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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
46/55

外…

 夕方の空は朱に染まりかけていた。放課後、いつもの稽古場に僕はひとり立っていた。


 ──今日は、話をしよう。


 稽古じゃない。勝ち負けでもない。ただ……お姉さまに「あなたのことを教えて」と、そう言いたかった。……怖い。あの人が本当に何か決定的な秘密を隠していたらと思うと。でも、もっと怖いのは、知らないまま隣にいて、また彼女を傷つけてしまうことだった。拳を握る。骨のきしみが決意を確かにしてくれる。


 やがて――


「……来ていたのね。私も、今日こそ話そうと思っていたの」


 お姉さまが、夕陽を背に現れた。けれど、どこか少しだけ……目を伏せていた。


「……お姉さま」


「瑞祈。先に謝っておくわ。最近、少し……貴方を避けていた」


 その声はいつものように澄んでいて……だけど、わずかに揺れていた。


「気づいていました。僕……何か、怖がられてるのかなって」


「……怖くなんか、ない」


 そう言ったお姉さまは、言葉を継げなかった。僕は一歩踏み出して彼女の瞳を見つめる。


「聞きたいんです。あの日、僕に何が起きてたのか。そして……お姉さまが、本当は何を恐れてるのか」


 風が止まったような静寂。その中で、お姉さまはゆっくりと視線を逸らした。


「貴方の中に『玉覚』が芽生えているのを、私は知ってた。……あの日、確信したの」


「それなら、どうして……」


「……怖かったの。貴方の中に『自分を超える力』を感じた瞬間が」


 お姉さまが、初めて目を伏せたまま、言葉を絞り出した。


「私は……貴方をずっと『守るべき存在』だと思ってた。でも、あの日初めて『守られるかもしれない』って、思ったの。それが、私の中で……崩れそうなものに触れてしまって」


「それだけじゃないですよね?」


 彼女の肩が、わずかに揺れた。


「……菖蒲さんから聞きました。お姉さまも……女として、股間が急所だって。そして、それを僕に隠していたこと」


 お姉さまの目がはじめて僕をまっすぐ見た。その視線には言い訳でも怒りでもない、ただ恥じらいと痛みがあった。


「……そう。私は、そこを一度だけ……本当にひどい形で傷つけられたことがあるの」


「……」


「それ以来、誰にも知られたくなかった。弱さとして見られたくなかった。特に貴方にだけは。だからファールカップを着けて平然と振る舞ってた。痛みを感じない女として、ね」


 沈黙。そして――


「でも、貴方には……もう隠せない」


 お姉さまはそっと自分の腹部を撫でるようにして、僕の前に立った。


「私も本当は『痛い』のよ、瑞祈。貴方と同じ場所が。だから、私のことちゃんと見て。知って。……傷のある私を」


 胸の奥が熱くなる。僕は手を伸ばし、彼女の震える掌に触れた。その中には、強さも、誇りも、そして確かに痛みを抱えた人間としての彼女がいた。


「僕も全部見せます。お姉さまにだけは隠しません。痛みも、恐怖も、玉覚も」


「……ありがとう、瑞祈」


 うっすらと涙が、彼女の目元を濡らしていた。夕陽の中で、僕たちは静かに手を重ねた――


 ――

 僕たちは、言葉少なに立ち合った。でも、何度か型を交わすうちにふとお姉さまが手を止めた。


「瑞祈。……ひとつ、話しておきたいことがあるの」


 その声音はいつもの穏やかなものだったけれど、なぜか「懺悔」のように響いた。


「私がなぜ、金的に異常なまでにこだわりを持っていたのか……本当の理由」


 僕は息を飲んで、お姉さまの顔を見た。彼女は静かに座り両脚を揃え、手を膝に置いた。


「――前にも言ったけど、昔の私、金的が好きすぎて少し……おかしくなってたの」


 言い出しは軽かったけど、その目は笑っていなかった。


「金的を教わって以降、私はとにかく『男の弱』に魅了されていたわ。股間ひとつで、どんなに屈強でも崩れ落ちる……そんな『真実』が、気持ちよかったの」


「……」


「最初は倫理の範囲だったの。模擬試合の中で、フェイントをかけて、意図的に誘導して、『決まった』瞬間を味わうだけだった。でも、それだけじゃ満足できなくなって……」


「裏でね、ストリートファイトに手を出すようになったの。もちろん金的アリ。当然狙いも金的。勝ったら次、負けたら……まあ、あの頃は負ける気なんてしてなかったわ」


 彼女は自嘲気味に笑った。


「自分で言うのもアレだけど私は才能があった。手足が長くて間合いも取れる。何より、『金的』を狙う執念だけは誰にも負けなかった。それでいて私自身は『金的』が無い女の体……そう思っていたから」


「でもね――ついにバレたの。師に」


「『活人拳』を学ぶ身が、『殺人拳』を真似たこと。おまけに金的の快楽に溺れてしまっていたことも……。当然破門よ。穏便に済ませる代わりに師は刺客を寄越した」


「……まさか……」


「そう、それが――菖蒲だった」


 あの白い日傘の女性。


「たしかに菖蒲は強かった。けど、私の……私の才能には届いてなかった。それに彼女はとても華奢」


「『金的を持たない女なら、私を倒せるとでも?』……あのとき私はそう思った。心の底から侮っていた。『女の股間に急所などない』――そう信じていたから」


「実際、戦いは私が押していた。間合いも制して、打撃の精度でも上回っていた」


「でも……彼女の拳は殺意を知っていた。どこか根の部分で私とは違った。そして――」


「一瞬、私が踏み込みを迷った。ほんの一歩の遅れ。その隙を菖蒲は見逃さなかった」


 お姉さまの手が、震えるように膝を握る。


「彼女の膝が下から、股間に突き刺さったの。正確に、鋭く。その瞬間、頭が真っ白になった。目も耳も閉じるように感じて……」


「……そのまま倒れた私の股間に――とどめの一撃が入った。……後遺症で以来……私の生理はとても重くなったの。それが『悲の七日間』の始まり……」


 お姉さまの語りはそこでふっと途切れた。


「ねえ瑞祈。私、怖かったの。自分が女であること。男の股間ばかり見ていた私が、女としての急所で敗れたことが」


「だから誰にも言えなかった。強くなろうとするほどに、股間を隠すようになっていったの」


 沈黙。僕は言葉が見つからなかった。でも――言わなきゃいけない気がした。


「……知れて、よかったです。お姉さまのこと、また少し近くに感じられた気がします」


「ありがとう瑞祈。貴方には嘘をつきたくなかったの」


 お姉さまは微笑んだ。その笑みはどこか痛々しくて……でも救われたようでもあった。


 ――

 約束のようにその日も放課後の稽古場に向かう。秋の空はどこまでも高く、落葉の積もった地面が今日だけは少し柔らかく見えた。お姉さまは、既にそこにいた。真っ直ぐに立つその姿からは、もう過去の陰りは感じられなかった。


「……今日は、私から挑むわ」


「……はい。受けて立ちます」


 軽く礼を交わす。それだけで胸が鳴る。以前なら恐れもあった。傷つけてしまうこと、傷つけられること、見失うこと―― でも今は、ただ正面から受け止めたい。お姉さまのすべてを。


 静かな立ち合いが始まる。最初の一手は、いつも通りの型だった。でもその一歩が、今までと違って見えた。以前の彼女は「見せて教える」構えだった。でも今は――勝ちに来ている。


 拳と蹴りを交差しながら、お互いの呼吸が高まり、熱が上がっていく。互角だった。少なくともそう感じるくらいには彼女についていけた。お姉さまの技量、リーチ、経験。僕の柔軟な反応と、「玉覚」の残響。


 そして――


「そこッ!」


 お姉さまの蹴りが、下から伸びる。鋭く、美しく、狙いは――僕の股間。……でも、それを見切れた。ギリギリで躱しすぐさま逆に踏み込む。僕の蹴りが、お姉さまの左脇腹をかすめた。その瞳にわずかに「驚き」が混じる。再び距離を取る。お互いの呼吸が白くなり始める。


「本当に……強くなったのね、瑞祈」


「……いえ、僕が強くなったんじゃない。お姉さまが、全部を見せてくれたからです」


 お姉さまの目がふわりと揺れ、そして微笑んだ。


「じゃあ――もう一度だけ、本気でいくわ」


 その言葉と共に彼女は構えを変えた。懐かしい、でも鋭さを増した「玉護」の構え。かつて僕が習った、股間を守り、心を開く型。これは、ただの稽古じゃない。「私はあなたを信じてる」という構えそのものが示す誓い。


 僕も応えるように、構える。足の角度、腰の位置、重心の置き方……全部、教わった通り。


 そしてふたりは――ぶつかり合った。


 ただ技を交わすのではなく、魂と魂がすれ違うような言葉にできないやりとりの中で。最後の一撃。僕の踏み込みに対してお姉さまが受けに入った。一瞬、僕は止まるべきか迷った。でも、彼女の目がそれを拒んだ。


「遠慮しないで」――そのまなざしが言っていた。


 僕の蹴りが、彼女の腹部寸前で止まる。全力だった。止められたのは、お姉さまだからだ。息を弾ませながら告げた。


「……止めました」


「ええ、見事だったわ。完璧な一本。……ただし」


 お姉さまが、微かに微笑んだ。次の瞬間、僕の視界に違和感が走る。


 ──お姉さまの右脚が、僕の股間すれすれで静止していた。


 まるで彫刻のように、正確で、美しい放物線。それが「そこ」を貫いていたかもしれない未来を想像させるには十分すぎた。


「私も止めていたのよ」


 しん……と沈黙が落ちる。どちらが先に当たっていてもおかしくなかった。いや、同時だったかもしれない。


「……」


「つまりこれは『相打ち』。どちらも勝っていない。どちらもまだ負けていない」


 お姉さまの声は澄んでいて、どこか誇らしげでもあった。


「これでようやく本当の意味で『互角』になれたのね」


 僕は深く頷いた。もし彼女の脚があと数センチ深く届いていたら――僕の未来とタマは止まっていたかもしれない。


「……今ので当たってたら、僕、負けてました」


「ふふ。お互いさまよ。だから、これは『勝負なし』。そして『覚悟の証明』には十分」


 空は茜色に染まり、金色の葉が一枚、舞い落ちた。ふたりの構えは解かれ、戦いは終わった。


 でも胸の中には、何かが確かに始まりかけていた。それは、痛みと秘密を共有した者同士だけが辿り着ける新しい絆の形だった。

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