風姫は渚に立ち尽くし、茫然と裳裾を汐水にひたしながら、澪を引いて岸を離れていく船を見送った。喉元に掛けた琥珀の首飾りが海風にやるせなく揺れ、触れあってわびしい音をたてる。人々は痛ましげに姫から目をそらした。
王都へと発つ船には、嫁入り道具と共に、王子と祝言を挙げて彼の後宮に召される姫君が乗っている――島守の二の姫、身代わりとして、雲風姫の妹が。
港から連れ戻された雲風姫は、島守屋敷の裏角に建てられた小さな舞殿で、踊った。
楽人も客もいない。あるのは草木と虫ばかり。あの方にもう一度見ていただくために、稽古を重ねた踊りだった。最も美しいと、天女のようだと、褒めてくださったあの方のために……
誰も止められる者はいなかった。息が上がっても、手足が痛んで血を噴いても、姫は構わず踊り続けた。繰り返し繰り返し、行き場のない心の形をなぞり続けた。一人は神に娶られ――王に娶られる一人とは、雲風姫のことではなかった。滑稽な話だ。姫は声もたてずに噎び泣きながら己を嘲り嗤う。
日が昇り、沈み、月が昇り、沈んだ。飲まず食わずのまま踊り狂れるうちに、ついに限界が訪れた。足元がふらつき、膝が立たなくなり、舞殿の床に倒れ込んだその時、雲風姫は首飾りの紐がちぎれ、うなじに疼痛が走るのを感じた。そして、蛇が皮を剥ぎ捨てるように、蛹から蝶が羽化するように、姫はするりと肉体を脱した。
虚空に浮かんだ雲風姫はゆらりとほほ笑んだ。翅があれば、船などなくても海を越えられる。あの方のそばへ行ける。
島を飛び出し、波濤を眼下に、姫は疾風のように天翔た。満天の星々を砂遊びのように掻き乱し、飛び交う鰹鳥たちを逃げ惑わせる。陸にあがると、棗椰子の林を薙ぎ倒し、赤木の巨樹の梢を折った。睨みをきかせる強面の番兵たちの頭上を飛び越し、珊瑚の石垣をまたぎ、島瓦の楼門を乗り越え、夕闇の立ちこめる王宮の奥庭まで難なく侵入した姫は、真新しい舎殿の窓辺に這い寄った。ためらいもなく窓枠を揺さぶり、軋ませる。
「妹よ、開けてちょうだい」
部屋の奥から、はっと息を呑む声がする。
「お姉様――お姉様なの? どうやってここに」
「開けてちょうだい、わたくしを中に入れて、早く」
聞き分けのない女童のように、地団駄を踏んで雲風姫はせがんだ。
「夜になれば、あの方がここにいらっしゃるのでしょう。あの方はわたくしのもの。わたくしだけのもの。だから、早く入れて」
「……お姉様」
訝しげだった妹姫の声が徐々に怯えをつのらせていくが、雲風姫は拳で窓を叩き続けた。
「早く、早く」
「少し――少しだけ待ってください。準備を致しますから……」
妹姫の声が遠ざかり、代わりに朧な煙が窓覆いの隙間から細くたなびいてきた。それを吸った途端、雲風姫は息が詰まり、喉を押さえて後ずさった。月桃の香り、魔除けの香が焚かれたのだった。
「お姉様、お姉様、目をお覚ましになって。お姉様ともあろう方が、あんまりです」
涙声の懇願に、雲風姫は手負いの獣のような野太い唸り声を上げた。
「ざまを見ろと思っているのだろう、いい気味だと嗤っているのだろう」
「思っておりませぬ! 神掛けて、そのようなことは」
「許さない。お前だけは決して許さない」
喉を嗄らして叫ぶ。ざらついた咆吼が響き渡る。
「わたくしがあの方の子種を賜ることも許されぬというなら、わたくしの子どもたちがこの世に生まれることさえ祝われぬというなら、お前の胎も呪われるがいい。百人でも千人でも、お前の子どもを呪い殺してやる。お前の子は、お前の腕の中で弱って死んでいくがいい」
きらびやかな王宮の情景が粘土のように歪み、泥濘のように攪拌された。目を回して倒れ込むと、そこは島守屋敷の舞殿で、雲風姫は冷たい板の間に頬をつけ、横たわって気絶していた。千里を駆け抜けた馬のように疲弊し、指一本ろくに動かせない。
(あれは夢だった。ただの夢。わたくしは、悪い夢を見ただけ……)
ちぎれて散らばる首飾りの琥珀を目で追いながら、必死で自分にそう言い聞かせる。しかし、わずかに首を揺らした途端、つんと月桃の香りがたち、姫は堪えきれぬ悲鳴を上げた。
魔を祓う煙の残り香は、雲風姫の髪に染みつき、淡やかな匂いを振りまいていた。




