多異様…
その日の稽古場は静かだった。いつもは朝の空気に軽やかな気配を漂わせてくれるお姉さまも今日は珍しく言葉少なだった。
「……昨日のこと、憶えてるかしら?」
僕はうなずいた。
「あのとき動きが……勝手に。……自分の意思で止められなかったんです」
「そう。それが『玉覚の危険性』よ」
お姉さまは、正面に座る僕をまっすぐに見つめる。
「私の見立てだと、玉覚は『自己防衛本能の極限』とも言えるもの。急所に対する恐怖や痛みの記憶をベースに、自律的な回避・反撃行動を取るようにプログラムされている……」
……プログラム?
「でもね、瑞祈。あれは『貴方自身の意志』じゃないわ」
凛とした声で、お姉さまは続けた。
「玉覚は貴方の中にある『もうひとつの脳』。──貴方の意識とは独立した、股間に存在する局所的な演算系。貴方が自覚しないうちに動き、判断し、戦うことができる。……けれどそれは、裏を返せば……『貴方を乗っ取る可能性がある』ということ」
「……乗っ取る……?」
「ええ。瑞祈、貴方は『守るため』に玉覚を受け入れた。でもね、玉覚は『誰を守るか』を貴方に確認しない。最適解を、金的自身が判断するのよ」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「昨日、貴方は私を攻撃しようとした」
「……!」
「貴方の『感情』ではなかった。けれど玉覚は、私を『自分(金的)に危害を加える脅威』として処理した。つまり──貴方の意志とは関係なく、排除を選択したのよ」
ぞくりとした。 何より怖かったのは、自分がそのとき少しも怒っていなかったという事実だった。
「でも……僕、どうしたら……」
「答えは一つ。『制御』よ。貴方が『第2の脳』に使われるのではなく、貴方が主であることを身体に、金的に、叩き込む必要がある」
お姉さまの手が、そっと僕の胸元(心臓の上)に触れる。
「この『ここ』が、下の『そこ』に負けないようにするために──」
彼女は小さく微笑んだ。
「……今日からは『玉覚封印稽古』よ。玉覚は、しばらく使わせない。完全に貴方の筋肉と神経だけで立ち合う。『本能』に頼らず、自分の意志で恐怖と向き合うの。……できるわね?」
「……やってみます」
言いながら胸の奥がうずいた。 ──封じる。それはつまり「オートガード」を失うことを意味する。「金的」という致命的な弱点を抱えたまま、玉覚という保護装置も失って、僕は──本当に戦えるのだろうか。
そして、はじまった「封印稽古」。
「いくわよ、瑞祈。最初は『フェイント限定』。本気では蹴らない。でも、反射で玉覚が出そうになったら即中止するから緊張して」
「はいっ……!」
構える。 お姉さまの足が、スッと近づく──
「うっ……!」
びくっ、と腰が引けた。玉覚は起動しなかった。でも完全に動きが崩れた。
「だめ。恐怖に負けてる」
「……す、すみません……!」
「自分の急所を守ろうとするなとは言わない。でもね、それを恐れることで全身のバランスが崩れるなら──本末転倒よ」
繰り返されるフェイント。滴る汗。痙攣する太もも。息が乱れる。玉覚は……出てこない。けれど、それは「制御」じゃない。ただ起きなかっただけ。今にも身体が自動で動き出しそうな恐怖に、僕は慄いていた。
その時だった。
「瑞祈……貴方、今、どこで考えてるの?」
「え……?」
お姉さまが、そっと僕の股間を指差す。
「そこよ。あなたの身体は、今『金的で考えてる』」
図星だった。
「違う。脳で考えて。心で決めて。『金的で動いてる』なんて、そんなの貴方じゃない」
呼吸を整えて、もう一度構えた。
「……僕は、僕のままで立ちたい。誰かのものじゃなく、僕の意思で。金的に乗っ取られるのは──嫌です」
お姉さまが微笑んだ。
「なら、今度こそ。いくわよ──本物の一撃」
風が走る。視線が、ブレない。
──僕は、股間の恐怖に背を向けたまま、一歩踏み出した。
──
稽古のあと、僕はひとりで静かな道場に残っていた。玉覚を封じたままの立ち回りは、正直きつかった。心が折れそうになるたび脳裏にちらつくあの感覚──
『おまえ、ひとりでやれるの?』
ふいに、胸の奥で声がした気がした。まるでずっと昔からそこにいたように、でも明らかに僕の声ではない、低く太い「僕の声」。
──気づくと僕は、見たことのない場所に立っていた。白く、やわらかく、どこまでも続く精神世界。 その中央に、もうひとりの自分がいた。いや、厳密に言うなら──「少し違う自分」。姿は同じなのに表情が違う。瞳に宿る光がどこか鋭く、原始的で、獣のようだった。
「……君は、誰?」
「タマタマだよ」
「えっ」 「タマタマの心。『玉覚』って言ったほうがわかりやすいか?」
にやりと笑うその顔に、嫌悪は感じなかった。ただ……ぞくっとするほど距離が近い。
「おまえが怖がってるとき、オレが動いてやったんだ。逃げずに踏み込んで守ってやった」
「……暴走だった」
「暴走じゃない。おまえが何も決めなかったから、代わりにやったんだ。金的が勝手に動いたんじゃない。おまえが、ハンドルから手を離したんだよ」
「……!」
言い返せなかった。あの瞬間、確かに僕は「どうすればいいか分からなかった」。その思考の空白をこの「もう一人の僕」が埋めたのだ。
「瑞祈、おまえはずっと『守られる側』でいた。そのことに劣等感を持ってるのに、どこかでそれに甘えてる」
鋭い言葉だった。誰より僕自身が痛いほど思い知らされていたことだった。
「……じゃあ、僕はどうすれば」
「オレを、ちゃんと使え」
「え……?」
「おまえが自分で決めて、オレを動かす。それが『覚悟』だ。オレを封じるんじゃない。『制御』するんだよ」
彼は言った。
「痛みを知ってるから、おまえは優しくなれたんだろ? だったらその痛みを恐れずに使えよ。オレはずっとそのときが来るのを待ってたんだ」
ハッとして目を開けると、道場の天井が見えた。いつの間にか床に座り込んでいた僕をお姉さまが心配そうに見下ろしていた。
「……夢……?」
「……でも貴方、顔つきが少し変わったわ」
お姉さまの目が、僕の内側を静かに見つめる。
「聞こえたのかしら。『金的の声』が」
「はい……もうひとりの僕でした」
「ふふ。そう、玉覚は『装置』じゃない。『もうひとつの自分』よ。だからこそ暴走もする。でも──対話ができれば、共に歩める。……女の私じゃ想像でしかないけれど……」
お姉さまはそっと僕の胸に手を添えた。
「もう逃げないでね。あなたの心と、あなたの急所。どちらもあなた自身なのだから」
──
翌朝の道場。僕はお姉さまの正面に立っていた。
玉覚は──今回、使う。でも暴走させない。僕の中にいる「もう一人の自分」、僕の金的を信じて。
「覚悟は?」
「できてます。僕が決めて、僕が使います。玉覚も僕の一部ですから」
お姉さまは、ふっと小さく笑った。
「じゃあ、行くわよ。遠慮はしない。今までのすべてをぶつけるから」
開始の合図とともに、僕たちは動いた。お姉さまの踏み込み。低い位置からのスライド蹴り。以前なら僕はびくついていた。でも今は──
(いくよ、相棒!)
自分の意志で動かした。
鋭く、冷静に、必要なだけ。僕の足が引きながらも防御の姿勢を取る。動きに無駄がない。迷いがない。僕の筋肉に、神経に、「もうひとりの僕」の超高速演算結果が流れ込んでくる。
(ああ、これは……ふたりで戦ってる感覚だ)
身体が重なっていく。主導権は僕にある。でも、玉覚は必要なときだけ即座に補正してくれる。呼吸を合わせるように。
「いいわ、瑞祈……今の貴方、とても素敵。……本当に美しい」
お姉さまの声が震えていた。かつての僕を知る彼女が、成長の実感に目を細めてくれているのがわかった。
だが。 数分後。
(……熱い!)
異変に気づいたのは、立ち合いが終わった直後だった。股間に、どくどくと脈打つような感覚。手を伸ばせばウェアの中から明確な「熱」が伝わってくる。
「瑞祈……顔が赤い。息も荒い……!」
「だ、大丈夫、です……っ……すこし……火照ってるだけで……」
それは「副作用」だった。玉覚を自分の意志で制御することによる莫大な神経エネルギーの消費と反射系の過活動。それによって局所に集まる血流と熱量の過剰な集中──いわば、CPUのオーバーヒート。
「でも……これなら、ちゃんと……制御、できる……っ」
「……ええ。でもこれはまだ『第一段階』」
お姉さまがそっと僕の股間にタオルをあて、氷嚢を添えてくれる。
「今の状態はおそらく『貴方が指示を出して玉覚が従う』形。でも、本当の理想は違う」
「……本当の?」
「ええ。『貴方と玉覚が同時に判断し、同時に動くこと』──すなわち、『心』と『急所』が完全にシンクロすることよ」
心と急所。それはきっと──何よりも「弱い場所」に「最も高い判断力」を預けるということだった。
「今のままだと、いざというとき『命令が遅れる』可能性があるわ。でも、『心と玉覚が共鳴して動ける』なら、それはもうひとつの自律神経になる」
まるでもうひとつの命令系統。
「貴方の中にある金的を単なる弱点ではなく、もうひとつの脳として融合させる。それが玉覚制御の最終到達点。『共闘状態』よ」
僕は、自分の股間に手を置いた。 まだ熱くて少し脈打ってる。だけど、もうそれを「情けなさ」ではなく「一緒に戦ってくれた証」として感じていた。
「……一緒に戦ってくれるなら、僕もちゃんと向き合います」
ぽつりとそう言うと、僕の中で小さく声がした気がした。
『よく言った』
金的の声だった。くすぐったくて、ちょっとだけ誇らしげな響き。
──
氷嚢を股間に挟んで僕とお姉さまは正座して向かい合っていた。少しだけ火照りの残る下腹部を冷やしながら、静かな時間が流れていく。
「ねえ、瑞祈。……玉覚って、どんなものだと思う?」
「……えっと、相手の動きが『読めるようになる』……ですか?」
そう教わったような気がする。玉覚を使えば戦いが楽になる。危険が回避できる。ある種の直感力が高まるような……。
だけどお姉さまは、軽く首を振った。
「違うわ。正確には『そう見えるだけ』なのよ。玉覚がしていることは──それ以上のこと」
お姉さまの瞳が、いつもより少しだけ真剣だった。
「『動きが読める』っていうのは、未来視でもテレパシーでもない。本当は、目の前の微細な変化──たとえば筋肉の張りや重心のズレ、瞳孔の収縮、呼吸の乱れ。それらを一瞬で取り込み、処理し、『最適な行動』を瞬時に選び、実行する」
僕は、息を呑んだ。
「つまり、『読んでいる』のではなく──決断して、動いているの。しかも、意識より速く」
お姉さまは、自分のこぶしを握って示す。
「例えるなら……超高速演算装置。一撃の交錯の中に数百回の『判断』を入れ込める局所的なサブブレイン。それこそが『玉覚』」
「……それって、もう『僕』じゃないですよね……?」
「そう。『貴方じゃない部分』が貴方の体を動かしている。だからこそ『乗っ取り』と『共闘』の分岐があるのよ」
乗っ取りと共闘──。 脳でも心でもないもうひとつの意思。それが、僕の股間にある。
「でも……」
僕は口を開いた。
「最近、少しだけ分かってきました。あいつ──『もうひとりの僕』は、暴れたいわけじゃない。僕が怯えてたり、何も決めないでいるときに、黙って前に出てくるだけで……」
「そう。玉覚は『守るための判断機構』。貴方が決断しないなら玉覚が決断する。だから──決めなさい、瑞祈」
お姉さまは言う。
「『自分の意志で動く』っていうのは、自分の急所に責任を持つということよ」
その言葉が、胸に深く刺さった。
「玉覚は、欠点もある。動きは早いけれど情緒や善悪の判断がない。だから、ときには貴方の大切な人さえ『排除対象』に含めかねない」
「……お姉さまに……向けかけたとき……ですね」
「ええ。でも、それでいいの。その危うさも含めて、あなた自身なのだから」
僕は自分の股間に手を添える。まだ熱が残っている。でも、怖くない。これは「暴れる獣」じゃない。僕がちゃんと向き合ってあげなきゃいけない「もう一人の僕」だ。
「……じゃあ、これからはちゃんと一緒に考えてもらいます。僕が主で、でも独りじゃない。そういう関係に」
お姉さまは、微笑んでうなずいた。
「それが『共闘』よ、瑞祈。自分の急所と仲良くなれた男は──きっと強いわ」
「はい!」
僕は強く頷いた。 下腹部の奥で、相棒が同意するようにトクンと脈打った気がした。




