恋愛編 10
最初は、見目の愛らしさに反した豪気な態度が気に入っただけでした。
子が生めるなら男でも構わない、という判断に妥協があったかどうかについては、今となってはもはやわからないことです。
蓋を開けてみれば、最初だけは強気一辺倒かと思われた『姫君』はとんでもないポンコツの臆病者でありました。手を焼かされるのなんて日常茶飯事。添い遂げようと覚悟したなら、どれだけの艱難辛苦が待ち受けていることやら。
手放すべきかと諦めたことさえ、この短い期間に二度ありました。だというのに、僅かなひとときを一緒に過ごしただけでも愛しさは一層募るばかり。ああしたい、こうしたい、具体的な望みが増し増してどんどん我儘になっていく自分がいる。そんな事実にも、陛下はそろそろ気付き始めておりました。
(――考えてみれば当然であるな。)
しかしながら、どれだけ大切に思ったところで、フローディオの臆病な性格も一歩引いた考え方も、一朝一夕で変わるものではないのです。
(妻殿が余の前で素顔を見せるはずがなかった……。)
フローディオが普段は自分のことを「僕」と呼んでいるだなんて、今日まで陛下はご存知でなかったわけです。ポンコツ王子も御前では常に「私」と畏まっておりましたから。
まあ陛下とて素の時は若かりしころからの習慣で「俺」とか言っちゃってますし、おあいこと言えばおあいこでした。お互い打ち解けられるまで相当な時間がかかりそうですね。
寝酒に強めの蒸留酒を一杯ひっかけながら、赤獅子陛下は一人の時間を物思いに耽り過ごします。
(ただでさえ余に正面から向かってくる者はサラ以外におらぬからな。それに、余が素のままで話したりすれば、妻殿がどれだけ怯えることか……。)
本当なら陛下の好みは、ある程度の思慮さえあればずけずけ言ってくれるくらいの気の強い女性だったはずでした。そうでなければ夫婦としてやっていけないだろうとわかりきっていたからです。
でも今ではすっかりフローディオ以外を考えられなくなってしまっております。よりによってあの真性の臆病者を。
ともすれば嫌われてしまいそうで、大事にすれば大事にするほど触れるのが殊更恐ろしくなってしまうのですが、かといって独り寝が虚しい夜もないわけではありません。
(いつになれば閨を共にできるのか……、せめて抱き締めるくらい許される日が早めに来ると良いのだがなぁ……。)
窓から見える星を眺めながら、ほろ酔いの陛下は神に祈るような心持ちでありました。
(願わくば、妻殿をもっと余の近くへ……)
ただしかしその風貌についてはお約束どおり、人類殲滅の動向が気がかりなせっかち魔王とか、はたまた天災の召喚でもした直後の悪の魔導師とか、そんな感じにございます。
上背があるせいでランプの灯りが下から照らしてくるのもやな感じにうまい演出……。
そんななので、神様もちょっと意味を勘違いしたのかもしれません。
数日後、注文した乗馬服の完成予定図として数枚のデッサン画が仕立て屋から城へと届けられました。獅子の国の流行は花の国ではあまり見かけない機能美に満ちており、フローディオの目にはどこか斬新で鋭く輝くように見えました。
すっかり浮き立ってしまっていたせいか、日課となっていた午後の乗馬はいつもより少し長め。今までならお茶の時間前の二時間くらい、嗜む程度で満足していたのですが。
「もう少し、練習しても良いですか?」
公務に戻る陛下を見送ろうという間際、名残惜しそうに馬を眺めていたフローディオが珍しく自己主張したので、陛下もサラもたいそう驚きました。
「サラ、頼めるか。」
王子はだいぶポンコツでしたし腕力で言えば平均以下でしたし、馬だって可愛がるというよりおっかなびっくり触れるばかり。そんなでしたから、この発言は殊更に驚くべきものでありました。
それを受けた陛下がサラに任せて大丈夫だろうと思ったのは、空を見る限り夕刻までなら天気も崩れまいと察しがついたからです。
「ええ、勿論ですわ。」
「……!」
なによりはにかんで笑うフローディオ本人が可愛かったので、こういうのも悪くはないかなと、陛下も釣られて頬が緩みました。残念ながらまた悪鬼のような笑みだったため、フローディオはそれとなく頬を固くしてそっぽを向いてしまいましたが。
しかしながら、この判断が迂闊だったことこそがお話の始まりであります。
陛下をお見送りしてから、フローディオは踵を返すと軽い足取りで厩へ戻っていきました。気に入りの佐目毛の馬が水を飲んでいたので、ついでにおやつの人参を手ずから与えてやって、その様子は見守るサラの目にもるんるんと楽しそうに見えました。
白百合の花弁に似た王子の頬はここのところかすかに血色が良くなってきております。放っておけば何を考えているのかわからない綺麗なだけのお人形のようだったのが、少しずつ人間味を帯びていくようで、サラにはそれがとても喜ばしく思えるのです。
「フローディオ様もだいぶ馬に慣れてまいりましたね。」
「うーん、そうなのかな……?」
最初はおっかなびっくりのへっぴり腰で、嫌いな野菜を食べさせられる子供みたいな顔ばかりで、馬に近付くにも一苦労だったのです。半月そこらでここまで慣れられたなら上々でしょう。
最初のうちの失態を忘れたいのか、単にわかっていないのか、フローディオ本人の方は小首を傾げながら応えただけで振り向きもせず馬の相手をしております。
「馬子ももう必要なくなりましたし。最初はあんなに心配いたしましたのに。」
片手を頬に添えて大袈裟なくらいしみじみして見せたサラには、フローディオも眉を寄せて苦笑いです。
今もまだ下りる時にはピャッとなって飛び出しているのですが、それは黙っておいてあげましょう。サラの手心にポンコツ王子が気付いているかもわかりかねるところでございますね。
轡を引いて表に出ると、フローディオは早速馬の背によっこらと乗り込みました。
「さあ行くよ。」
乗せられているだけの域をやっと脱し始めているレベルですが、ゆっくりとなら馬を歩かせるのも向きを操作するのも上手になってきました。
「柵の中を一回りでよろしいですか?」
「うん。」
とはいえそれは厩の側の馬場に限ったお話です。サラの提案とて、お決まりのコースのひとつでしかありません。
景観にもこだわってのことなのか、柵に囲われている広い芝生には隅のそこここに若木が植えられ、小さな木漏れ日なんかも差しておりました。それとて慣れてきた若い少年には退屈に思えてくるのは仕方のないことだったでしょう。柵の向こうだって広いんです。
サラの操る馬の先導に従い、麗らかな春の陽射しを楽しみつつ馬の背に揺られていると、いつもなら届きそうもない花の咲く枝がとても近くなります。これが向こうにある明るげな林であったなら、なおのこと楽しいのでしょうが。
「……ねえ、サラ。」
蝶々の影を目尻で追いながらしゃんと伸びた紫の背中へ声をかけると、「いかがなさいました?」とサラが振り向きます。まだそこまで器用な真似はフローディオには出来かねましたが、もう少しだけ背伸びをしたくなったのです。
「あっちの林の辺りには、行っちゃいけないの?」
「え?」
目を丸くしたサラが意外そうな声で尋ねるものですから、フローディオは少し萎縮してしまいました。
「あ、あ、駄目ならいいんだけど……。」
背を丸めてしまうと、フローディオの声が尻すぼみに小さくなっていきます。なのでサラは先程の言葉が聞き間違えではないことに驚きました。
(あらあらあら。短い間に随分と積極的になられて……。)
実際には彼女は、別にフローディオの問いを否定したいわけではありませんでした。つい先日まで乗馬はしてはいけないものと思い込んでいた『姫君』の言葉とは思えず驚いただけです。
陛下とのお付き合いの成就も目指すところではありましたが、同時に陛下とサラはフローディオにもっと自主的に、というよりは、自分らしく生きて欲しいと望んでいます。だからフローディオが望むものは、出来る限り与えてあげねばなりません。
(陛下がお咎めになるとも思えませんし……、すぐそこまでなら。)
だって本当にすぐそこなのですし。サラ一人であれば誰に言伝ることもなくふらりと足を向けるでしょう。見通しがいいので厩番の目からも様子がわかりますし、ここは赤獅子王陛下の居城、安全は確約されております。
城の敷地のぐるりを浅い林が囲み、その向こうには天然の堀である崖と川とが横たわっております。落っこちてはおおごとですが木立の奥へ入らなければなんてことはありません。万が一誤って少し踏み入ったところで迷うような場所でもなし。城が見えているのですから帰りの目印にも困りません。
「……そうですね。林の淵沿いを散歩してみましょうか。」
笑いかけながらのサラの言葉を聞いて、フローディオの背筋が跳ねるように伸びました。
「いいの?」
「ええ。でも林の中には入ってはいけませんよ?」
頭上に傾げた枝や葉群を避けながら進むのは案外慣れがいるものです。初心者にはまだ早いでしょう。でも川から吹き込む林の風に当たって進むくらいならば、フローディオも心地よく過ごせるはずです。
「もちろん!」
そんなわけで二人は馬柵を抜け、厩番にちょっとそこまでと告げてから林を目指しました。
「本当にこの城は広いんだね。」
来たことのないあたりまでやってきたフローディオは興味津々といった様子で、控えめながら忙しなくきょろきょろしております。
「お国のお城は違うのですか?」
サラは興味で尋ねました。そういえばフローディオが語る故郷の話はほとんどが姉君にまつわるものだったので、サラは花の国の王城についてなにも知りません。
「厩は大きいのがあったけど、みんな外に出て乗るから……。」
「まあ、そうなのですね。」
なのでフローディオは、父や兄や城の者たちが馬を駆る姿すらそんなに見たことはありませんでした。
「城って言ってもこんなに敷地は広くなくて、すぐそばまで街が広がっていたし。せいぜい庭園があるくらいかな。それだけはみんなの自慢だったみたいだけど。」
城からろくすっぽ出たことがなかったフローディオにとって、その庭がほとんど外の全てでした。白亜の凝った横広のブランコですとか、薔薇のアーチですとか、噴水ですとか、気に入ってはいたものの、綺麗なだけの箱庭みたいな感じです。城下の街とて、表通りの綺麗なところしか知りません。あれは本当の外の世界とはまったく別物であったのだなと、彼は今になって思います。
「こんなにいろんな鳥の声を聞いたり、気持ちいい風に触れるたりするのは初めて。」
近づいてきた林の影に馬の蹄が触れた頃、満足げに顔を綻ばせるフローディオを見て、サラは思います。この少年というひとりの人間を形作るのに欠けていたものが、なんだかわかってまいりました。
たぶんそれは、とてもありふれたものばかりです。知っている人間からすれば目にも止まらない他愛ないことなのでしょうが、サラも昔は、それらを新鮮に思い、踊る心で抱きしめていた気がします。
「フローディオ様、こちらへ参りましょう。少し行けば鳥小屋がございますよ。」
伝書鳩とか鷹とかを飼っている場所なのですが、箱入り王子には物珍しいかもしれません。わあ、と歓声を上げたフローディオが手綱を引くと、察しの良い佐目毛の馬はサラの馬の後を追うように自然な動きで従います。
そうすると木漏れ日の光が菫青石の瞳に入りました。ぴかり。
少し眩しく思ったフローディオがうっかり片手を手綱から離し、目を庇おうとした、その拍子。
――ガサリッ、ピョン!!
「ひっ!?」
馬の前へと飛び出してきたのは不用心な野狐でした。
なかなかに大きな影が飛び出したとあって臆病なフローディオがビクッとした瞬間、うっかり手綱まででたらめに引いてしまったものだからさあ大変。
「フローディオ様っ!?」
ギョッとしたサラが声を上げたのもいけなかったのでしょう。
その場で砂埃を立てながら足踏みを始めたフローディオの馬はとっくに混乱の態であって、焦った騎手ががむしゃらにしがみついてしまった瞬間にヒヒィン! と荒ぶる嘶きを響かせました。鬣を引っ掴んでしまったのです。
「サラッ、サラーッッ!?」
泣きそうになりながら連れの名を叫んだのがとどめでした。
「フローディオ様ぁーッ!!」
我を失った馬は慌ただしく駆け出し、林の中へ。
サラはすぐに追いかけようとしましたが木立に阻まれてしまい、あっという間に暴れ馬と乗り手の姿を見失ったのでした。




