外伝その4
カーテンはぴっちりと閉じられ、外光を遮断した薄暗い空間。勉強机の上には「konozama」……もとい、笑顔のマークが入った某通販サイトのダンボール箱が鎮座していた。
(本当に……買っちゃった……)
手を伸ばすたび、指先が箱の縁で躊躇する。なぜか心臓が早鐘を打っている。まるでお姉さまに内緒で、見てはいけない禁断の書物を開くときのような、背徳的なドキドキ。
(でも、気になっちゃったんだから……仕方ないよね。好奇心は止められないし!)
ようやく意を決して、カッターでテープを切る。開封。緩衝材の海の中から出てきたのは、ツヤのある黒い樹脂素材の塊。レビューに「本格派」「プロ仕様」「防御力抜群」と書いてあった通り、ずっしりとした重みがある。
(これが……ファールカップ……)
掌に乗せるとひんやりと冷たい。そっと指先で表面をコンコンと叩いてみる。カツン、という音が思ったよりも硬質で思わず「わっ」と小さく声を漏らしてしまった。
(こんなに硬いのに……動画の人たちはあんなに苦しんでた……どうして?)
ここ数日、リンの動画検索欄は「金的アクシデント」「悶絶集」などで埋まっていた。裏返して内側のカーブに指を滑らせる。そこは空洞だ。本来なら「そこに何かを納める」ために造られた、守るための空間。
(ここに……露草くんの、大切なあれが……収まってるの?)
そんな生々しい想像をしてしまって、リンはぶんぶんと頭を振った。顔が熱い。
(違うよ……知識! 勉強のため! 敵を知り己を知れば百戦危うからず、って言うし……!)
誰と戦うつもりなのかはさておき、言い訳をしながら、すでに着替えたスウェットのウエストにカップを差し込む自分がいた。異物感。下腹部に硬いものが当たる違和感。けれど、それ以上に「彼の秘密を共有しているような気分」が湧き上がってくる。
(これを着けて、動いたら……少しだけ、あの時の露草くんの感覚に近づける?)
そっと屈んでみる。走るふりをする。軽く跳ねてみる。……ぎこちない。股関節に何かが挟まっている感覚が動きを制限する。それでも確かに、そこに「守られている何か」があるという錯覚が、リンに新しい世界を教えてくれていた。
(男の子って、毎日こんな異物を抱えて生きてるんだ……)
興味。好奇心。そして、ちょっとだけ彼を覗き見ているような罪悪感。金的という深淵に、リンは今、静かに両足を踏み入れたのだった。
――
カチャ、とサポーターのバックルを留める音がしてリンの下腹部にファールカップが完全に固定された。通販でこっそり取り寄せたごく標準的なモデル。柔らかい裏地にハードプラの殻。でも手に持ったときより実際に自分の股間に装着してみたほうが――なんだか、ずっと存在感がある。
「……これが……露草くんの……守り、なの……?」
カップ越しにそっと手を添えてみる。すぐ下に「ある」はずのものが「ない」。けれどカップのふくらみがそこにあるべき形を主張している。撫でてみるとその滑らかな曲線にそって指がなぞられる。
「……」
なぜだか胸がドキドキしてきた。少し呼吸が浅くなる。思いきって人差し指で「こんこん」と軽く叩いてみる。さらに少し強めに、拳で「ゴンッ」と。
「……痛くない。……でも、男の人はこれで悶絶してる動画あったよね……なんで?」
衝撃は分散される。骨盤に少し響くくらいだ。ぞくっとするような、変な気持ち。痛みを感じないことが不思議で、何かが足りないような……でもそれでいてほっとしているような――切ないような。
(露草くん……これを着けて、毎日あんな激しい稽古してるのかな……)
ふと思い出す。前にこっそり覗いた稽古で瑞祈が穿いていた防具。今のカップよりずっと分厚くて、黒く、無骨で……まるで要塞のようだった。
「あれくらい頑丈じゃないと、ダメなの……? ……そんなに、弱いの?」
自分のカップの上から、足を軽く上げてみる。股関節の可動域が少し制限される感覚。標準モデルの今のでもちょっと動きづらい。あんなに分厚いものを挟んでいたら、絶対に蹴りづらいし走れないはずだ。
「……こんなに重装備なのに、痛いの……? どうして神様は、そんな場所に急所を作ったんだろ……」
そっと体育座りをして、カップに手を当てたままぼーっと考え込むリン。まるで、世界のバグ(設計ミス)に触れたような気がして――胸の奥が、ちくりと疼いた。
そのまま布団の上に仰向けになって、リンはそっと膝を立てた。カップが重力でわずかにずれて、下腹部にじわりと重みが伝わってくる。
「……こんなものが……あんなに……人を狂わせるなんて……」
手元のスマホには、検索履歴の名残がいくつも残っていた。
「金的 痛み 男性」 「ファールカップ 貫通 悶絶」 「睾丸 神経 どこにつながってる?」
いくつも記事を読んで、いくつも動画を見て――知識としては、もう十分だったはずなのに。知れば知るほど実感が欲しくなる。
(知りたい……。だけど、私には「ない」……)
ファールカップの硬質な感触が、逆に中身が「空っぽ」であることを強調してくる。何も守っていないのに、守っているふりだけしている空虚な感覚。でもそれでも、装着していると自分にも何か「特別な場所」ができたような気がしてしまう。
「……不思議……なんでこんなに、落ち着くんだろ……」
まぶたが少しずつ重くなっていく。まだパジャマにも着替えていない。だけどカップを外す気にはどうしてもなれなかった。この圧迫感が、瑞祈くんとの繋がりであるような気がして。
(露草くんの……金的……)
思考がぼやけていく中、なぜか彼の姿が浮かんできた。稽古中に蹴られて蹲っていた姿も。ぎゅっと股間を押さえて、涙目で必死に耐えていたときの表情も。
(あんなに痛いのに……。頑張ってるんだね……)
ほんの少し胸が痛くなった。それが自分のせいではないとわかっていても、なぜか。カップ越しにそっと両手で包み込むように覆う。そこに彼の大切なものがあるかのように。
「……おやすみ……露草くん……」
そして――眠りは静かに、新しい扉を開いたリンをさらっていった……。




