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恋愛編 11

「――陛下っ! フローディオ様がっ!!」

 静かだった執務室に駆け込んできたのは、血相を変えたサラでした。

「な、何事だ……!」

 ペンを持つ手を止め、陛下はただでさえ凶相と呼ぶべき顔を更に険しくいたします。幼馴染の彼女が飛び込んできたからには、その理由は明白です。彼の想い人に何かあったに違いありません。

「フローディオ様の馬が暴れっ、林で迷子になってしまわれて……!」

 臣下たちの目も憚ることなく、崩折れるように膝を突いたサラ。「申し訳ございません!」と叫んだ彼女の声は甲高く悲痛でありました。

 ……が、残念ながら取り巻きたちには事の重大さがあまりわかっていないようです。気分としては、「なんだ、あの林か。」って程度です。

 馬が暴れたとなればそれは事件でしょうが、落馬したわけではないようですし、穏やかな城の敷地内を走れば自然と落ち着きを取り戻すでしょう。滅多な事故が起こるとも思えません。案外、『姫君』も自力でひょっこり帰ってくるのではないでしょうか。

 ……というのが一般常識でございましたが、陛下にはサラの慌てる理由がよくわかりました。

「な、なんだと……ッ!?」

 ガタンガタン。椅子を倒しながら立ち上がった陛下の顔色は、白へ蒼へと様変わりを繰り返しておりました。思わずベキンとへし折ったペン軸は、そのままカラカラと机に転がります。

 それもそのはず。フローディオが筋金入りの箱入りで、サラよりよほど貧弱だと、わかっているのですから。

「へ、へっ、へッ、兵を出せ!! 今すぐだッ、直ちに総動員せよ!!」

 まるで悪しき吸血鬼が白日の下に晒されて灰になる直前のような慌てっぷりでございました。わなわなと宙で震えている両手なんて、塒の棺桶が見つからぬままに朝を迎えた憔悴の様そっくりです。見る者すべてに等しく不安と恐怖を与えるような禍き影が滲み出ておりました。それを差し引いても、国の主が異様な動転をしているとあれば、周囲の空気も一転して不穏に陥ります。

「へ、陛下。恐れながら、流石に過保護ではございませんか……?」

 そこまで大切に思える伴侶が見つかったとなれば、それはそれで臣下たちには朗報です。陛下が妃候補へ向けている寵愛のほどを未だ知らなかった彼等にはある意味でよい指標となりました。しかし、あんまりにも大げさすぎなのでは?

 とりあえずは宥めておこうと、今まさに書類を受け取ろうとしていた大臣の一人が勇気を振り絞りながらおどおどと進言します。

「どうか落ち着かれて」

「――これが落ち着いておれるかッ!!!!」

 ヒュドラの毒が篠突く勢いで降り注ぐような一喝を真正面から浴びせられ、臣下はかわいそうなことに「ヒイィッ!!」と悲鳴を上げてひっくり返りました。倒れた先は膝を突いたままフローディオの無事を祈っていたサラの目の前でしたから、彼女はそれをきっかけに我に返りました。

「余の妻殿はつい先日馬に乗れるようになったばかりであるぞ!? 貴様らは己の娘息子が乗馬を始めたばかりで迷子になっても焦らぬのかッ!?」

 この大国では貴い家の者であれば普通は乗馬くらい嗜んでおります。お国柄、男女のどちらにもある程度の剛健が求められるのです。

 だから彼等は、他国の姫君のか弱さなんて想像もつかなかったのでありました。ポンコツ王子の扱いなんて、幼子とどっこいどっこいなのに。

「衛兵! ただちに伝令を!!」

「は、ハッ! 承知いたしましたッ!!」

 矢の如き速さで駆け出した兵が部隊を表へ出させるまでに、陛下はサラの陳情を聞いてから執務室を飛び出しました。そんな君主の姿を目にして、事情を知らない者たちは皆、恐慌と呼べるほどの慄きに陥ります。まさかまた帝国が攻めてきたのか? いいえ、実際にはちょっとそこまで迷子を探しに行くだけなのですが。

 サラの手配りのおかげで、フローディオが姿を消した辺りには厩番の者たちが待っておりました。まさか陛下ご自身が探しにやってくるとは思ってもみなかった彼らは、あっという間に兵に取り囲まれたせいで変な声を上げながら震え上がります。

 彼等も捜索の人手を待つ身だった手前、ここから離れられずにいたようですが、声を上げて付近を探してはみたのです。一見した限りでは見つからないのですと、厩番たちは縮こまって恐れ畏まりながら陛下へ報告を申し上げます。鋭い眼光に睨まれれば視線を地面に逸らしてもなお嫌な汗が止まらず、文字通りに首が飛ぶかもしれないと慄きながらであります。

 当然、そんなことをしている暇は陛下にはありません。話を聞いたがすぐさま捜索の号令がかかりました。林に沿って横長く隊列を作り、見逃しのないよう犬も連れて進ませれば、まず間違いなく見つかるはずです。

「総員、進めェ!! 虫一匹たりとて見逃すことは許さぬぞッ!!」

 しかし、であります。

 兵を林に送り込み、奥の崖まで進ませ、そこまでしてなお、フローディオの行方はわからないのでありました。

(どういうことだ……!!)

 さすがにフローディオとて小柄ではあっても、鼠や虫のように見落とされるほど小さくはありません。犬の鼻も頼りにしましたが、崖の近くで足を止めてしまったとのことなのです。

 共に戦さ場を駆けた兵たちを疑えるはずもなく、陛下はすべての報告を受けて愕然といたします。

 いえ、彼の想い人が見つからないのには、思い当たる理由もないではないのですが。

「申し上げにくいのですが陛下、よもやまさか……、」

 百戦錬磨の叩き上げ隊長は、初めて見る陛下の蒼顔に動揺しながらも、その思い当たる可能性について具申するべきかと口をまごつかせました。

「まさか、崖から……川へ……」

 だんだんと雲行きの怪しくなってきた空を睥睨してから、陛下は口を開きます。

「いや、……馬が落ちたとなれば痕跡が見つかろう。」

 この赤獅子王に限って、現実と向き合えないことがあるだなんて。信じられないものを見たような面持ちで隊長は眉間に皺を刻みます。

 折悪く、そんな二人の元へ先の厩番が駆け込みました。膝を土まみれにして滑り込むように平伏すると、「申し上げます!」と叫ぶように声を上げます。

「馬が戻りましたっ。姫様は、馬とはぐれてしまわれたものかと……!」

 なんということでしょう。振り落とされた場所が悪く、細身のフローディオ一人が崖から投げ出されてしまったのだとしたら、結果のすべてが合致します。

 今にも雨が降りそうな空模様でしたから、崖下の川を探すならば急がねばなりません。水量が増してからでは捜索は更に難しくなるのですから。

「……っ!」

 血の獅子王と畏れられる御仁であっても、愛憐の情を抱いた相手のこととなれば我を忘れるものなでしょう。命が下るより先んじて、隊長の判断で兵たちは捜索の場を移そうと機敏に動き始めました。

 その場に残されたのは、兵の先頭に立ち続けてきた大国王ひとりだけ。

(フローディオ……!!)

 立ち尽くしたまま林の影を見上げた陛下は、胸が千々に砕けそうな想いで息も忘れそうでありました。

 痛いのも辛いのも、自分のことなら平気です。艱苦を受け入れて前に進んだ半生でした。それなのに、こんなにうすら寒い思いをしたのは、陛下にとってこれが初めてです。

 腑が捻り上がるような怒りなら知っています。血が残らず沸騰するような衝動も経験があります。

 だのに、この足許が崩れていくような無力感と、堪え難い凍えは、今もって絶対に覚えがないものでした。

 ――平穏はいつだって、何食わぬふりでやってきて、素知らぬふりで去っていく。そういう一時的なものなのだと、知っていたはずでしたのに。

「フローディオぉぉぉッ! フローディオよぉぉぉッ!!」

 気が付いた時には陛下は、愛馬に跨り林へ駆け出しておりました。

 耐えかねたように降り始めた雨は大粒で激しく、身体の熱と胸の凍えを荒々しくかき混ぜていきます。普段なら軽々と避ける枝葉にも構わず突っ込んでいくので頬に擦り傷が入りました。

 もしかすると、陛下をお止めしようと叫んだ者もいたかもしれませんが、そんなもの一切お耳に届きはしておりません。求めていたのはただ一人の声だけです。

 独りよがりに変わりがないとしても、今はただ、守るためだけに、あの想い人を抱き締めたい。息を確かめるためだけに唇を寄せたい。許されずとも構うことなく。

(どんな理由であれ……、余はそなたを手放すつもりなど、毛頭ないぞ!!)

 国であっても、世界の摂理であっても、たとえ死が理由であっても。

 玉砕させられた二百三十六人の誰よりも、今はただ一人の無事を祈ります。命を捧げても国を賭けてもまだ足りない。

 だれかに恋い焦がれるという本当の意味を、陛下は知ったばかりだったのやもしれません。今までならばこんなにも狂おしいほどに一人を案じたことなどなかったのですから。

 これほどまでに失い難いと思わずいられない花が、この世に一輪でもあっただなんて。

 こうしている間にも、崖の下に横たわる川の流れは速まり始めていることでしょう。もし本当に想い人が落ちてしまっていたならば、ここで叫んでも意味はないのかもしれません。

 頭ではわかっていても身体は一向に静まることを知らず、それならば彼岸までであろうとこのまま駆け続けたい! 刻一刻と状況が悪化していく中、――春雷が空で煌めいたが刹那。

「フローディオよ!!」

 彼は霹靂と共に天へ吼えました!

「あの世の果てであろうともっ!! 余はそなたを決して! 逃しはせぬぞォォオオオッ!!!!」


 ――ドォオオオンッッ!!


 落雷と共に轟いたその台詞……。

 切実な思いの丈そのままに連ねられたせいか、言葉選びは完全に迷子でありました!

 本当ならそこは普通に、『君を失ったら僕はどうしたらいいんだ!』とか言っときゃいいのでしょうに……。

 とはいえそれが功を成したというのは、世の中皮肉にできているものでございます。

「ひゃいッ!?」

 陛下が我知らずやってきた場所は、犬たちが歩みを止めた崖っぷちでした。素っ頓狂な返事が、何故か頭上から聞こえてきたではありませんか。

 その理由がまさか、『恐ろしい陛下の怒鳴り声だけは気を失っていても奇跡的に聞こえたから』だなんて、いったい誰が考えるでしょう。

「フローディオっ!?」

 愛馬の背から首を仰け反らせて目をやればなんと、鬱蒼とした樹の枝に人影が見えるではありませんか。

「そなた……ッ!!」

 スッと、纏わりつくようだった凍えが落ちていく感覚は、脱力を伴いました。だってそうでしょう。まさかそんなところに姫君がいるだなんて、たとえ預言者であろうとも考えつくはずがありません。

「そなた……、何故そんなところにいるのだ……!?」

 無事であったかと一瞬は陛下の頬も緩んだのですが、冷静になった途端に口を突いて出たのは、至極真っ当な問いでありました。

「ごっ、ごご、ごめんなさい……っ、」

 陛下の言動の方がよほど常識的ではありましたが、思わずぴしゃりと怒号に似た太い声を出してしまったため、フローディオは枝の上で不用意に縮こまります。

「アッ!?」

 葉群を踏み抜いてバランスを崩した拍子、ずるり! たちまち落っこちてしまったフローディオ。陛下が真下にいたのは、幸運と見るべきか不幸と見るべきか。

 意図せずして、すぽん、と強面の懐に飛び込んでしまいましたから。

「気をつけよッ!! 怪我でもしたらどうするのだっ!?」

「ひっ!!」

 不用心はいけませんね。ただでさえ怖がらせてしまった直後だというのにまたもその大音声……、しかも至近距離では、臆病者の小鳥の心臓が今度こそ止まってしまうかもしれません。

 ですがそれを言ったら、赤獅子の心臓とて存外似たようなものです。堪え難い喪失を招くのではと、今にも潰れてしまいそうなほど恐れに締め上げられるのですから。

「あのあの、えと、う、馬が立ち上がったんです! それで、宙に投げ出されたまでは覚えているのですがっ、」

 元よりポンコツのツキモノつきです。身の危険が迫ったとあって、無意識に力を使ったのでしょう。白い花が咲いた蔦がフローディオの身体のあちこちで不自然に絡まっていました。

「ご迷惑をおかけしてっ――」

「もうよい。」

 錯乱気味になって口早に説明するフローディオは可哀想なほど顔色を悪くしています。怪我がないならばまずは一安心ですが、陛下は想い人のそんな様相が見たくて駆け回ったのではありません。

 言葉の尽くし方がわからない不器用な男には、齟齬のない気持ちの伝え方として、口を閉ざしたままでの抱擁を選びました。

「わっ! わわ、わ……、」

 身体と身体の距離が詰まるほんの一瞬こそ小心王子は怯えていましたが、すっぽりと抱き締められてみれば、それは自分を害するものではないと肌でわかります。いつぞやの、涙を拭った指先と同じ優しさをしているのですから。

 短い間とはいえ酷い雨に打たれどおしでしたから、分け与えられる体温はことさらありがたいものでした。

 静かで長い、少し強めの抱擁の最中、フローディオはだんだんと肩の力を抜いて、やがて広い胸の中で安堵の溜息をこぼしたあと、少し笑みを浮かべる余裕すらあったくらいです。

 初めてかいだ陛下の匂いがなんだかとてもあたたかで、フローディオには特に印象的でした。冬の暖炉に焼べる、よい薪の匂いに似ている気がしました。

「陛下……。」

「なんだ。」

「お、怒って……ますか……?」

 腕の中から恐る恐る問われて、赤獅子王は思わず凶悪な嘲笑を浮かべてしまいました。見られていなかったのは幸いだったでしょう。

 こんな時まで怒っていないか確認されてしまう己の顔が、久々に憎くてたまりません。

「事故であろう。心配したまでだ。」

「……ほっとしました。」

 居着いて間もない国だというのに、慣れ親しんだ家に帰ってきたような気すらしてしまうのですから、不思議なものです。

 対して陛下の方はといえば、か細い身体の抱き心地に内心では震え上がっておりました。ただそれは、歓喜によるものとかいかがわしいものとかではありません。どこまでも純粋に、己の想い人の儚さに竦然としてしまったためにございます。

 このまま抱き締め続けていれば、ともすれば力加減を間違えて、パキリと軽い音と共に砕いてしまいそうです。

 これをいったい、どうやって大事にしていけばいいのだろうかと。

「……サラが待っておる。戻るぞ。」

 返事をする間もなく、フローディオは雨除け代わりにマントを掛けられ、丁寧に懐に仕舞い込まれてしまいました。

 いつも仰々しいとしか思えなかったコレにも立派な使い道があったんだなぁなどとしげしげ思いながら、しっかり抱かれて馬に揺られ始めたら疲れが出てきたようです。

 細身の温もりに気付いた陛下が覗き込んだ時には、とっくに安心しきった様子で寝息を立てておりました。

「本当に、どうしたものか……。」

 愛しさで目が離せなくなる陛下は恋心を持て余して苦く笑います。それがどんなに魔王面でも、夢の中の住人となってしまったフローディオには関係のないこと。健やかな寝息は小雨に芽吹く新芽の呼吸を思わせます。

 そんな二人が立ち去ったあとの崖には、早咲きのカンパニュラがふっくらとした薄紫の花をつけ、雨粒に輝くのでございました。

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