ノエル編 17
盗み見るなりすぐさま書類の影へ引っ込んだ陛下、ちょっと我が目を疑っております。
てっきりフローディオが半泣きで縮こまっているものと予想していたのですが、現実はまったく違っていたものでして。
(泣いておらぬ、だと?)
背筋を伸ばしたまま、泣くでもなければ笑うでもなく、荘厳の山百合のように静かに俯き佇んでおりました。
感情が見当たらない白い面には、どこか寒気すら伴います。空疎で、希薄で、ひどく果敢無くて――
(……背筋が冷えた?)
ぞくりと妙な悪寒に襲われた赤獅子陛下、ふと思い出したのはついこの間知ったばかりの絶望です。
城の裏の林でフローディオが迷子になった日のこと。どれだけ探しても想い人の姿が見つからず、胸を千々に引き裂かれるような不安に苦しみましたした。
フローディオはすぐそこにいるはずなのに、どうしてこんな恐怖に襲われる必要があるのか。勘が先立つばかりで、理屈では陛下にもよくわかりません。
このままではいけないと理解しがたい警鐘が胸の内でかき鳴らされれば、陛下のペンを持つ手はそれ以上動けなくなってしまいます。
道理はわからずとも、勘で生き長らえてきた身の上です。無視し難い危機感にせき立てられた陛下は、これ以上黙っていることなどできそうにありません。
(ええい……!)
無策のままついに赤獅子が立ち上がると、フローディオが控えめに振り向きます。いくら人形か木石のように静かに座っていたところで、生きているのですから当然でしょうが。
チラと盗み見るような窺い方には、陛下は何故か安堵を感じました。その直感を度し難く感じつつ、です。
近くまで来て、さてなんと声をかけたものかと座るのも忘れて逡巡する陛下。
微妙に重苦しい空気の中、意外にも先に口を開いたのはなんと、フローディオのほうでした。
「もうお仕事はよろしいのですか?」
視線を逸らしたまま問いを投げられ、虚を衝かれた陛下はどぎまぎします。
「う、うむ。」
「……では、」
座り損ねて居場所を失っている陛下の前で、座る場所を勧めるのではなく自分もまた立ち上がるフローディオ。やはりやたら綺麗なばかりの真顔で、まずは美しい所作で緩やかに腰をおろし、床へと膝を突きます。
「本日はご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。お叱りも、罰も、謹んでお受けいたします。」
見慣れたつむじがいつもよりずっと低い場所にあるのを眺めながら、陛下は深い悔恨で天を仰ぐばかり。
(だ、黙っておった間に妻殿の中で問題が深刻化しておる……!)
顔を引っ叩かれたり約束をすっぽかされたりといろいろありましたが、未だかつてこんな展開なかったわけですから。自分が口を閉ざしていたせいで、フローディオにそうとうストレスがかかっていたとしか思えないじゃありませんか。
撤退か全滅かを迫られてもプライドが邪魔して正常な判断ができない駄目なタイプの魔王……みたいな渋面を片手で押さえると、額の脂汗が指を湿らせます。こんなことならやっぱり馬車に乗ったタイミングあたりで口下手なりに本音を打ち上げればよかった! 赤獅子ともあろう男が、意気地のない己にほとほと情けなくなります。
少し悩んだ末、陛下は降ろされっぱなしのつむじに向かって、なんとかやっとこさ、本音を伝えることといたしました。
「……もうよい。終わったことだ。」
だから座れと言おうとしたのも束の間、面を上げたフローディオが安堵どころか恐怖をあらわにしていたため、陛下は二の句を継ぎ損ねます。
「私にはもう興味がありませんか……?」
(ぬ!?)
震える声で尋ねられて、どうして驚かずにいられたでしょう。
「違うぞ違うぞ!! そうではなくて!!」
うっかり大声で否定を重ねてしまったと同時、やってしまったと、陛下は思わず憔悴します。案の定、目の前の華奢な想い人は身を竦ませておりましたし、安心させたいのにこれでは逆効果ではないかと無用心を呪うしかありません。しかし。
「でも、償いの機会もいただけないなんて……」
いや、今しがた謝罪したばかりではないか。と陛下は思ったのですが、フローディオのお顔は真っ青。なぜか無罪放免がよほど恐ろしいようで。
「償うと言われてもだなぁ。」
謝罪なら今しがた聞き入れたばかりですし……、と戸惑う陛下の不用意な言葉をきっかけに、フローディオがまたおずおず申し出ますことには。
「てっきり、それで閨に呼ばれるものと思っていたのに。」
閨。
――致したい。
(そうではなくて! そうではなくて!!)
罰として呼ばれたと、やはり勘違いさせていたみたいです。理由なんてどうでもいいから連れ込みたいのは確かなんですが。
「私でよろしければ、頑張りますから……!」
「!?」
「多少手解きも、受けたことが、あ、ありますし……!」
「!?!?」
ちょっとそれ詳しく!! なんて咄嗟に言い出せるはずもない青臭陛下。なにより神妙に爆弾発言を繰り返すフローディオは悲痛な面持ちのままでありますし、とどめは視線を泳がせながら、辿々しい口調でのこれであります。
「じょ、上手では、ないと……思います……が……!」
(妻殿が積極的、だと……!?)
何も考えず快活な二つ返事で連れ込みたい気持ちに襲われました。衝撃を持て余した陛下、改めてフローディオの胸元とか腰つきとか唇とかをじっと眺めてしまいます。ごくり。
(いや、だからだな! 俺!!)
そろそろ賢者にでもなれそうな性欲ボルテージの乱高下に振り回されつつ、望んだ初夜がこれではないことを自分に言い聞かせるばかりです。
「だから怒っておらぬのだと……」
上目遣いでじっと見つめられると、魔王顔と恐れられる赤獅子王も言葉に詰まろうというもの。そんなぷるぷる震えているのに、なにがフローディオをそこまでさせているというのでしょう。
「妻が夫に許しを乞う時というのは、そういうものでしょう……?」
「……。」
不可解な警鐘を鳴らしていた自らの勘が間違っていない理由を、なんとなく察する陛下でした。
(これは、あれか! 育ちの問題なのかっ!!)
そういえば、前にもありました。ありました。自分のことを「陛下の所有物」と言い切り、陛下の気遣いに対して「剣や乗馬を嗜む妻が欲しいのですか」と尋ねたりしたことが。
母国では「穏やかに過ごせ」と神殿に言われ、それを多感な十五歳になっても疑いもせず受け入れていたポンコツ王子です。人前で素足を見せぬよう徹底され、五歳からは蝶と戯れることさえ禁止されていた筋金入りの箱入り。
挙句、国家転覆も気分次第な力を持ちながら「特に利用価値のない力ですし。」と言い捨てたり。
控えめながらもやっと人並みに感情や自主性を見せるようになってきたかと思いきやこの有様。自分というものが足りず、まるで――
(そうか……。)
陛下にはやっと想い人の生い立ちが見えたような気がいたしました。
愛らしく無垢な人形です。
甘やかな芳香を垂れ流す白百合のごとくして、必要とあれば脚さえ開ける。そんなもの。
(黙って微笑んで座っていればいいと……? なんと愚かな……。)
感情が見当たらなかった先の態度こそ、母国にいた頃のフローディオの姿だったのでしょう。『やりたいことを想像する材料がそもそも欠けて見える』、『静かすぎるくらい』、そんなサラの言葉を思い返せば、今でも何もない時には日がな一日ああしているのではなんて不安すら湧いてきます。
「……とにかく座れ。」
嘆息混じりの、消沈した声でした。
未来の妻にいつまでも腰低くされるのも、お詫びの肉体言語も、ましてソファでなんて趣味もないつもりの陛下です。
しかしなんでか、フローディオには盛大な勘違いをされてしまったらしく。
「え? まさかここで……?」
「違う違う!」
そう、好みではありません。そんな命令だとかで身体を重ねるなんて、陛下の幸せ家族計画に反します。
さらに言えば「妻が夫に許しを乞う時は身体で誠意を見せる」なんて教義、陛下には疑問しかありません。誰がそんなことを吹き込んだというのでしょう。
(妻殿に問題があるのはわかっていたことだが、思っていた以上に根深いようだ。)
憤る以上に、どう対処したものかと、今はそればかりが陛下の頭を悩ませます。
身の振り方に悩んでいるのはフローディオも同じでした。陛下が手を差し出せばようやくおどおどと立ち上がり、勧められるままソファへかけ直します。
かといって陛下がその隣に座ると、またややこしい誤解が生まれてしまいそうです。
赤獅子と名高い男が座る場所に難儀するなんて妙な話でございました。迷った末、腰を下ろすのは諦めます。代わりに冷めた紅茶を手に取り、とりあえず立ったまま一服です。
目を閉じて平静を保とうとする陛下でしたが、残念ながら味はまったくもってこれっぽっちもわかりませんでした。その強面には見間違えようのない弱った表情がありありと浮かんでいますし、フローディオも相変わらず挙動不審マックス。きょどきょどと陛下のご尊顔を仰いだり視線を落としたり。
……あまり長いこと黙っていてはまた事態が悪化してしまいかねませんので、言葉を選びきれないままでも陛下は口を開くほかありませんでした。ゲフンゴフンと咳払いを重ねてから、渋面で話し始めます。
「そなたがあの娘を庇い立てした理由は、わからなくもない……。」
今ならば、ノエルを拾った日のことを振り返ると、陛下にも見えてくるものがあります。
雪蓮を蘇らせた時と同じく、ノエルを側に置くという王子のわがままには、きっと何かしらの理由があったのです。
気付いていたかはわかりかねますが、フローディオは最初からノエルにシンパシーを感じていたのかもしれません。少なくとも陛下はそう考えてしまいます。
「あの娘が望まぬ結婚をさせられそうであったから、余に結婚を迫られているそなたはああも意固地に庇った。違うか?」
ちょっと前まで恋愛ラリラリ脳だった陛下も随分成長したものです。我が身を省みてフローディオの気持ちを理解しようと、心を砕きに砕きながら真面目に考えた結果でした。
しかし陛下が進歩している間、ポンコツもポンコツなりに前に進もうとしているのです。
「それは違います!」
控えめな肯定だけを予想していた陛下は思わず目を丸くしました。
「確かに、ノエルに自分を重ねなかったといえば、嘘になります。でも……、私はあの時……、」
青白かった美相をぽっと赤くして、フローディオはやはり辿々しく告げるのです。
「陛下がいいと、……思い、ました……。」
今までの辿々しさとは少し違う、恥じらいのあるつっかえ方をして。
「……な?」
奇想天外が立て続けだったとしても、この言葉は陛下にとってまさに驚天動地。
ああちゃんと顔を見て言わなくちゃ、でもどうすればいいのかわからない。そんな挙動でちらと魔王顔を見上げて、徐に息を吸ったフローディオは頑張りました。
「……お慕いしております。陛下。」
生まれて初めて意中の人に好きと言われた赤獅子王。星が降ってきたみたいな唖然ぶりを隠すこともできず、カッコいいとはとても言い難い受け止め方しかできませんでしたが……。
「誠か……?」
その驚きの様相は、いつもの魔王顔が信じられなくなるほどに無防備で幼くて……臆病なフローディオをして可愛いと思わせるだけの見たことのない輝きぶりにございました。




