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ノエル編 15

「よもや妻殿が余を差し置いて他の者と連れ込み宿とは、恐れ入る。」

 面白がるような言い方は、まるで清廉潔白な聖者を詰る悪鬼の道楽。

 今の今まで意中の人を我が物にせんと目を輝かせていたノエルでしたが、彼女は既に血の獅子と恐れられた王の威圧に身が竦んでしまっておりました。この広い王都で、こうもあっさりと見つかってしまうなんて、考えてもみなかったのですし、今となっては考えるどころか我が身を省みる余裕すら皆無であります。

「猶予は与えたが余を無視して良いとは言っておらぬ。わかっておろう? 妻殿。」

 別にノエルが小心なわけではありません。

 赤獅子王は、フローディオに語りかける態でいながら、迷いない殺意をノエルたった一人へと向けていたのですから。

 陛下は腰に佩いた剣の柄を指先で弄びます。その動作は獲物の余命の短さを仄めかし、死の影に怯える瞳へと見せつけるかのようです。

「……陛下、」

 腰の抜けたノエルを払って、やっと自由を取り戻したフローディオでしたが、口調からも表情からも恐れは拭えません。震える声も、身体も、隠しようがありません。

「泣いても詫びても余は受け入れよう。」

 寛容のようでありながら、見下す金の眼には無情の焔が灯されておりました。

「だが許せるのは愛するそなた一人である。」

 スラリ。抜き放たれたしろがねの刃に、殺されると本能で覚ってしまっていたノエルはまばたきの自由すらなく目を奪われます。

「や、やめ……、たすけ……、」

 振り下ろされるのがいつなのかと、それだけが怖くて、息すらできなくなるのです。

 これが偉大なる血の獅子王。奇しくも彼女は、フローディオの側でしか彼の御仁を見たことがありませんでした。だからこそ、その真の恐ろしさを軽んじてしまっていたのです。

「……話を、どうか聞いてくださいっ、陛下!」

 臆病なはずのフローディオがまた、この期に及んでなおノエルを庇う。その行為がどれほどまでに陛下の嫉妬を煽っていることかなんて、彼には何一つわかりません。

 普段から大声一つに喉を鳴らして縮こまるくせ、今は自ら凶刃の前に立ちはだかる。それがただの哀れみからだとしても、今の陛下の目には真実なんて映らないのです。

「そなたの血は望んでおらぬぞ。下がれ。」

「……下がれません。」

「下がれッ!!」

 びくついても、涙目になっても、小鹿の脚になっても、フローディオは下がりませんでした。

 すぐ目の前に向けられた剣の切っ先に怯えながら、音が鳴りそうな奥歯を噛み締めて、それでもな視線を逸らそうとすらしませんでした。

「……余計な疑いを招くと、わからぬか。」

 脱がされかけた服のままでノエルを庇うとなれば、誤解を招くのは必須でしょう。ただでさえここは粗末な連れ込み宿。情事に耽るために人が足を運ぶ場所です。

 状況証拠には十分なシチュエーションでありますが、フローディオは負けじときっぱり尋ね返すのです。

「まさかお疑いになるのですか? 指輪をつけていたのに?」

 陛下の眉がピクリと動きます。

 あの指輪がどういうものなのかフローディオが知っていたとは、夢にも思っておりませんでしたから。

 それでなくとも、想い人に泣きそうな顔で下手くそに笑いかけられて平静でいられるほど、赤獅子王もまだできた人間ではありません。

「そんなにお疑いなら、この場で気が済むまでご確認なさればいい。」

 ほんの二ヶ月前まで何かあれば姉上姉上と泣いていたような子供が、この場で強がって笑みを見せる理由が、陛下にはまるでわかりませんでした。

 口では疑いながら本音では邪推なんてしたくないのにと、陛下の迷う気持ちが切っ先の行方を鈍らせます。

 それを見て安堵するように強張っていた肩を落とすと、フローディオは震える指で、まずは手つかずのままだったコルセットスカートのリボンを解きました。

 きつく締め上げられていたリボンがあっという間に緩んで、留め具は勝手に外れて、ばさりと床に落ちていきます。

 次に脱がされかけていたブラウスのボタンへと自ら指をかけ始めました。ひとつ、ふたつ、みっつと、飾り彫りが施された貝ボタンを外していきます。

 つやりとして透ける絹糸のレース編みの肌着があらわになり、初めて目にする平らな白皙の胸に、今度は赤獅子王が我知らず眼を瞠る番でした。

 つるりとブラウスが床に落ちて、残るは膝まである下着のみとなっても、フローディオの指は迷わずサテンのリボンに伸びていきます。

 薬指の指輪がやけに赤く光を弾きました。

 我に返った陛下が慌てて剣を収めます。

「……もう良い。」

 陛下の負けでした。

 黙っていればもう少し眼福の思いができたのでしょうが……。

 口早に告げられた静止の声は、行き場のない感情が込められたとわかる溜息に揺れておりました。

 フローディオが泣いたばかりの赤い目で面を上げたのとほぼ同時、大股で詰め寄った陛下が脱いだばかり毛織の外套を薄い肩に押し付けます。

 大きな手のひらで背を押されれば、フローディオは外套の前を両手で閉じ、黙したまま素直に従うのみ。恐れが皆無とは言いませんが、少なくともノエルがこの場で斬られるよりはずっとマシです。

 部屋を出てすぐの廊下の壁側に、中の様子を聞いていたらしいサラと帯剣した女性が待機していました。

「小娘は後宮の地下に。」

 ノエルについて通り過ぎざまにそう告げた陛下、数歩進んで一度足を止めると後ろ姿のまま付け足します。

「食事と毛布くらいは入れてやって構わぬ。」

「……かしこまりました。」

 諦念すら漂わせて告げられた温情の一言に、ほっとしたフローディオは少しだけ足取りが軽くなりました。連れられるまま表の馬車に乗り込みます。

 指示もなく動き出した馬車は、おそらく王宮へ戻るのでしょう。

 外は既に夕暮れ時。傾いた陽の光は馬車の屋根を掠めるばかりで、狭い路地は闇に沈みかけておりました。少し荒れ気味の薄暗い石畳に車輪がガタガタ騒がしく転がり、二人が向かい合って座る車内にはそれ以外の音はありませんでした。

(香油壜、割れちゃっただろうな……。)

 仮に無事でも取りに戻ることは許されないでしょう。

 朝の頃なら、次に陛下に会う時には今までのお礼ができると、楽しみにしていましたのに。

 口を閉じ腕を組んで顔を背ける陛下と、外套の前を両手で合わせたままいつも通りに俯きがちなフローディオ。

 互いに何を考えているものかなんて、これっぽっちも予想がつかないのでありました。

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