第2話︰僕と悪役令嬢の婚約者
「――おい、ユリウス。今のはいったいどういうつもりだ」
ルクレツィアが去った直後、背筋を凍らせるような低い声とともに、重々しい足音がガタゴトと生徒会室の床を鳴らして近づいてきた。
振り返るとそこには、黄金色の輝く髪を短く刈り込み、整った顔立ちでありながらも眉間に深いしわを寄せた、我が国の王太子――ドレイク・アストライアが仁王立ちしていた。
私と彼は、物心ついた頃からの付き合いだ。かつて我が侯爵家の領地に遊びに来た彼を、私が当時の子どもらしい冷めた目で何かと世話を焼いたのがすべての発端だった。なぜか彼はその対応を気に入ってしまい、それ以来「お前は俺の最も信頼できる側近だ」と宣言して、学院の入学から今までどこに行くにも私を引っ張り回してきたのである。今では私の最も頼れる――だがそれ以上に、私の胃を日々すり減らして穴をあけ続ける、最高にして最悪の主君だった。
「どういうつもりとは……何のことでしょうか、殿下。私はただ、生徒会の会計業務の帳簿をチェックしていただけですが」
「とぼけるな! さっきルクレツィアは去り際に、はっきりと『お前は美しい』と言っていたぞ! ……しかも、俺を放置して、二人きりでさっきまで何を密会していたんだ! 一体なにをこそこそと共有していた!」
「密会って……昨日だって一昨日だって、殿下が『ルクレツィア様にどうやって愛を告げるべきか』って泣きながら私の部屋に夜半の特攻をかけてきたから、その対策を朝まで徹夜で付き合わされていたんでしょうが! それをさっき直接突っ込まれていただけですよ! むしろ、私たちが裏で密会してるって、あの方には盛大に、しかも文字通りの方向で間違った意味で勘違いされてますよ!」
私の冷ややかな、心の底からうんざりしきった指摘に、ドレイクは図星を突かれたのか、一瞬だけビクッと体を震わせてたじろいだ。だが、生来の脳筋気質というか、都合の良い脳内変換能力のせいか、彼はすぐにふっと不敵な、いやむしろ狂気すら孕んだ笑みを浮かべて、私の目の前の机にドンッと両手をつき出した。
その瞬間、彼の脳内では、現実の会話の文脈を完全に無視した、まったく別の、あまりにもドラマチックで背徳的な愛憎劇の幕が上がっていた。
「つまり、こういうことだな……! くっ……! 王太子である私の婚約者が、よりにもよって私の無二の親友であり、最も信頼する側近であるユリウスに寝取られかけているという泥沼の構図……! あの気高い令嬢が、王太子の婚約者という立場を捨ててまで、婚約者の親友との禁断の恋に身を焦がしている……! ……この、背徳的すぎる三角関係の構図……!
ああ!想像しただけで脳の血管がはじけ飛ぶ……! 最高に胸が熱くなるぜ……!!」
「どこがだボケェ!!」
私は思わず、手に持っていたインク瓶を落としそうになるほどの絶叫でツッコミを入れていた。静かな生徒会室の天井が、私の怒声でほんの少し揺れたような気がする。
「誰がそんな胃に穴の開くNTR劇の当て馬兼被害者を喜んでやるか! 私はな、一刻も早くこんな狂った王都のしがらみから脱出して、実家の領地に戻って、広大な畑を耕しながら無心でキャベツとジャガイモを育てて平和に暮らしたいんだよ!」
「バカなことを言うなユリウス! お前がルクレツィアの心を、その美貌と知性で完璧に引き付けてくれるからこそ、俺の中の『略奪愛』の炎が爆発的に燃え上がるんだ!」
「燃やすな、今すぐ消火しろ! 頼むからその狂った脳味噌をキンキンの氷水で冷やしてこい!」
――そう、ドレイクはいつの間にか、純愛を拗らせた末の「ハードコアNTR(寝取られ)厨」という、この世で最も厄介なジャンルのオタクへと覚醒してしまっていたのだ。
自分の婚約者が自分ではなくユリウスに気持ちを向けている(と彼が勝手に思い込んでいる)哀れで香ばしい現状に、背徳的な悦楽という名のスパイスを見出し、ひとりでに狂喜乱舞している最高にタチの悪い変態である。
自分が世間の貴族たちの間で、あるいはルクレツィアの脳内でどういう目でカップリングされているかなど、本人は微塵も知らなかった。
当たり前のことだが、当の私はいたって健全なノーマルだ。世の美しい女性に囲まれて平穏に結婚して隠居したいし、野郎同士のドロドロした愛憎劇に当て馬として巻き込まれる趣味などサラサラない。勝手に一人で盛り上がっている主君を見ているだけで、私のライフはもうゼロよと言いたかった。
「なあ、ユリウス。お前……俺の婚約者のことで何か、隠しているんじゃないか?」
「隠していることなど微塵も、全く、これっぽっちもありませんね。あるのは日々の過労と、ポケットに常備している胃薬の深刻なストック不足だけです」
「……もしお前が明日のパー「頼むからこれ以上、先回りして余計なフラグを立てんのはやめてくれ。私の心臓と胃袋が両方とも砕け散る」
明日の夜会パーティこそは、何事もなく、ただの平穏なモブとして隅っこで美味しいワインでも飲みながら終わってくれ。私は海よりも深く、宇宙の真理よりも遠い祈りを必死に込めながら、机の上に放置されてすっかり冷めきったコーヒーを飲み干したのだった。




