ノエル編 14
薄暗い宿に入ってから最初、嗅ぎ慣れないすえたような臭いにフローディオは些か顔を歪めました。
何度も言いますが彼は生粋の温室育ちですから、裏道にひっそり構えられた安い連れ込み宿の情交の残り香なんて鼻について当然です。
でも今表を出歩けば、何が起こるかわからない。ちょろい彼はそう信じきっております。
身を守る術を知らない以上、高貴な生まれの王子だろうと大国妃候補の『姫君』だろうと、身を隠せる場所があればそうするより他にないでしょう。
だから我慢してノエルに従い、狭い部屋へと恐る恐る歩み入りました。
「フローディオ様、水でも貰ってきましょうか?」
上着を脱ぎながらノエルは気を利かせて尋ねてくれますが、フローディオは外套一枚だって脱ぐ気になれません。ここの水を飲むというのにも不安があります。お腹を壊すのではないのかなぁと。
「ううん、大丈夫。」
「立ってないで、こちらに座ってください。たくさん歩いて疲れたでしょう?」
そう言われて断ることができるほど、ポンコツ王子には対人スキルもありません。
外套を脱がないまま部屋に入るだけでもマナー違反とはわかっていますが、ここを『安心できる室内』といまいち認識できない以上、身なりはそのままで勧められた場所に腰掛ることにしました。
椅子もなく、壁に備え付けられた簡素な棚にはタオルがいくつか、床には水が汲まれたバケツ。目につくものといえばそれらとベッドくらいですから、勧められたのは当然ベッドの縁でした。
(固い……。)
こんなベッドも、あるんだなぁ。
物知らずの箱入りには驚きでなりませんが、腐っても王都の宿泊施設。この宿だって世間的にはマシな方だとは露程にも気付きません。
「早く、帰れるといいね。」
買ったばかりの香油壜の包みをしっかり抱いたまま、フローディオは眉を下げて不安げに笑います。
それが逆にノエルの覚悟に火をつけることとなるなんて知りもせず。
「……ノエル?」
黙って唇を噛んだまま、切なげに見つめられて、フローディオにもやっとはっきりした違和感を覚えることができました。
ノエルの様子がいよいよおかしいと。
「フローディオ様……、」
「ど、どうしたの?」
座ったまま身を引いて距離を取ろうとしたフローディオでしたが、ノエルの手は控えめさなんてこれっぽっちもない素早さで意中の人の手を取ります。香油壜の包みの上で重ねた手は、フローディオを陛下から奪い取りたいと願う彼女の心情によく似ていました。
「わかってもらえませんか?」
熱を孕み潤んだグレーの瞳には、フローディオしか映っておりません。
彼女は真剣でした。
真剣に、届かない恋心を燻らせていました。
それに、たとい心が届かなくても、手段ならある。
「フローディオ様……、私、私……、」
どうしていいのかわからないフローディオが眉を下げて絶句していても、ノエルは熱心に菫青石の瞳を見つめたまま、ますますもって強く手を握るのです。
「フローディオ様のことが、……好きです。」
ハッとして、想いを告げられたフローディオの白い顔に恐れが浮かびます。
「ノエル。駄目だよ、僕は陛下のものだよ。」
この期に及んで彼が危惧したのはノエルのことでした。
そんなこと、口にしただけで陛下の怒りを買うに違いありません。正式にはさておき事実として、赤獅子王が妻と呼ぶのは自分だけなのですから。
しかしフローディオは、ノエルに優しくしすぎてしまいました。
兄の暴挙と望まない結婚から守り、安全な傍近くへ置いてやっただけでなく、ノエルの持つ知恵を惜しみなく褒め、向けられた好意に笑顔を返しすぎてしまいました。
フローディオはどうしても、ノエルの悲しむ姿が見たくなかったのです。初めて会った時からそうでした。
たとえ理由がなんであれ、向けられた慈悲にノエルが感謝の想いを抱いたのは当然だったでしょう。そして同時に別の想いが芽生えてしまったとしても、なんら不思議ではありませんでした。
「でも、陛下とフローディオ様は、一緒にはなれませんよね?」
届かない想いに焦がれたノエルの口許は、歓喜にも嘲笑にも似た弧をにんまり描きます。
「だって……」
気を許した相手が露わにした熱い情欲に、フローディオの平らな胸は急き立てられるように苦しくなります。
しかしそれだけではなくて、もっと別の何かが、火傷にも似た痛みで彼の心を苛みました。
「フローディオ様は男だもの。」
とどめのように告げられて、どうして自覚せずにいれるでしょう。
(やめて――!)
一緒になれないなんて言われて息が止まり、耳を塞ぎたくなるほど傷付いてしまうくらい、恐ろしの赤獅子王を慕っていた自分の心に。
サラの言葉がなくったって、今なら迷わず認められました。これが恋でなければ、なんだというのでしょう。
「陛下が好事家なのか、それともお世継ぎを作る気がないのか。それはどうでもいいですけれど……、」
そして自分は女なのだと、前のめりに距離を詰めたノエルの手が、掴んだままだったフローディオの手を自分の柔らかな胸にあてがいます。
積極的な女性を前にして、若い男が嫌がるはずがないと、確信を抱いている堂々さ。
「でも、フローディオ様は男だもの。知れば女性がいいってわかるはずでしょう?」
そんなことを尋ねられても困ります。
そもそもフローディオは、世にも稀なる子を成せる男、花の子であって、子を孕ませる側としては扱われた試しがないのです。
「ノエル。隠していたのは悪かったけど、悪気なんてなかったけど、君は勘違いしてるんだ。」
「何をですか? まさか陛下を愛してるとでも?」
「それは……、」
無茶な問いです。まだ幼気で、比べるものすら持たず、恋心ひとつしか知らないのに、愛とはなんなのかなんてフローディオにわかるはずがありません。愚直な彼はその場しのぎの言葉なんてものは口にできず、陛下のこととなればなおのこと言葉が見つかりません。
それでも、ノエルの恋心を受け入れることができないのは確かでした。
「ノエル、お願い。やめて……。」
愛がわからないフローディオでも、不貞の重さは知っています。
お互いにただでは済まないのに、どうしてこんなことを?
「嫌です。」
にこり、やけに綺麗な微笑みを見せたノエルは、ゆっくりとフローディオを押し倒しました。
臆した彼には抵抗するだけの力が出ませんでした。反して意を決したノエルの手はいつになく強引で、とても振りほどけません。
するりと落ちた包みが床に落ちていきました。カチャン、という取り返しのつかない物音がささやかに響きます。
「私、男なんてみんな同じだと思ってました。フローディオ様、あなたみたいに身も心も綺麗な男の人がいるなんて全然知らなかった……!」
ここで身体を繋げて自分のものにしてしまえば、高潔で清純なフローディオのこと、陛下に会いたいとは二度と思えなくなることでしょう。顔を合わせて首を刎ねられないとも限りませんから。
それにフローディオは花の王国の王子。二度と故郷の土を踏めない身だった彼と共に、彼の母国へ骨を埋めるのも素敵ではありませんか。
もしそれが叶わなかったとしても、今のノエルの懐には月下美人の香油がありました。これ一本あればなんとでもやっていけます。また作れば十分豊かに暮らしていけます。
――性格も合う。歳も近い。逃げ切ってさえしまえば、絶対に幸せに添い遂げられる。
――むしろこの人以外に私の幸せはない。この人を手に入れられなければ、その時は……
「男の人に尽くすなんて一生願い下げだって思ってたけど、フローディオ様にだったら私、惜しみません。」
「っ……!?」
彼女の言葉に、爛々と輝く瞳に、フローディオは確かに影を見ました。
力が抜けてしまうくらいに暗い何かです。
(ああ、そうか。)
フローディオはその暗がりを薄目で凝視して、やっと覚ります。
どうして自分がノエルに優しくしてしまったのか、どうして彼女の悲しむところが見たくなかったのか。
(ノエル、君は……――)
遅まきな後悔で喉が締まり上がり、僅かな声さえ出せなくなったフローディオへ、ノエルは狂い咲きの徒花そっくりに艶やかに笑みを深めました。
「安心してください。私、上手にできますから……。」
意中の人を組み敷いた彼女の指は、ささやかすぎて一見ではとてもわからない喉仏の下、フローディオの外套の留め具へと伸びていきます。
パチリ。
「――ノエル、やめよう!?」
我に返ったフローディオの訴えなんてノエルには聞こえませんでした。
ベストの金ボタンを外し、リボンタイをしゅるりと外し。
「お願い、やめて……。」
ブラウスの細かな貝ボタンに触れられた拍子、フローディオの目尻からぽろりとこぼれた涙の意味なんて、ノエルは何一つ気が付けないまま。
(レオン様……!!)
固く目蓋を瞑ったフローディオもまた、心に決めた人の名前を強く一心に念じるばかりで……――部屋へと近付いてくる廊下の足音には、まったく気付けませんでした。
ノブが捻られ、カチャリ。
息を飲んだノエルが振り返った時にはもう手遅れです。
間延びした軋みを響かせてゆっくりと開かれる扉……。そこに現れた人影を目にした途端、即座にゾッと、大潮の如く引く血の気。
「――ひっ!!」
剣を向けずとも、拳をちらつかせずとも、その人物にとっては小娘一人の制圧なんて殺気を孕んだ鋭い金の眼差しだけで充分です。
逃げることすらままならなかったフローディオとは違い、赤獅子王には、それが取るに足らない真実なのです。
「余の与り知らぬところで、随分と楽しげであるな?」
声が聞こえた瞬間になって、我に返ったフローディオも気が付きました。
「……陛下……。」
「会いたかったぞ、妻殿。」
貞操の無事に安堵する余裕なんて、一切ありませんでした。
フローディオはこんなに冷たい陛下の声など初めて聞くのですから。
闇に凍えた薄氷が自ずと罅入るに似た冷気を宿し、聞く者全ての血の色さえ蒼に染め変える、絶対者の紡ぐ声。
「ただで済むとは思わぬことだ。」
間違いなく、最悪の状況でございました。




