ノエル編 16
馬車が車輪を止めたのは後宮ではなく、王宮本殿の前でした。
黙したまま馬車を降りた陛下の後に従い、フローディオも最上階の禁裏まで自分の足で向かいます。
騒ぎの後でありますし、何かあったとわかる姿でもありましたが、フローディオはただ静かに顎を引いて背筋を伸ばして、好奇の視線を気にするそぶりもなく陛下の背中だけを見つめました。
先に湯浴みを済ませるようにと陛下は取り計らいましたが、フローディオ本人には口を利かないままです。目の前で侍女に短く指示を下して、それきりどこかへ行ってしまいます。
陽が沈んでいく頃合いに見知らぬ豪奢な湯殿で温かい湯にありつき、強張っていた身体がようやく緩んだ気がしたフローディオ。しかし心の方は安らぎとは無縁のままです。
(ノエルもちゃんと、休めているといいんだけど……。)
ガラス張りの天窓には星明かりが灯り始めておりました。この景色、果たして彼女も見ているものかどうか……。ノエルは後宮の地下に入れられているはずなので、ちょっと難しいかもしれません。
もちろんフローディオは、別にノエルに対して恋心を抱いているわけではありませんでした。思い返してみると胸を掴まされた感触も手に残ってはいるのですが、姉姫より大きいかな? くらいの印象しか残ってませんし。あっちにもこっちにも失礼なものです。
そんなこと以上にフローディオの脳裡に焼き付いているのは、ノエルが見せたあの目です。
グレーの瞳に影を宿らせ、爛々と輝く、あの眼。
上手にできます? やったことがあると?
少女の年頃から修道院に入っていた娘の言葉では、ありません。
「……はぁ。」
たくさん傷ついてきたのだろうノエルを自分までもが見捨てるだなんて、フローディオにはそんな真似はとてもできませんでした。不用意に他言できる話でもないため、いまだにこうして溜息を繰り返してなんとか胸の痞えをいなすしかないのです。
しかしノエルの行いは、もはやフローディオにとっても他人事ではありませんでした。
なにせ次は、自分の番なのです。
(僕だって、勇気を出さないと……。)
後宮から着替えのネグリジェが届いていたのを見かけたため、箱入りのポンコツ王子でもなにかを覚りました。
寝間着なんて人前に出る恰好ではないのですから、今宵はこのまま陛下と禁裏で過ごすことになるのでしょう。
妻にと望まれたフローディオが赤獅子王の下で夜を過ごすとなれば、夜伽を求められてもなんらおかしくはありません。
(罰ってことなのかな……。わからないけど、でも……――)
かつてのノエルとは違い、初めてを、好きな人に差し出すのです。これを罰と呼ぶのなら、ノエルの苦しみはなんだったのでしょう。
臆すわけにはいきません。むしろきっと、幸福なことなのだと、フローディオは己に言い聞かせます。
湯から上がれば知らない侍女たちに黙って服と髪とを整えられ、化粧着を羽織らされ、すべての身支度が整った時、フローディオにはもはや初夜に対して恐怖はありませんでした。
代わりにあったのは、受け入れてもらえるかどうかの不安のみ。
悲しませたのは、悪いことをしたのは、自分のほうで、これ以上温情に縋ろうというのはあまりに都合がよすぎるというものです。不要と言われてしまっても、縋るような真似はできません。
(嫌われてなければ、もう……、それ以上は……)
最初こそ恐ろしいばかりと思っていた赤獅子王に対して、本当はすでに好意を抱いていた薄い胸は、最悪の結果を恐れて重い痛みに苛まれます。
無下にされるよりは、興味くらいは持ってもらえたほうが、ずっとありがたい気すらしました。
だから彼は、陛下のお望みならばもう何も拒みはするまいと、固く心に決めたのでございます。
一方その頃、陛下の方はといえば。
尊い大国王ともあろうお人が、自室の机で書類と向かい合ったままみっともなくそわそわしておりました。
(つい連れてきてしまったが……どうしたものか。)
ペンをゆらゆら、組んだ足をゆさゆさ、指先も机をトントントントン……騒ぎのせいでほったらかしになっていた公務を機械的にやっつけながらも内心ではいろいろ苦慮しております。
というのも実は陛下、怒りなんてとっくに明後日の向こうへ放り投げてしまったあとなのでありました。
いい歳のくせ恋愛一年生の陛下には連れ込み宿での一件は刺激が強すぎました。想い人が自らの潔白を証明すべく下着姿になったところを前にして、それでもなお嫉妬や忿怒を保てるほどには、この御仁、まだまだ完成していないのでした。
書類に並ぶ文字から目を逸らせば脳裡に浮かんでくるのは、あられもない白い胸とか、透けて見えた身体のラインとか、そんなのばっかりです。
ぶっちゃけ、致したい――
(落ち着け、俺。落ち着くのだ。)
下手な生娘よりきめ細かく白い肌といい、ほのかに香ってきた甘い匂いといい、考えてたよりずっと良かったのであります……!
サラからはちゃんと抱けるのかなんて訊かれもしましたが、下手な心配は余計なお世話だったみたいです。
そのサラが事情を把握していたならば、「ならば会話の一つでも普通にしておけば良かったんじゃないですか?」と軽蔑の目で物申したかもしれません。ムラついてたせいで、とは、流石の彼女も察するのは不可能だったことでしょう。
しかし、相手はあの臆病王子でした。ここまで連れ込まれたことについて、今頃何を考えているのやら。
(……まあ間違いなく怖がられていることだろうが、なぁ。)
それを思うと、机どころか大陸自体を頭突きで割ってしまいそうなくらいには、陛下もたまに突っ伏しては悩んでおりました。ドンッ!
(どうしたものか……!!)
ものにしてしまおうと、激昂した頭で一度は考えたものの、ちょろい陛下自身がお仕置きって気分ではなくなってしまったのです。かといってする気自体がないわけでもなく、自分のものにできるなら早めにそうしてしまったほうが……という冷静な考えが全くないでもありません。しかしながら、これ以上泣かれるのだけは絶対嫌。
限られた一人の時間、今のうちにと作戦タイムを目論もうにも、書類の文字から目を離せばまた悶々、網膜に焼き付いたフローディオの下着姿が容赦なく思考を遮ってくるのです。
青臭く顔を抑えつつ首を振り、修羅の形相で煩悩と理性の大戦争に翻弄されていたその矢先。
コンコンコン。
ついにフローディオが湯殿から戻ってきてしまったようです。
「入れ。」
短く応えれば、扉を開いて畏まる侍女の姿。その傍らを横切り、いつも以上に髪を艶めかせたフローディオが現れます。
「戻りました。」
湯上りということもあり、清楚なシャボンの香りが陛下の鼻孔を擽りました。
――致したい。
(だから落ち着け、俺。)
胸中の色欲を強引に捩じ伏せれば、陛下の頬は自ずと固くなるばかり。必死なのでどうしようもないのですが、自然といつもより険しい形相となってしまうのはいうまでもありません。これではまた怖がらせてしまうのだろうともわかってはいるのですが、今更どうすれば沽券を守りながら態度を改められるのかが陛下にもよくわからないのであります。
「座れ。」
努めて素っ気なく、応接用のソファを顎で示して勧めておきました。フローディオの「はい。」という短い返事だけを聞き届けて、まだ気持ちの整理がついていない陛下は、穴が空きかねないくらいに書類をジーッと凝視し時間を稼ぎます。
部屋には陛下が爆走させるペンの音が響くばかり。そこへ間もなくカチャカチャと茶器の鳴る音が重なり始めました。案内役の侍女が紅茶を淹れてくれているのでしょう。
気遣いがいつもより一層ありがたく感じられた陛下でしたが、無情にも侍女には主君の意を酌むような器量はなく真っ青な様相。空気の重たさから逃げ出すように、用を済ますなり黙ってお辞儀を残し出ていってしまいました。バタン。
大きな扉が閉じられ、今度こそ二人きり。
(……どうしたものか。本当に。)
待ったところで、フローディオのほうから口を開くことなどないでしょう。また怯えきって、かちこちにしゃちこばって泣きそうにしているに違いありません。鉛のような沈黙の中に放置していては、いずれ本格的に泣き出すのが目に見えています。
気まずさに負けた陛下は、書類の陰で一度ぎゅーっと目蓋を瞑りました。口は固く一文字。悪鬼の目にも涙って感じの皺々で不細工な形相でしたが、誰も見てないので気にしません。
思い切ってフローディオの今の姿をじっくり見れば、頭が冷えて、邪な気持ちがちょっとは収まるんじゃないか、と考え至りました。
なので盗み見るように、机の前のソファへと、ちらり。
(……む?)
しかしてそこには、予想外の光景が広がっていたのでした。




