雲風姫 上
島守屋敷の裏角に建てられた小さな舞殿で、雲風姫はひとさし踊った。
楽人も客もいない。心の中で静かに拍を取りながら踏み込むと、くるぶしに巻いた鈴がひそやかに震えた。秋闌けた夜風に揺すぶられる棕櫚や蘇鉄の葉擦れ、叢林にすだく松虫や笹切の音色だけが、清かに流れる水のような一人舞にしゃらしゃらと歓声を送る。
たとえ笛や太鼓が麗々しく奏でられずとも、指先一つ、振りの一つに至るまで姫はおろそかにしなかった。優美な水鳥のように両腕を広げ、しなやかに袖をひるがえすと、眼裏に灼熱の日射しがよみがえる。
先の夏、王府の豊節祭の舞姫の一人に選ばれ、燦爛と光をはじく化粧石の舞台で踊りを披露した。舞姫の一団は本島の王侯貴族の令嬢から構成されるもので、地方領主の一の姫とはいえ鄙びた属島から推挙されたのは雲風姫だけだった。
歌舞に秀でた娘は、移ろう風や波に親しみ、見えざる神々に感応する巫女の素質に恵まれているという。
四歳のみぎり、乳母に手を引かれながら男子禁制の聖所に詣でた雲風姫が、まだあどけない手振り足取りで稚児舞を奉納した時、高床から見守っていた神女が即座に姫の祭殿入りを打診したことは語り草となっている。ご自身の後継者として育てたいと申し出ておいでです、と乳母は興奮した口調で雲風姫の両親に報告した。
島々の政治は代々の島守の男が担うものだが、占を行なって祭祀を司り、神託をあずかる神女の権威は、時に島守のそれを凌ぐ。豊作や豊漁を求め、祭殿に寄進を行なう島民は絶えないからだ。
本島の王府から五十余りの諸島を支配する国王ですら、島々の神女たちの頂点に君臨する大君神女のもたらす託宣をむげにできない。
一族から神女を出すのは悪い話ではないと一考した雲風姫の父に対し、母である真南風姫は頑として首を縦に振らなかった。
「この子は並ならぬさだめを負った子です。祭殿に操を捧げ、島に縛られて一生を終えることなどよりも、大きなさだめを」
母が謎めいた眼差しで雲風姫を見つめながら拒むと、父である島守は神女の提案を保留せざるを得なかった。雲風姫と同い年の跡取り息子を外の女に産ませている父は、母に対して負い目があった。
幼子を奪われたくないがゆえの方便であろうと、彼は呑み込んだ。妻が溺愛するのも頷ける、巴旦杏のような目をした美しい子だ。今ですら咲きほころぶ前の蕾の愛くるしさであるものを、妙齢ともなれば輝くばかりになるだろう。恋知らぬ巫女として社に奉らずにおけば、思わぬ貴人に見初められないとも限らない――いずれにせよ、急ぐ話ではない。この先、妻の意向が変わることもあろう。
この時、真南風姫の腹には二人目の子どもが宿っており、まもなく臨月だった。
しかし、二の姫が産まれても、真南風姫の態度は毫も変わらなかった。雲風姫は幼く、その奇異さに不審がるすべすら知らなかった。つぶらな目をした仔犬の無邪気さで、新しく生まれた妹に母が心奪われなかったことを手放しに喜び、周囲の侍女たちが眉を顰めて目と目を見交わすことに気付かなかった。
やわやわとした壊れやすげな手足をばたつかせ、優しく抱きとる腕を求めて呱々の声を上げる乳飲み子を、しかし真南風姫は触れようともあやそうもしなかった。何も見ず、何も聞こえなかったかのように、呼び寄せた雲風姫に頬ずりしながら、母は蜜を吸ったようにうっとりと囁いた。
「あなたを孕んだ時にだけ、わたくしの夢に神が顕れました。あなたは特別な子です、あなただけが……」
二の姫が裳裾にまとわりついて甘えても黙殺する母に、違和感を覚えたのはいつからだろう。雲風姫を舐めるように愛しがりながら、同じ腹から産んだ妹を冷ややかに押しやり、疎んじ、遠ざける母を薄ら寒く見上げたのはいつの頃からだったか。
母は雲風姫の衣裳だけを手ずから縫い、妹姫の着物は捨て置き、針をとろうとすらしなかった。
雲風姫に、母はいったい何領の綺羅錦繍を粧わせたことだろう。地紋の織り込まれた綸子緞子、小波よりも繊細なひだをなす下裳、夕星や花垣を縫いとめたような飾り帯――地味な紺絣をまとってうつむく妹姫の前を、母はいつも足早に素通りした。雲風姫一人に尽くすことだけが彼女の生き甲斐であり、ほかにそれを分け与えるゆとりはないとばかりに。
ある時、いつものように苑をそぞろ歩いていた母は、日蔭の羊歯の茂みに潜んでいた鎖蛇に足首を噛まれた。急いで侍女が清めた小刀で傷をえぐったが間に合わず、猛毒はみるみるうちに全身に回った。
熱病に冒されたように朦朧とし、ついに死の床に臥せってからも、母はうわごとにさえ雲風姫の名前しか呼ばなかった。枕元には木犀の花のような少女に成長した妹姫もひっそりと座していたというのに、母は最期まで雲風姫だけを熱に浮かされたまなこに捉え続けた。
時ならぬ母との永訣に胸潰れ、その死を悼み悲しみながらも、一方で今際の際にさえ薄れることのなかったその執着が恐ろしかった。喪が明けてからも、ふとした拍子に暗がりから姫を絆す母の眼差しを感じた。衣桁にかけた打掛の袖裏から、ひとけのない廊の果てから、影の落ちた部屋の隅から――樹皮に寄生する地衣類のように、するすると無数の腕をのばし、搦め捕ろうとする気配を。
あなたを残して逝きたくなどなかった、もっとあなたの傍らであなたを見守っていたかった、という絶叫と渇望とが、どろりとした死の淵から、炎を孕んだ熱風のように姫に向かって突進してきた。この世の外のものに触れる巫女の血が、雲風姫にそれを警告した。
姫は、汗のにじむ手で香炉に月桃の香を焚いた。月桃には魔除けの効があり、煙をくゆらせると母の気配は後退するように思われた。そして、姫はますます舞に打ち込んだ。己の舞が神々から祝福されるものならば、よどみに囚われた母の魂を鎮めることもできるかもしれない。海の彼方の楽土へ送り出すことができるかもしれない。
祈りをこめて、雲風姫は袖を振り、拍を踏んだ。




