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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
31/55

錬獄前域

 外では雨こそ降っていないものの、空気にはじっとりとした湿り気が漂っていた。梅雨が本格的に始まる前の、この曇天の重苦しさは、なぜか心の奥まで入り込んでくるようだ。


「これじゃ、集中なんてできっこないよ……」


 机の上でシャーペンを回しながら言い訳半分に独りごちた。

 すると、ドアが静かに開く音がして、彼女──お姉さまが現れた。


「お邪魔します」


 その柔らかな声はいつもと変わらないのに、僕にはどこか遠いもののように感じられた。

 しばしば忍者か何かのように入り込むことがある彼女が正面からやってきたからそう思えただけかもしれないが。


(……それが普通なんですけどね……)


 まくった袖口から覗く手首がいつもより冷たそうに見えた。そんな些細な仕草に目を留めてしまったのは、彼女が普段よりも少し疲れて見えたからだろうか。


「もしかして……もうすぐ『あれ』……ですか?」


 僕はつい訊いてしまった。


 彼女の目がわずかに伏せられる。その瞬間だけ、お姉さまという大きな存在が、まるで小さな一人の少女に戻ったように見えた。


「そうね、来るわ……いわゆる悲の七日間が」


 その声は、いつものからかい混じりの調子ではなく、本当に重く──そして静かだった。


「……辛くないんですか?」


 気づいたらそんな言葉が口をついていた。


「ふふ……瑞祈、そんな顔をしないで。大丈夫よ」


 お姉さまは軽く微笑んだが、その笑顔はどこか痛々しかった。


 この学院では彼女の「七日間」を知らないのが少ないくらいだ。「彼女たち」しか存在しないこの学院においてその辛さは多くの者に共有されているだろう。……「妹」たる僕よりもずっと……。お姉さまは普段誰にもその苦しみを見せようとしない。けれど、僕の前では時折その仮面が少しだけ剥がれる。


「ほら、勉強に戻りましょう。時間は待ってくれないもの」


 そう言いながら、お姉さまは僕のノートを手に取り、余白にするするっと解法を書き込む。まるでその瞬間だけ、彼女自身の痛みを忘れるかのように。


「……すごいな。お姉さまって本当に頭いいんですね」


 自然とこぼれた言葉に彼女は一瞬だけ得意げな顔をした。


「ふふっ。まあね」


 ここで変に謙遜しないところがお姉さまらしい。

 そう言って僕の頭を軽く叩く。その仕草は優しいはずなのに何かが胸に刺さった。彼女の内面に隠れた苦しさを知っているからだろう。


「それにしても、貴方も大変ね。待ち構えている試験が勉強の方だけでないのだから。……私も瑞祈のことを支えるのがそろそろ難しくなってきちゃうかも」


 そうつぶやく声は冗談のようでいて、どこか本気の響きがあった。


 僕はぐっと拳を握りしめる。

 ──絶対に負けられない。今度の「テスト」で。お姉さまの前で、僕はもっと強くなってみせる。


 ……でも、その決意の裏で、静かに心がざわめくのも止められなかった。

 梅雨も、お姉さまの「七日間」も、僕には重たすぎる。これを乗り越えた先に、本当に晴れ間は見えるのだろうか……。


 ──

 テスト最終日の朝、雨はやんだものの、曇り空はまだ完全には晴れていない。湿った空気がじっとりとまとわりつき、頭がぼんやりとするような不快な重さが残っていた。


 教室の自分の席に腰を下ろし、最後の一科目に向けて教科書を見つめる。けれど、文字がまるで霧のように頭の中で霞んでいく。


「……もう、無理だ……」


 何度か瞬きをしても、眠気と疲れは拭えない。

 試験期間中は勉強に追われる日々だった。だが、それだけではない。お姉さまもまた「悲の七日間」に苦しんでいるのだと思うと、どうにも心が落ち着かなかった。


(お姉さま、今頃どうしてるんだろう……)


 試験期間の合間に何度か彼女の姿を見たが、その顔には明らかに疲労の色が浮かんでいた。いつもは背筋を伸ばし、堂々とした彼女が、どこか儚げに見えたのが忘れられない。


 試験終了のチャイムが鳴った瞬間、鉛のように重い体を引きずるようにして席を立った。


「終わった……」


 その呟きと同時に、空がふいに光を放ち始める。教室の窓から見上げると、分厚い雲が切れ、ようやく青空が顔を出した。


「もうすぐ梅雨明け……かな」


 肩にまとわりついていた不安や疲れが、青空の下で少しだけ軽くなる気がした。


 ──

 寮に戻るとお姉さまがロビーのソファに座っていた。僕を見つけると微かに微笑むお姉さま。その微笑みは、いつものからかい混じりの笑顔ではなく、どこか晴れやかなものだった。


「お疲れさま、瑞祈」


「……お姉さまこそ、大丈夫でしたか?」


 彼女は少しだけ肩をすくめた。


「ふふ、辛かったけど、どうにか終わったわ……例の七日間も」


 彼女の言葉は、空の青さと同じように、長かった重圧から解放されたことを物語っていた。僕は自然と拳を握る。


「お姉さま……僕、もっと強くなります。だから次は、僕が支えますから」


 その言葉に、彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに瑞祈の頭をそっと撫でた。


「随分と頼もしくなったわね、瑞祈。でも、その気持ちだけで十分よ」


 彼女の手のひらが髪に触れる感覚は、梅雨明けの風のように優しく、心地いい……。


「さあ、梅雨も明けたことだし……何か美味しいものでも食べに行きましょうか。ご褒美にね」


 その誘いに、僕は少し照れたように頷いた。


 稽古場に戻るのは、もう少し先になりそうだ。けれど、二人にとって、この梅雨明けの青空が次の挑戦への合図だった。

 僕は静かに誓う。この試練を越えた自分が、次の「テスト」でお姉さまに認められるように。


 そして、その青空の下で、彼女の笑顔をもう一度見られるように──


 ──

「何か美味しいものでも食べに行きましょうか。ご褒美にね」


 そう言ったお姉さまに、半ば引きずられるように連れられて、学院近くのレストランに来ていた。雰囲気は落ち着いていて、少し大人びている。僕みたいな学生が来る場所じゃない気がするけど……お姉さまにはこの店がよく似合っている。

 重厚な扉を開くと、芳しいオリーブオイルとガーリックの香りが漂ってきた。控えめな照明の下、テーブルクロスは白く美しい波のように光っている。お姉さまに連れられ、僕はなんだか場違いな気持ちのまま席に着いた。

 

「すごい……ここ、本当に高級店ですね」


「ふふ、ご褒美だからね。たまにはこんな場所もいいでしょう?」


 お姉さまは余裕たっぷりに微笑む。その微笑みは、どこか遠くて、今までとは違って見えた


 ──

 しばらくすると金色に輝く揚げ物が運ばれてきた。サフランで色づいたリゾットの上に美しく盛り付けられている。


「さあ、瑞祈。召し上がれ」


 勧められるままに瑞祈は一口食べた。衣のサクッとした食感の後、濃厚でクリーミーな味わいが広がる。


「すごく美味しいですね!」


「そう、よかった」


「なんていうか、まったりとしていてそのうえコクがあり、それでいてあっさりとなめらかな……──」


 何か気の利いた表現をしようとしたが、適当な言葉が出てこずテキトーなことを言ってしまった。……あぁ、僕の語彙力表現力よ……。


「……とにかく美味しいです」


「そうね、私も好き。……まぁさすがに瑞祈のを食べるわけにはいかないけど」


(ん?? ……今何と?)


「これは一体何を……」


 そんな僕に、お姉さまはくすっと笑いながら、さらりと言った。


「牛の睾丸。要は金的よね」


「……え?」


 僕の動きが一瞬で固まった。


「クリアディージャスって言うの。闘牛士たちが、勝利の象徴として食べる料理らしいわ。強くなるための料理、ってところかしら? ほら、今の貴方にはぴったりでしょ?」


「……」


 言葉を失った瑞祈は、手の中のフォークを見つめたまま、顔が真っ赤になっていく。


(こ、こ、こ……このひとはまったくー!!)


 お姉さまは僕の反応に小さく肩を震わせて笑っている。


「ふふ、素敵……。そんなに驚かなくてもいいのに」


 対して僕は羞恥心に耐えかねて俯き、真っ赤な顔を隠そうとする。


「……そんなこと言われても、普通食べないですよ……!」


 お姉さまはそんな僕をからかうように、彼の髪をくしゃっと撫でる仕草をした。それがなんだか優しくも少しだけ親しみすぎているように感じる。


「ふふ。これも立派な試練、ってことで。ね?」


 柔らかな手の感触がした気がして、心のざわめきを覚える。今までのカリスマ的な姿とは違う、無防備で温かい一面が垣間見えた気がしたのだ。



 ──

 食事が一段落し、僕らはゆっくりとデザートのクレマ・カタラーナ(……だっけ?)を楽しんでいた。僕の緊張もようやく和らいできた頃。


 不意にお姉さまが小さな声でつぶやいた。


「……瑞祈って、本当に面白い子ね。貴方といると……」


 耳を澄ませたけれど、続く言葉は聞き取れなかった。


「なんですか?」


「ううん、何でもない。……ただ、貴方がいると、少しだけ仮面を外せる気がするのよ」


 お姉さまの瞳はどこか遠くを見つめている。それは、彼女が普段見せない、柔らかな表情だった。胸の奥にじんわりと温かいものが広がる。


(お姉さま……)


 頭の中のどこか遠くで「ヒョー!」という掛け声がした気がしたが、それは無視することにした。


 

 ──

 店を出ようと立ち上がったとき、瑞祈は椅子の脚に足を引っ掛けてバランスを崩した。


「うわっ……!」


 咄嗟にお姉さまに掴まろうとするが、そのままの勢いで……お姉さまの豊かな胸に顔面からダイブ。


「きゃっ!」


 お姉さまの腕に支えられ、なんとか転倒は避けられたものの、僕は胸に顔を埋めたまま固まってしまった。


「……瑞祈?」


 僕はおそらくもうこれ以上ないほど真っ赤になって飛び退いた。


「ごごごっ、ごめんなさい!!」


 お姉さまは一瞬驚いたものの、すぐにクスクスと笑い始める。


「ふふ、本当に面白い子ね。こんなところで急所攻撃するなんて」


「そ、そんなつもりじゃ……!」


 彼女の笑い声に乗せられ、つい笑ってしまう。胸の鼓動が早まるのを感じながらも、二人だけの特別な時間が終わりに近づいていく……。


(もうすこしだけこの時間が続けばいいのに……)


 お姉さまもまた、僕の様子を見て、満足そうに微笑んでいた。


「さ、帰りましょうか。次の『テスト』も期待しているわよ?」


 仮面のほころびをほんの少し見せたお姉さまと彼女に惹かれ始めた僕。二人の関係はこれからどう変わっていくのか──その答えは、きっと次の「テスト」で見つかる。そんな気がした。


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