過宴…
熱は案外あっさり引いた。意識がぼんやりしていた時間も、今となっては遠い夢の中の出来事のように感じる。体はもう普段どおり動くし、食欲も戻っている。
……なのに。
お姉さまとまともに話せていない。あの日以来、どこかぎこちない、透明な壁のような距離が生まれた気がする。稽古は再開されたけれど、以前のように手取り足取り(そして愛撫交じりに)教えてくれることはなく、どこか事務的で、必要最低限の関わりにとどめているような、そんなよそよそしい雰囲気だった。
考えすぎだろうか。でも、あのときのお姉さまの表情――痛みではなく、ほんのわずかな「恐れ」を含んだあの目が、どうしても忘れられない。
(……何か、隠している)
そんな予感が胸に残ったまま、僕は学院の中庭をぼんやり歩いていた。
「やっと元気になったみたいだね」
声に振り向くと、セレストさんがいた。いつものように柔らかな王子様スマイルを浮かべている。でも、その碧眼の奥にはかすかな迷いの色が見えた気がした。
「ああ……ご心配をおかけしました」
彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、僕の様子を静かに見つめていた。彼女のことも、ちゃんと考えなければならない。僕の痛み(と未来)に寄り添おうとしてくれたその真っ直ぐな気持ちにどう応えるべきか――
でも、今は。
まずは、お姉さまと向き合わなければならない。いや、「向き合う」だけではきっと足りない。何が起きたのか。彼女は何を見て、何を恐れたのか。知る必要がある。
『菖蒲とはなるべく話さないで』
あのときのお姉さまの警告が蘇る。
(守るためだったのか? それとも……知られたくない秘密があるのか?)
逡巡のなか、気づけば僕の足は、学院の裏にある静かな日本庭園のような公園へと向かっていた。 風もなく、静まり返った空間――そこに彼女はいた。
白磁のような肌に淡い銀の髪、黒い日傘を傾けた菖蒲さん。昼間の光の中にありながら、どこか夜のような静けさを纏って立っていた。まるで、僕がここに来ることを最初から知っていたかのように。
「……ふふ、やっぱり来たのね」
日傘の影の中から、彼女は僕を見つめる。その瞳――静かな水面のような紅に染まった虹彩が僕の内側を覗き込むようだった。
「……お姉さまと、何かあったのでしょう?」
心臓が跳ねる。何も言っていないのに。
「……何か、あったのね?」
詮索ではない。確信をもって語られる問いかけ。僕はほんの少し躊躇して……それでも正直に話した。
あの稽古で、ほんの一瞬だけお姉さまを追い込むような動きができたこと。信じられないほど身体が軽く、反応が冴えていたこと。そしてその直後に――金的に爆発的な過負荷がかかったこと。
僕が話し終えると、菖蒲さんはしばらく黙って、目を伏せ、それからそっと言った。
「……それ、ひょっとすると『玉覚』かもしれないわね」
「それ……お姉さまも言ってましたけど、都市伝説みたいなものでしょ……?」
「普通はね。でも、古い文献には記録が残っているの」
日傘の奥の声は、静かに、けれどどこか重みを含んでいた。
「また、こうも書かれてるわ――『女には会得できない』って」
「……」
「玉覚。宝玉のような素晴らしい目覚め。……けれど実際には、金的という『男の核』が目覚める現象なんじゃないかしら?」
ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
「それが『疼く』としたら、それが『熱を帯びる』としたら、ある種の共鳴――『波』が発生してるのかもしれない。外からの刺激によって開かれた、隠された回路が」
あの施術の記憶が、脳裏を過ぎる。
BALLS――僕の金的に注がれた痛みを伴う電気信号。それでもし、人為的に「開いた」のだとしたら……。
「でも……本当に、そんなことが……」
否定しかけた言葉は自分の中で空転していった。だって、あの時感じた全能感も、未だに残る疼きも、嘘ではなかった。
「……彼女は、恐れてるのかもしれないわ」
菖蒲さんの声が、ふいに近づいたように感じた。
「『金的』が、ただの急所じゃなくなることを。そして――貴方に敗れることを」
心臓が、一瞬止まりかける。 お姉さまが見せた、あの一瞬の怯え。
(まさか……)
でも、それは確かにあった。僕は――あの一瞬だけ、彼女を怯ませたんだ。その代償に今も金的は疼く。怖い。でも、それでも。
(……僕の「玉」が……目覚めようとしている?)
僕の沈黙を見て、菖蒲さんはさらに言葉を重ねた。
「そしてもうひとつ。彼女は『自分の急所』についても隠しているのよ」
「……え?」
「女もまた、股間に急所を持つ。それを、彼女は――否定したがっている」
言葉が、胸の奥にずしりと沈んだ。
「思い出して。彼女がファールカップに執着する理由。貴方の攻撃に、必要以上に敏感に反応すること。……あれはただの恐怖。自身の脆さを――さらけ出したくないからよ」
僕の唇が、わずかに震えた。
「お姉さまが……僕に何かを……?」
「うなずくなら、いっそ問うべきよ。あの人に――『あなたのすべてを見せてください』と」
その言葉に軽い誘惑や芝居がかった調子はなかった。ただ、真実だけがあった。
「傷つく覚悟を持てば、彼女もまた……隠していた痛みをさらけ出すかもしれない」
「……そんなふうに、お姉さまを考えたこと……なかった」
「当然よ。貴方は『最強』だと信じてきたから」
彼女の声は静かだった。
「でもね、瑞祈。あの人は貴方の前で『強く』あろうとし過ぎてる。本当は――誰よりも脆いのに」
「……」
「昔、組手をしたことがあるの。一度だけ。そのとき、私の膝が――彼女の股間に入ったの」
――ッ!!
「彼女の顔が……子どものように歪んで、声もなく蹲ったわ。自分の中にある『女』の痛みを、初めて知ったような顔で」
静かな空気の中、菖蒲さんの目が僕を捉えた。
「『女が男の金的を突く』のは許されても、『男が女の股間に痛みを与える』ことは許されない。彼女は――その非対称な構図が壊されることを、何より恐れているの」
「……」
「ねえ露草さん。あなたは――その事実と、どう向き合うのかしら?」
答えは、まだ出せなかった。 ただ、頭の中に浮かぶのは、お姉さまの横顔。凛として強く、でもどこか無理に気高くあろうとする――あの、孤独な横顔。
「……玉覚は、そういう『全部』を壊す力……?」
僕の呟きに、菖蒲さんはかすかに微笑んだ。
「違うわ。それは『暴く力』よ。壊すかどうかは――貴方の意思次第」
風がそっと吹き、日傘の影が揺れた。
「怖いなら、逃げてもいい。でも、前に進むなら。貴方自身も――さらけ出す覚悟がいるわよ。彼女にそれを求めるなら、だけどね」
彼女は立ち上がり、芝の上でスカートの裾を払う。
「じゃあ、またどこかで。『答え』を見つけたときに、ね」
淡く笑って、菖蒲さんは去っていった。
風の残響だけが、僕の周囲に残っていた。 その中で、確かに――僕の中の何かが、変わり始めていた。 股間の奥で、小さな「核」が、トクンと脈打った気がした。




