儒でっか?
草むらを踏みしめながら微かに湿った風の匂いを吸い込んだ──
ついこの前の稽古を思い出す。お姉さまの寸止めの蹴りが放たれた瞬間、体が勝手に飛び退いてしまった。
「怖がることないわよ」
お姉さまはそう言ったけれど僕には無理だった。たとえ「絶対に痛くない」ファールカップを着けていても、股間を狙われると……。変な言い方だけど、僕より速く僕の金的が恐怖、反応して腰を引かせるというか……。
(あの時の飛び跳ね方は本当に情けなかったな──)
自分でもそう思う。
体育の時間にも同じようなことがあった。ひとりの女子が冗談半分で金的を蹴る真似をしたとき、僕は思わず全力で避けたんだ。そんな自分を周りは笑ってた。
……彼女たちにはわからないんだろう。男にとって股間を狙われることがどれほど怖いかなんて。あの一瞬に湧き上がる冷たい汗――言い訳なんて通用しない。
(だからこそ、僕は強くなりたい。強い男でありたいのに、それなのに……――)
ふと、風が背後から吹き抜けた。遠くの雲が広がり、夕陽がじわじわと消えていく。梅雨が近い。
僕の胸の中も、少しずつ曇っていくような気がした。
「露草さん、こんなところで何をしてるのですか?」
僕は笛木さんの突然の声に軽く驚きながらも、努めて平静を装う。
「ちょっと風に当たってたんだ」
「ふーん……そっかぁ……」
笛木さんは僕の隣に腰を下ろす。しばらく風が通り抜ける音だけが聞こえて、僕らは何も言わなかった。
「ねえ、露草さん?」
不意に、彼女が僕を見つめて言った。
「体育のときもそうだったけど、あの飛び跳ねるの、なんだか可愛いかったな」
その言葉に僕は一瞬固まってしまった。
「……え?」
「ううん、なんでもないです」
笛木さんは小さく笑っただけでそれ以上は何も言わなかった。
(待って。もしかして、彼女は……)
僕の胸の中で疑念がじわじわと広がる。体育の時間の話をしているだけのようにも聞こえるが、でももし彼女があの稽古場を見ていたのだとしたら? いや、そんなはずはない。きっと偶然の一致──だよ……ね? そう思いたい。
風がまたそよそよと僕らの周りを吹き抜けていく。彼女の笑みは優しくそれでいてどこか含みがあった。
僕は胸の奥にうずく不安を何とかやり過ごそうとする。風の音が心地よいはずなのに、僕の心の中はざわざわと落ち着かない。笛木さんの隣にいるだけで言いようのない不安が胸を締めつける。
「あのぉ……露草さん?」
彼女の声に僕は軽く肩をすくめた。
「どうしてそんなに真剣な顔してるんです?」
首を傾げ悪戯っぽく僕の横顔をのぞき込む笛木さん。
「別に……なんでもないよ」
無理に微笑み返そうとするけれど、その笑顔がぎこちないのが自分でもわかる。
「ですかぁ」
笛木さんはあっさりとした顔で答えると、手元の小さな草を一つ摘んで、何気なく指先で弄び始める。その無防備な仕草が逆に怖い。
(……あの稽古のこと、本当に知らないのかな?)
言葉の端々や、笑みの裏に隠された意図を探るように、僕は彼女をじっと見つめる。けれど、その表情は柔らかく、何もかもお見通しで楽しんでいるかのようだ。
「露草さんって、いつも一人で風に当たるの好きなの?」
「まあ……気分転換にね」
そう答えながらも、何か言い返したい気持ちが胸に湧き上がる。でも、どう切り出せばいいかわからない。
(稽古場で僕を見ていた?)
──いや、ただの偶然だ。笛木さんが僕の秘密を知るわけがない。……ないと思いたい。
「……なんか変なこと言っちゃいましたか?」
彼女は、摘んでいた草をぽいっと放り投げ、僕の顔をのぞき込む。
「ううん、そんなことないよ」
僕は慌てて否定する。でも、その瞬間、僕の胸の奥に巣食う疑念がまた少しだけ大きくなった。
笛木さんが見せた笑顔は、本当にただの偶然なのか。それとも彼女はあの稽古場で僕の弱さを見抜いて、今こうして僕をからかっているのか?
「露草さん、何を考えてるんです?」
その問いかけにドキリとした。彼女の瞳は穏やかだけど、逃げ場のない深さを持っている。
「ほんとになんでもないってば……」
僕は言葉を濁しながら、視線を夕陽が消えかけた空へと向けた。けれど、心の中の霧は晴れず、風が吹くたびにその不安が広がっていく。
彼女は何も知らない。ただの偶然だ──そう信じたくて、僕は何度も自分にそう言い聞かせる。
けれど意味深な笑顔がどうしても頭から離れない。
風が吹くたびに、草むらがさわさわと揺れ、二人の間に微妙な静寂が落ちる。何か言わなければと焦る僕の思考とは裏腹に笛木さんは穏やかな顔でただ風の音に耳を傾けている。
「……笛木さんはいつもここに来るの?」
僕は自然を装うように話を振った。
「いいえ、たまたま。今日はなんとなく丘に登りたくなったんで」
彼女の答えはまるで深い意味なんてないかのように軽い。でも、消えない僕の疑念……。
(本当に「たまたま」か?)
何度も反芻するうちにその言葉が嘘のように思えてくる。もしかしたら彼女は僕がこの丘に来ることを知っていて待ち伏せしていたんじゃないか──そんな馬鹿げた考えが頭をよぎる。
「露草さん?」
ふと笛木さんが僕を呼んだ。
「……え?」
我に返った僕は、少し驚いたように彼女の顔を見つめる。
「さっきからずっと考え込んでますね。ひょっとして何か悩んでたり?」
彼女の問いは、ただの気遣いなのか、それとも僕の動揺を見透かしたものなのか。どちらとも取れる曖昧な響きを持っている。
「いや、別に……」
僕はまた言葉を濁し視線をそらす。
「ふーん……」
彼女は短く相槌を打つと、いたずらっぽく笑った。
「露草さんって、本当にわかりやすいな」
その言葉に僕の胸がざわりと音を立てた。彼女の笑みの裏にやっぱり何か深い意味が隠れているように感じてしまって。
(まさか、本当に見てた……?)
疑念が胸の奥でどんどん膨らんでいく。もし彼女が僕の稽古の姿を見ていたのなら、僕がどれだけ情けない姿をさらしていたかも知っているはずだ。
「露草さんって、強くなりたいんですか?」
突然の質問に、僕はハッとする。
「え……?」
「この前の体育のときも、あの冗談の蹴りを本気で避けてた……よね? 何か特訓とかしてたり?」
笛木さんは少し首をかしげながら言う。その言葉が無邪気であるほど僕の心の中では重く響く。
「……うん、まあ……」
小さくうなずくしかできなかった。
「強くなりたいなら、もっと力を抜いた方がいいかもしれませんよ?」
彼女はそう言いながら僕の肩を軽く叩いた。まるで「気にしなくていい」とでも言うように。
その瞬間、僕の胸の奥で何かが弾けそうになった。
(……何を知ってるんだ? 本当に僕のことを見てたの? それともただ僕が勝手に動揺してるだけなの?)
夕陽は完全に沈み、辺りは薄暗くなっていく。空には梅雨の前触れのような重い雲が広がっていた。
「ねえ、露草さん」
ぽつりと呟くように笛木さんは言った。
「そんなに自分を責めなくても、いいんじゃないですか?」
その言葉が僕の心にじんわりと染み込んでいく。彼女の無邪気さの中に、どこか優しさがあるのを感じた。
僕は何か言いたかったけれど、喉の奥で言葉が詰まり、それができなかった。ただ風の音だけが僕らの間を通り過ぎていく。
風が再び草むらを揺らしながら僕らの間を通り抜けた。彼女の言葉が、僕の心の奥深くに残り、思考の中で何度もこだまする。
「そんなに自分を責めなくても、いいんじゃないですか?」
──どうして彼女はこんな風に僕の心に触れるんだろう?
普段の僕ならこういう言葉を聞いた瞬間に「そんなことない」と跳ね返していたかもしれな。それなのに今はただ黙って受け入れている自分がいる。
(強くなりたいのに……。でも、僕は本当に強くなれるのだろうか?)
疑念と自己嫌悪がじわじわと胸の奥で渦巻く。彼女のあの笑み──それがただの善意か、それとも何かを知った上での優しさなのか、僕にはまだわからない。
「露草さんって、頑張りすぎなんじゃないかな?」
笛木さんが静かにそう言うと、僕の心のどこかがまたちくりと痛んだ。
「え?」
「ううん、なんとなくそう思っただけです」
彼女はそう言ってまた軽く笑った。
彼女の無邪気な声は柔らかな風とともに、夕暮れの闇へと溶けていく。僕はその笑みの裏に何か言葉にできないものが隠れているような気がしてならなかった。
「……そんなこと、ないよ」
反射的にそう呟く。けれど、その言葉には自分でも違和感を覚えた。
(僕は何を否定しようとしてるんだ? 頑張りすぎてるのは、もしかして……)
ふと、自分自身を見つめ直してみたくなる。僕は誰のために強くなりたいのか? 自分を守るためか、それとも誰かの期待に応えたいからか──。
夕闇が深まる丘の上で、僕の心は霧に包まれていくようだった。
「でも……露草さん、そういうところも素敵だと思います」
笛木さんの言葉が柔らかく僕の耳に届く。僕は何かを言おうと口を開きかけたが、その瞬間、彼女がそっと立ち上がった。
「そろそろ行きますね。また明日、教室で会いましょう」
そう言って振り返ることなく丘を下り始めた。
僕は彼女の背中を見送りながら、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような気持ちになる。僕の中に何かを残していった笛木さん──それは不安なのか、期待なのか、それとも……──




