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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
48/55

謹製…

 ――翌日。

 早めに稽古場に入り、ひとり準備運動をしていた。セレストさんとの対話が心に残っている。自分の口から出た「もう守られていたい自分に戻れない」という言葉は、決意の宣言だった。


 その決意を、一番に受け止めてほしい人が、いまここに来ようとしていた。

 静かにドアが開く。


「遅れてごめんなさい……待たせたかしら?」


 涼やかな表情のお姉さまが入ってくる。だが、どこかに張り詰めた空気が漂っていた。目が合った瞬間、瑞祈の胸がざわめいた。


「いえ……ちょうど準備が終わったところです」


「そう。じゃあ、始めましょうか。……今日は少し変則的な稽古にしましょう」


「変則的……?」


「……貴方が『あの時』見せた動き。それをもう一度、確認したいの」


 一瞬、背筋に冷たいものが走る。


「……玉覚……ですか?」


「ええ。あれが偶然か、再現可能なのか。きちんと知っておく必要があると思って」


 お姉さまの声は穏やかだったが、その奥にある「畏れ」を瑞祈は感じ取っていた。


「私たちは、向き合うべき時に来たのよ。あなた自身と──あなたが抱える『力』と」


「……はい。僕も……逃げるつもりはありません」


 僕らは対峙する。

 構えに入ったお姉さまは、ふと一言添えた。


「今日の稽古に、ファールカップは不要よ。……お互いに、ね?」


 呼吸が止まる。


「でも、それって……」


「怖い? ……私もよ。でも、あの時のあなたが本物だったなら、私の金的蹴りもきっと避けられるわ」


 言葉とは裏腹に、その声はわずかに震えていた。お姉さまは、脆さを曝け出して試している。これは急所を賭けた「信頼の会話なんだ。


 僕らはゆっくりと動き出す。距離が縮まり──

 一瞬、閃く足。


(来る……金的ッ!)


 動けなかった。


(……あれ……?)


 呼吸がほんのわずか遅れた。


 ──パシッ!


「ぁぐぅッッ!!?」


 鋭い一撃が僕の股間を打ち抜いた。脳天まで貫くような衝撃に膝をつく。


「う……うぅ……」


「あっ、ご、ごめんなさい! いまの、ちょっと深く入りすぎたかしら」


 慌てて駆け寄ってくるお姉さま。その手は優しく僕の肩を支える。けれど、ふと浮かんだ笑みがあった。


「……ふふ。やっぱり、瑞祈って……こういう顔、するのね」


「ひど……」


「ごめんなさい。でも、なんだか懐かしくて……嬉しくなっちゃったの」


 懐かしい――その一言が胸に刺さる。


(……そうか。昔は、こんなこと……「日常」だったんだ)


「……そっか、玉覚……発動しなかったんだ……」


「まだ不安定なのよ。あれは、覚悟が極限に達した時に発動するもの。反応じゃなく、意志に近いわ」


「……じゃあ、もっと基礎を……」


「ええ。焦らなくていいわ。これからは『玉覚に頼らない強さ』も育てていきましょう」


その声は穏やかで、痛みを包むように優しかった。


「……お姉さま、顔……」


「あら? なにかしら」


「……楽しそうだなって……」


「ふふ……まさか。ただ、ちょっとだけ懐かしいだけよ」


 氷嚢を股間にあてながら思う。


(前に出る覚悟だけじゃなく、倒れてもまた立ち上がれる「土台」も必要なんだ)


 確かに痛みはある。だがその中に、確かな成長の手応えもあった。


 ――


「玉覚なんていらない体を作るのよ」


秋の午後。稽古場には小窓から涼しい風が入ってくる。


「瑞祈、今日からは『基礎鍛錬モード』でいくわよ」


「基礎鍛錬モード……?」


「ええ。貴方の玉覚は確かにすごい。でも、頼ってるだけじゃ潰れるわ。地味な訓練で『反射が身体に染み込んだ動き』を覚えていくの」


 言葉が重い現実として響いた。


 こうして始まったのは、まさかの……


「反復横跳び……?」


「股関節の柔軟性と下半身の反射速度を高めるのよ。一日300本」


「さんびゃっ……!?」


「ふふ、途中で倒れたら“回復訓練”も兼ねて冷やしてあげるから安心して」


 道場の隅には訓練器具が並ぶ。


・ゴムバンド付きスクワット

・腰の回転強化木刀

・「下腹部ギリギリ」の回避装置


 ……全てが金的を意識した構成だ。


「……これ、本当に『基礎』なんですか……?」


「もちろん。あなたの『股間』を守る全身を鍛えるの。もっとしなやかに、もっと速く対応できるように」


「その言い方がなんか怖いです……っ」


 ――

 稽古後、タオルを片手に股間を冷やす僕の額に、お姉さまの手が触れた。


「おつかれさま。がんばったわね」


「全然動けてなかったですけど……」


「大丈夫。少しずつでいいの。貴方は確実に変わっていく」


「……僕、変われますか……?」


「ええ。『痛みの中で進む力』をもう持ってる。それは覚悟よ。玉覚が証明してくれたでしょう?」


 僕はその手に目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。


――


翌日の稽古は、さらに過酷だった。


「今日は、下段防御の反射テストよ」


「まさか、実戦形式で!?」


「ええ。不意打ちでこそ、真価が問われるわ」


 言葉のとおり、いきなり足が滑り込んでくる。反応──成功。

 だが連撃で端をかすめられる。


「ぐぅっ……!」


「反応が遅い。ぬるい身体では、貴方の急所は守れない」


「これ……鍛えるためですよね!? 守るためじゃなくて!?」


「もちろん。鍛錬とは破壊と再生。急所も例外じゃないの」


そして、さらなる訓練が続く。


・目を閉じての下段感知テスト

・「安全範囲スレスレ」の突き蹴り

・左右ステップによる反応避け


すべてが「金的」を意識したメニュー。


(……僕の股間が稽古の中心に……)


 冗談を言う余裕もなく、足は震えていた。

 ──そのとき。


 目の前のお姉さまが、ふと空手のような構えを取った。鋭く、正確な軌道で、ふくらはぎを狙うように低く滑ってくる。


「!」


 見えた。身体が勝手に動いた。……避けきった。

 ──いや、違う。足が勝手に回り込み、お姉さまの脇に滑り込むと反撃のように腕が跳ねた。

 全く意図していなかった。動きが自動だった。


「これは……っ」


 お姉さまが目を見開いた。


「──玉覚?」


 突如として動き出した僕の身体はそのまま反撃に移る。低い体勢、鋭い踏み込み。下段を守るはずの反射が、そのまま攻撃へと転化していた。まるで、自分の意志じゃない。


(ちがう……こんなの僕、やってない……!)


 お姉さまが後ろに跳ぶ。僕の拳は空を切る。

 だけど止まらない。


「瑞祈、落ち着いて!」


 呼びかけられても、身体が勝手に間合いを詰める。まるで何かが――僕のモードをオートに切り替えたみたいに。


(……一体何が?)


 ──ガンッ!


 正確な蹴りが股間を打ち抜いた。


「ぁ……っぐ……」


 崩れ落ちる身体。バネが消えたように。


「ごめんなさい。でも、止めるにはこうするしかなかったの」


 お姉さまが背を支える。


「玉覚は未完成なまま発動すると暴走もあり得るようね……。でも、それを制御できれば……きっと『真の覚悟』になるわ」


「……ぜんぜん……覚悟できてない……です……」


「いいの。今はまだ泣いてもいい。けど、少しずつ進んでいきましょう」


 床に伏せた僕の横で、彼女がタオルと氷嚢を取り出し、やさしく金的の冷却を始めた。


 でも──やっぱり、その目の奥はほんのりと、楽しそうだった。



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