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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
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波悶者

 稽古場の空気は水飴のように重く静まり返っていた。梅雨明け直前の湿気を吸い込んだ道場の板張りが裸足の足裏にじっとりと張り付く。正面には正座をして呼吸を整えるお姉さまの姿。その背筋は氷の刃のように美しく、同時にこれから始まる「処刑」を予感させて背筋が粟立つ。


(今日こそは……負けない。僕は強くなるんだ)


 今日は月に一度の「テスト」。いつもの「絶対痛くないファールカップ」は許されない。僕の股間は薄い布一枚の下で頼りなく無防備に震えている。それでも、僕はそれをお姉さまに示さなければならない──自分がもう、ただ守られるだけの「妹」ではないことを。


「……始めるわよ、瑞祈」


 鈴を転がすような声と共に、彼女が音もなく立ち上がる。構えた瞬間、スッと間合いが消えた。速い。


 ──シュッ。


 鋭い手刀が僕の首筋を捉える。しかし、僕は動じない。僕は特異体質らしく、一部の急所の効きが鈍くそこはただの皮膚だ。痛みも麻痺も走らない。


「ふふ。……相変わらず、首や関節は『無敵』ね」


 お姉さまが艶然と微笑む。その笑みが意味する事実に、僕は遅れて気づき戦慄した。無効な箇所があるということは、攻撃の選択肢が「あそこ」に絞られるということだ。


「なら──一番素直な場所に訊くしかないわね?」


 視界が揺れた。防御しようと足を開いたのが間違いだった。彼女の鋭い膝ががら空きの股間に滑り込んでくる。


 ──ズドンッ。


「ッ……あ……あ゛……!?」


 乾いた音ではなく、重く湿った衝撃音が体内を駆け巡った。的確に、残酷なまでに精密に。膝の皿が僕の「左側の古傷」を直撃し、かち上げる。声にならない絶叫が喉で詰まり、視界がホワイトアウトする。痛みというより、魂を引っこ抜かれるような喪失感。


(あ、が……熱い……痛い……ちぎれ……ッ)


 脂汗が一気に吹き出しその場に崩れ落ちそうになる。だが、それ以上の「異変」に気づいた瞬間、僕の血の気が引いた。


「……う、そ……」


 股間の左側にあるはずの「重み」がない。代わりに下腹部の奥底、狭い管の中に、異物が無理やりねじ込まれたような、息の詰まる鈍痛が広がっていく。


 ──入ってしまった。あの狭い鼠径管に、僕の左のタマタマが、衝撃で押し込まれてしまったのだ。


「や、やばい……降りて……こない……!」


 このままじゃ……なんだかよく分からないけど不安になる。恐怖と激痛でパニックになった僕は、戦いの最中であることも忘れ、本能のままに動き出した。


 ……ピョンッ。


 僕は涙目で、その場で小さくジャンプした。道場の床が軋む。重力よ、仕事をしてくれ。お願い降りてきて。


 ……ピョンッ、ピョンッ。


 降りてこない。管にがっちりと嵌り込んでビクともしない。傍から見れば、金的を蹴られた美少女(男)が、股間を押さえて必死にウサギ跳びをしているという、あまりにも滑稽で無様な光景だろう。でも今の僕には、これしかできない。


「うぅ……っ、降りてよぉ……! お願いだからぁ……!」


 ……ドスン、ドスン。


 着地の衝撃が走るたびにお腹の中のタマタマが締め付けられて痛む。泣きそうだ。強くなりたかったのに。お姉さまを見返したかったのに。結局僕は、自分のタマタマの位置調整ひとつで踊らされる、無力な生き物なんだ。


「……あらあら。可哀想に」


 背後から慈愛と加虐が入り混じった甘い声が降ってくる。ビクリと肩を震わせて振り返ると、お姉さまが聖母のような笑顔で立っていた。


「『迷子』になっちゃったのね? ……瑞祈の左の子は本当に臆病なんだから」


「お、お姉さま……! 違うんです、これは……っ」


「いいのよ。跳ねても無駄よ。……だって、私の膝で奥まで押し込んでしまったんですもの」


 お姉さまは、抵抗する僕の腰を優しく、しかし強引に抱き寄せた。


「じっとして。……私が『救出』してあげる」


 拒否権はなかった。お姉さまは僕を仰向けに寝かせると、スリットから手を滑り込ませる。指先には、いつ用意したのか、ぬるりとしたオイルがたっぷりと塗られていた。


「んっ……! ひぁ……!」


「力まないで。……ああ、ここね。こんなに奥まで……震えてるわ」


 お姉さまの指が、下腹部の皮膚ごしに、埋まった古傷を的確に捉える。熱を持った指先が狭い管を押し広げるように、ねっとりと、執拗に揉みほぐし始めた。


「痛い……っ! そこ、押さないで……!」


「我慢なさい。……こうやって誘い出してあげないと……一生お腹の中よ?」


 ぬちょ……ぐりゅ……。恥ずかしさと痛みで、涙が滲む。僕が一番隠したい弱点をお姉さまに完全に掌握され、弄ばれている。


「ほら……降りておいで。私の手は怖くないわよ……ね?」


 ニュルンッ……。


「あ……っ!」


 湿った音と共に左のタマタマが定位置へと滑り落ちてきた。圧迫感から解放された安堵と熱を持った患部を直に握られる背徳感が、同時に押し寄せる。


「……ふふ。おかえりなさい」


 お姉さまは、戻ってきたばかりのそれを、愛おしげに掌で包み込み、転がした。


「よく頑張ったわね、瑞祈。よしよし。……いい子」


 チュッ、と額にキスを落とされる。僕は真っ赤になりながら、されるがままにお姉さまの膝の上で小さくなった。


(……勝てない。一生、この人には勝てない……)


 僕の「強くなる」という誓いは、お姉さまのねっとりとした指先の愛撫によって、今日も甘く溶かされていくのだった。

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