惨頂
金的を蹴られてから一日が経った。
朝起きると体がやけに熱い。頭がぼんやりする。喉も少し乾いていた。
「……風邪……かな?」
そう思ったけど、違和感があった。風邪のときに感じる悪寒とは違う。どちらかといえば、熱がこもるような、局所的な火照り。
そして、痛む。それがどこかは、言うまでもない。
布団をめくるのも怖かったが、意を決してそっと脚を開いた。ズキン、と下腹部に響く痛み。熱のせいか蹴られた部分が腫れ上がっている気がする。
(……さすがにこれはまずい)
ひとまず病院に行くことを考えた――が、立ち上がるだけで下腹部が引きつるように痛む。歩くどころかベッドから降りることすら億劫だった。
そんなとき部屋の扉がそっと開く。
「瑞祈?」
聞き慣れた声だった。お姉さまだ。
僕の様子を見てすぐに異変に気づいたのか彼女はベッドのそばに寄ると、俺の額にそっと手を当てた。
「熱……やっぱりあるわね。蹴られたところ、腫れてるんでしょ?」
まるで、すべてお見通しのような口ぶりだった。
「……ええ、まあ……」
素直に頷くと、お姉さまは少し考え込むように目を伏せた。
いつものお姉さまなら――
「熱を冷ますには、額より股間周辺の方が効率的よ」
そう言って、妙に念入りな看病をしてきたはずだった。
実際、前に風邪をひいたときは「これは治療よ」と言いながらやたらと股間の周りを冷やしてきた。僕が「いや、そこは別に……」と抵抗すると、「何を言ってるの? 金的は熱に弱いのよ?」と、もっともらしい理屈をつけられたこともある。
だが――今日は、違った。
「お水、持ってくるわね」
そう言うとお姉さまは僕の額に冷たいタオルをそっと置き、すぐに部屋を出ていった。
(あれ?)
違和感があった。何かが決定的に違う。
確かに、彼女は優しく看病してくれている。けれど、それはいつもの「お姉さま」ではなかった。むしろどこか距離を取られているような……?
ベッドの中でぼんやりと考え込む。
――
お姉さまの姿が消えた部屋でぼんやりと天井を見つめた。
まだ熱があるのか頭がぼうっとする。けれど、それ以上に心のどこかが冷えたような気がしてならない。
いつものお姉さまなら……
金的は熱に弱いという理屈を盾に、僕の急所をひたすら冷やしていただろう。額に手を当てるだけではなく、妙に念入りに看病をしてきたはずだ。それが今日は妙にあっさりしていた。
……いや、むしろ「避けられた」と言った方が正しいのかもしれない。
「……なんで」
呟いたところで答えは出ない。けれど、この違和感は確かに残る。
そんなことを考えていると部屋の扉がノックされた。
「おーい、瑞祈。生きてるかー?」
ひょいっと軽い調子で顔を出したのはサキだった。
「うわ、ほんとにしんどそう。大丈夫?」
「……あぁ、なんとかな」
そう返すと、サキは持っていた袋をガサゴソと開けながらにこっと笑った。
「お見舞いってことで、スポドリとゼリー持ってきたよ。あと、面白そうな漫画も!」
いつものノリで気楽に話しかけてくるサキに、張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。
「なんか悪いね……」
「いいってことよー。瑞祈ってこういうとき誰かに甘えなさそうだし、たまには頼っていいんだからねー?」
そう言いながら、サキは僕の顔を覗き込む。
「で? どしたの? 風邪? それとも……」
ちらっと俺の布団の中を指差し、ふざけたような調子で言う。
「ひょっとして、タマタマ腫れて熱が出たとか? なんちゃって」
「っ……!?」
思わず息が詰まり、心臓が跳ねた。
な、なんで分かった!?
一瞬血の気が引きかけたが、サキは特に気にした様子もなく、「まあ、そんなことあるわけないかー」と自分で勝手に納得して、袋からゼリーを取り出し始めた。
「ま、冗談冗談。変なこと言ってごめんねー?」
「……いや、別に」
危なかった……!
僕があまりにも狼狽えていたら、サキなら確実に「え、マジなの?」と突っ込んでいただろう。だが、どうにか無難な反応で誤魔化せた。
それでも、サキの何気ない冗談が内心をえぐるように揺さぶったのは間違いない。
(腫れたこと自体は……たぶん、そんなに長く引きずるものじゃない)
でも、お姉さまの態度は? 腫れが引けば、また元に戻るんだろうか?
いや、そもそも、何かが変わったのは僕のせいなんだろうか……?
「ん? どうしたの、瑞祈?」
「……いや、なんでもないよ」
サキは「そ?」と首を傾げると、ゼリーのパッケージをビリッと開けて差し出した。
「はい、アーンしてあげよっか?」
「いや、自分で食べるよ」
「つれないなー、せっかくお見舞いに来たのにー」
ふざけながらも、サキは普段と変わらない調子でいてくれた。
お姉さまの態度の変化に感じたモヤモヤとは違い、サキの無邪気なからかいは少しだけ僕の心を和らげてくれた。
――
サキが帰った後、部屋は再び静かになった。
まだ熱っぽさは残るが、サキのおかげで少し気が紛れた気がする。
(……けど)
お姉さまの態度の違いは、やはり頭から離れない。
考えすぎかもしれない。けれど、これまでとは明らかに違う何かがある。
――コンコン。
扉をノックする音に、思考を中断される。
「瑞祈くん、いるかい?」
透き通るような凛とした声。
「……セレストさん?」
扉が開くと、そこには制服姿の彼女が立っていた。
「誰か来ていたらしいね。入ってもいいかな?」
「あ、はい……」
セレストさんは静かに部屋に入り、僕の顔をじっと見つめた。
「やっぱり顔色が悪い。大丈夫かい?」
「まあ……そんなにひどくは……」
そう答えると、彼女は小さく頷き持っていた袋から何かを取り出した。
「これは?」
「蜂蜜入りのハーブティーさ。体を温め、回復を助ける」
そう言って、彼女は小さな魔法瓶を差し出した。
「……ありがとうございます」
受け取り、ゆっくりと口をつける。甘く優しい味が喉の奥を滑り落ちていった。
「……美味しい」
「そう。それは良かった」
セレストさんは満足そうに微笑んだ。
だけど彼女は次の瞬間、少し表情を引き締め、真剣な顔で僕を見つめた。
「瑞祈くん……今回のことは、ボクの責任でもあると思っている」
「……え?」
「君は男の子だ。男には、女にはない急所がある」
真剣な瞳でそう告げるセレストさんに俺は言葉を失った。
「……えっと、それが……どう関係あるんです?」
「当然だよ。男の急所は一撃で戦闘不能になるほどの弱点。それを狙われる危険がある以上、本来、女が男を守るべきなのではないか?」
「…………」
言葉に詰まる。
セレストさんの口調には妙な確信があった。
「……それ、どこでそんな風に思ったんです?」
「……昔の経験さ」
セレストさんは少し目を伏せた。
「ボクは幼い頃から武道を学んでいた。空手の組手でも師範や先輩たちを相手に何度も立ち向かった」
彼女は、静かに記憶を辿るように語る。
「どれだけ正確な突きや蹴りを入れても、相手は耐え抜いた。だけど……ある時、ボクは偶然、相手の股間を蹴ってしまった」
「……!」
「その瞬間、それまで耐え抜いていた男性が膝から崩れ落ち、動けなくなった」
僕は無意識に股間を押さえた。
「驚いたよ。今までどんな攻撃でも耐えていた男の人が、たった一撃で……。ボクはその時、初めて知ったんだ。男には、女にはない決定的な弱点があるのだと」
彼女は小さく息をつく。
「そして……それが単なる武道の話ではないと気づいたのは、もっと幼い頃のことだ」
「……幼い頃?」
「ああ。恥ずかしい話だけどね……」
照れくさそうな……少し自嘲ねいた顔をして彼女は続けた。
「ボクの苗字……。『ブルーメル』って名乗ってるけどホントはちょっと違う。発音的には『ブルーマ―』になるんだ。それで子供の頃、苗字のことでからかわれていた。『ブルマブルマ』とね」
少し寂しげな表情を浮かべる。
「ある日、しつこく絡んできた男子を振り払おうとして、無意識に足を上げた。狙ったつもりはなかった。だが……当たってしまったんだ」
「……」
「その子は、うずくまって動かなくなった。泣きながら謝る私に、周りの大人たちは『大変なところを蹴ったんだぞ』と慌てていた」
彼女は遠い目をしていた。
「その時強く思ったんだ。男は、自分ではどうにもならない弱点を抱えているのだと。だからこそ、女が守るべきなのではないか、と」
セレストさんの考え方はまっすぐすぎるほどまっすぐだった。
(……僕を、守る?)
そう思われているのは、正直、複雑だった。
「ボクは君を守りたい。だからこそこうしてお見舞いにも来た」
セレストの瞳が揺らぐ。彼女は少し俯き、言いにくそうに言葉を続けた。
「だから本当の苗字は……ブルーマー、なんだ……」
「……はい……」
「さっきも言ったよう小さな頃に『ブルマブルマ』とからかわれたのが嫌でブルーメルと名乗っているんだ……」
思いがけない告白に、俺は目を瞬かせた。
「……そうだったんですか」
「……恥ずかしい話だけどね」
セレストさんはふっと笑い、けれどどこか寂しげな表情を浮かべた。
「そんなボクだけど、ボクは君を守れる王子でありたい」
その言葉には、彼女なりの覚悟が込められていた。
(セレストさんはセレストさんだ……)
どんな名前であれ、彼女は変わらない。でも、それと同時に僕の中に新たな疑問が生まれる。
(――お姉さまは、僕のことをどう思っているんだろう)
セレストさんのように「守りたい」と思ってくれているんだろうか?
それとも……。




