謹製…
――翌日。
早めに稽古場に入り、ひとり準備運動をしていた。セレストさんとの対話が心に残っている。自分の口から出た「もう守られていたい自分に戻れない」という言葉は、決意の宣言だった。
その決意を、一番に受け止めてほしい人が、いまここに来ようとしていた。
静かにドアが開く。
「遅れてごめんなさい……待たせたかしら?」
涼やかな表情のお姉さまが入ってくる。だが、どこかに張り詰めた空気が漂っていた。目が合った瞬間、瑞祈の胸がざわめいた。
「いえ……ちょうど準備が終わったところです」
「そう。じゃあ、始めましょうか。……今日は少し変則的な稽古にしましょう」
「変則的……?」
「……貴方が『あの時』見せた動き。それをもう一度、確認したいの」
一瞬、背筋に冷たいものが走る。
「……玉覚……ですか?」
「ええ。あれが偶然か、再現可能なのか。きちんと知っておく必要があると思って」
お姉さまの声は穏やかだったが、その奥にある「畏れ」を瑞祈は感じ取っていた。
「私たちは、向き合うべき時に来たのよ。あなた自身と──あなたが抱える『力』と」
「……はい。僕も……逃げるつもりはありません」
僕らは対峙する。
構えに入ったお姉さまは、ふと一言添えた。
「今日の稽古に、ファールカップは不要よ。……お互いに、ね?」
呼吸が止まる。
「でも、それって……」
「怖い? ……私もよ。でも、あの時のあなたが本物だったなら、私の金的蹴りもきっと避けられるわ」
言葉とは裏腹に、その声はわずかに震えていた。お姉さまは、脆さを曝け出して試している。これは急所を賭けた「信頼の会話なんだ。
僕らはゆっくりと動き出す。距離が縮まり──
一瞬、閃く足。
(来る……金的ッ!)
動けなかった。
(……あれ……?)
呼吸がほんのわずか遅れた。
──パシッ!
「ぁぐぅッッ!!?」
鋭い一撃が僕の股間を打ち抜いた。脳天まで貫くような衝撃に膝をつく。
「う……うぅ……」
「あっ、ご、ごめんなさい! いまの、ちょっと深く入りすぎたかしら」
慌てて駆け寄ってくるお姉さま。その手は優しく僕の肩を支える。けれど、ふと浮かんだ笑みがあった。
「……ふふ。やっぱり、瑞祈って……こういう顔、するのね」
「ひど……」
「ごめんなさい。でも、なんだか懐かしくて……嬉しくなっちゃったの」
懐かしい――その一言が胸に刺さる。
(……そうか。昔は、こんなこと……「日常」だったんだ)
「……そっか、玉覚……発動しなかったんだ……」
「まだ不安定なのよ。あれは、覚悟が極限に達した時に発動するもの。反応じゃなく、意志に近いわ」
「……じゃあ、もっと基礎を……」
「ええ。焦らなくていいわ。これからは『玉覚に頼らない強さ』も育てていきましょう」
その声は穏やかで、痛みを包むように優しかった。
「……お姉さま、顔……」
「あら? なにかしら」
「……楽しそうだなって……」
「ふふ……まさか。ただ、ちょっとだけ懐かしいだけよ」
氷嚢を股間にあてながら思う。
(前に出る覚悟だけじゃなく、倒れてもまた立ち上がれる「土台」も必要なんだ)
確かに痛みはある。だがその中に、確かな成長の手応えもあった。
――
「玉覚なんていらない体を作るのよ」
秋の午後。稽古場には小窓から涼しい風が入ってくる。
「瑞祈、今日からは『基礎鍛錬モード』でいくわよ」
「基礎鍛錬モード……?」
「ええ。貴方の玉覚は確かにすごい。でも、頼ってるだけじゃ潰れるわ。地味な訓練で『反射が身体に染み込んだ動き』を覚えていくの」
言葉が重い現実として響いた。
こうして始まったのは、まさかの……
「反復横跳び……?」
「股関節の柔軟性と下半身の反射速度を高めるのよ。一日300本」
「さんびゃっ……!?」
「ふふ、途中で倒れたら“回復訓練”も兼ねて冷やしてあげるから安心して」
道場の隅には訓練器具が並ぶ。
・ゴムバンド付きスクワット
・腰の回転強化木刀
・「下腹部ギリギリ」の回避装置
……全てが金的を意識した構成だ。
「……これ、本当に『基礎』なんですか……?」
「もちろん。あなたの『股間』を守る全身を鍛えるの。もっとしなやかに、もっと速く対応できるように」
「その言い方がなんか怖いです……っ」
――
稽古後、タオルを片手に股間を冷やす僕の額に、お姉さまの手が触れた。
「おつかれさま。がんばったわね」
「全然動けてなかったですけど……」
「大丈夫。少しずつでいいの。貴方は確実に変わっていく」
「……僕、変われますか……?」
「ええ。『痛みの中で進む力』をもう持ってる。それは覚悟よ。玉覚が証明してくれたでしょう?」
僕はその手に目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。
――
翌日の稽古は、さらに過酷だった。
「今日は、下段防御の反射テストよ」
「まさか、実戦形式で!?」
「ええ。不意打ちでこそ、真価が問われるわ」
言葉のとおり、いきなり足が滑り込んでくる。反応──成功。
だが連撃で端をかすめられる。
「ぐぅっ……!」
「反応が遅い。ぬるい身体では、貴方の急所は守れない」
「これ……鍛えるためですよね!? 守るためじゃなくて!?」
「もちろん。鍛錬とは破壊と再生。急所も例外じゃないの」
そして、さらなる訓練が続く。
・目を閉じての下段感知テスト
・「安全範囲スレスレ」の突き蹴り
・左右ステップによる反応避け
すべてが「金的」を意識したメニュー。
(……僕の股間が稽古の中心に……)
冗談を言う余裕もなく、足は震えていた。
──そのとき。
目の前のお姉さまが、ふと空手のような構えを取った。鋭く、正確な軌道で、ふくらはぎを狙うように低く滑ってくる。
「!」
見えた。身体が勝手に動いた。……避けきった。
──いや、違う。足が勝手に回り込み、お姉さまの脇に滑り込むと反撃のように腕が跳ねた。
全く意図していなかった。動きが自動だった。
「これは……っ」
お姉さまが目を見開いた。
「──玉覚?」
突如として動き出した僕の身体はそのまま反撃に移る。低い体勢、鋭い踏み込み。下段を守るはずの反射が、そのまま攻撃へと転化していた。まるで、自分の意志じゃない。
(ちがう……こんなの僕、やってない……!)
お姉さまが後ろに跳ぶ。僕の拳は空を切る。
だけど止まらない。
「瑞祈、落ち着いて!」
呼びかけられても、身体が勝手に間合いを詰める。まるで何かが――僕のモードをオートに切り替えたみたいに。
(……一体何が?)
──ガンッ!
正確な蹴りが股間を打ち抜いた。
「ぁ……っぐ……」
崩れ落ちる身体。バネが消えたように。
「ごめんなさい。でも、止めるにはこうするしかなかったの」
お姉さまが背を支える。
「玉覚は未完成なまま発動すると暴走もあり得るようね……。でも、それを制御できれば……きっと『真の覚悟』になるわ」
「……ぜんぜん……覚悟できてない……です……」
「いいの。今はまだ泣いてもいい。けど、少しずつ進んでいきましょう」
床に伏せた僕の横で、彼女がタオルと氷嚢を取り出し、やさしく金的の冷却を始めた。
でも──やっぱり、その目の奥はほんのりと、楽しそうだった。




