酔性…
放課後の稽古場。お姉さまは少し遅れるらしく、僕はひとりで黙々と準備をしていた。
──と、ふいに背後でドアの開く音がした。
「……やっぱり来てた。瑞祈くんって、ほんと真面目だね」
振り返ると、セレストさんが立っていた。制服の襟を少し緩めていて、どこかいつもより大人びて見える。 笑顔はあるけれど静かで、何かを決意したような碧眼だった。
「こんにちは……。何か用ですか?」
僕の声が少し上ずった。正直、最近セレストさんと二人きりになるとどう接していいのかわからない。 あの体育祭以来彼女の視線はより熱を帯びている気がするから。
「うん。用っていうか……ちょっと、決着をつけに来たんだ」
「……決着?」
彼女はゆっくりと僕に近づいてくる。靴音すら聞こえない、吸い寄せられるような静かな足取りで。
「この間の話、覚えてる? お姉さまが『瑞祈は私のもの』って言って、ボクが『恋人だ』って言い返したときのこと」
「……ええ」
「ねえ、瑞祈くん。あれって──どっちが正しいと思う?」
その問いに、一瞬、呼吸が止まった。
どちらが正しいか。 ……答えなんて、簡単に出せるものじゃない。お姉さまは僕の導き手で、支配者で、僕の一部のような人。セレストさんは僕を認め、対等に隣に並ぼうとしてくれる人。優劣ではない、立場の違い。だけど、それでも──選ばなければならない時は来る。
「セレストさんは……僕のこと、好きなんですよね?」
「うん。もちろん。……たぶん最初は義務感や責任感からだった。でも今は、本気だよ。お姉さまが怖いとか、家柄とか、そういうの抜きにして。ちゃんと『瑞祈くん』が好きだと言いたい」
その目はまっすぐで少しだけ不安げだった。けれど、誤魔化しは一切ない。僕は視線を落とし、小さく息を吐いた。
「僕、きっと……まだ『誰かを選ぶ』ってことが、怖いんです。誰かを選ぶってことは、誰かを選ばないってことだから」
セレストさんは黙って頷いた。否定も、無理に答えを急かすこともない。
「でも……セレストさんが言ってくれたこと、本当に嬉しかった。少しずつだけど、ちゃんと向き合ってみたいって、そう思ったんです」
「……うん」 「だから……待っててください。僕、ちゃんと『選べる』ようになりますから。……そのとき、もう一度、答えを言います」
小さな沈黙。そして、セレストさんはふっと花が咲くように笑った。
「うん、いいよ。待つよ。だって、ボクが好きになったのは──そういう誠実な瑞祈くんだから」
選ばれることを待つのではなく、選び取る勇気を持つこと。引かれる手にすがるだけではなく、自分の足で立ち、前に進むこと。お姉さまも、セレストさんも、僕の成長を見ている。だから僕も目を逸らしてはいけない。
「……それと。僕は、あなたに『守られっぱなし』じゃいけないって思ったんです」
その一言に、セレストさんの瞳がわずかに揺れた。
「え……?」
「僕には──金的という、逃れられない致命的な弱点があります。……でも、それがあるからといって、ずっと『か弱い存在』として守られるばかりでいてはいけないと思うんです」
震えそうになる声を押し殺しながら、僕は続けた。
「痛みに負けてうずくまってばかりじゃ、セレストさんも、お姉さまも、僕に背中を預けられない。だから……僕も、強くなりたい」
握りしめた手はまだ未熟で頼りない。でもその手は、誰かを守りたいと願っていた。
「『男の子だから(急所があるから)守られるべき』って、そんなふうには思いたくないんです」
セレストさんはそっと目を細めて、微笑んだ。その笑顔は、いつもの無邪気な王子様のものとは違っていた。
「……それ、ボクにはちょっと嬉しすぎる言葉なんだけど」
「え……?」
「だって……そういう瑞祈くんが、たまらなく好きなんだから。それにね──金的があるからって、守られるだけの存在ってわけじゃないんだよ」
セレストは、ふと視線を僕の下腹部に落とす。そして、軽く冗談めかした、けれど熱い笑みを浮かべた。
「そこがあるってことはね、『一撃で終わるかもしれない痛み』を背負ってでも、前に立とうとする覚悟があるってことでもあるんだよ。それを弱さじゃなく、強さとして見せられる人なんて──そうそういない」
「……覚悟、ですか」
「うん。だから、今の瑞祈くんは──ちょっとだけ『男』って感じしたよ。……ちゃんとね」
頬が熱くなる。けれど、彼女の言葉をまっすぐ受け止められる自分が確かにそこにいた。
守られるだけのヒロインから、守る意志を持つ主人公へ。急所を持つからこそ知れる痛みがあって──それでも前に出るという勇気。怖さは消えない。でも、消えないからこそ守りたいという気持ちが生まれるのだと思う。
「……あの、セレストさん」
言葉に詰まりながらそれでも逃げずに伝える。
「ありがとう。僕の気持ち、ちゃんと受け取ってくれて」
「うん。もちろん」
セレストさんの表情が少し柔らかくなる。その瞳は穏やかで、まるで春の陽だまりのようだった。
「……ただ、すぐには何も返せないと思います。でも……」
一拍置いて、しっかりと目を見て言う。
「逃げたくありません。だから、いつまでも待っててほしい、とは言いません。……僕も前に進みたいと思っています。あなたのことを、ちゃんと知りたいから」
セレストさんは驚いたように目を見開いたあと、ふっと艶やかに微笑んだ。
「……そっか。うん、いいよ。じゃあボク、ちょっとずつ距離詰めていくから。遠慮しないで」
ぐっと距離が縮まった。甘い香りと共に耳元にそっと唇が寄せられる。
「あと──女に守られるばかりの男じゃなくなるって言われて、正直ちょっとゾクッとした」
耳が熱を持つ。彼女はくすくすと悪戯っぽく笑い、手を振って走り去っていった。
「また明日ね、瑞祈くん!」
その背中を見送りながら胸の内にふわりとした温かさとむず痒さが広がっていく。
──ただ、残る一抹の不安。
お姉さまになんて言えばいいのか。いや、それ以前に、この僕の股間は、本当に誰かを守れるほどのものなのか。
ふとよぎる『玉覚』の記憶。あの日、あの一瞬の怯えた目。そして冷たく突き放された感覚。
それらすべてが、今も確かに、静かに──胸の奥の「核」と共に疼いていた。




