第13話 巨大なボア
丘の上の一本木の下で、クリスはヒエイを待っていた。
クリスは背中を幹に預け、足を崩して座り、空を見上げる。灰色の雲が低く広がり、風が草をまとめて揺らしていく。草の青い匂いと湿った土の匂いが混じり、雨が来る前の空気がじわじわと肌に染みてくる。遠くで鳥が一声鳴き、それきり静かになった。
「ヒエイ…まだかな…」
クリスは独り言のように呟いて、また空に目を戻す。雲の形が少しずつ変わっていく。それを眺めながら、ヒエイが無事でいるかどうかを、意識の隅で気にし続けていた。
すると、草を踏む足音が近づいてきた。
『すまん、待たせた』
クリスは声のする方を振り向く、そこには丘の斜面を上がるヒエイの姿が見え、クリスは立ち上がった。
「どれくらい倒した?」
ヒエイは少し残念そうに眉を下げた。
『ラビッホーン5匹うち4匹は仕留め損ねた。そっちは?』
クリスは首を横に降って答えた。
「ボア5匹、ラビッホーン1匹」
『全然足りない』
二人の声が、同じ重さで沈んだ。討伐数を合わせても、クエストの目標にはまだ届いていない。
「ボアは残り5匹、ラビッホーンは残り4匹だね」
『しょうがないから探そう』
「だね」
それから数時間、二人は草原を歩き回った。
雲は晴れなかった。風は強くなったり弱くなったりを繰り返し、草むらを覗くたびに空振りが続いた。鑑定を走らせながら地面に目を落とし、気配を追い、音を聞く。それを繰り返すうちに、足の裏が重くなり、膝が鈍くなっていく。
足が重くなってきた頃、ヒエイが草むらの奥で立ち止まった。
クリスも足を止め、ヒエイの視線の先へ目を向けた。
地面がぽっかりと深くくぼんでいる。縁に沿って、腰の高さまである長い草が密に生え、その内側に枯れ草と柔らかい草が丁寧に敷き詰められていた。遠目で見ると草むらの一部にしか見えない。注意して見なければ、通り過ぎていた。
二人は息を潜め、草むらの陰からそっと覗き込んだ。
巣の中に、小さなボアがいた。まだ幼い。頭の角も短く、鼻もまだ丸みを帯びている。五匹が身を寄せ合って、互いの体温を分け合うように固まり、一匹が寝息を立てていた。短い足で隣の体を踏みながら寄り添っている。
「ヒエイ、ボアだ!」
『丁度5匹いるな……』
ヒエイは草の陰で静かに確認した。これを倒せばクエストは達成する。頭ではわかっていた。
しかし、クリスは渋い顔でヒエイに話しかけた。
「ヒエイ……幼体を倒すのすごく罪悪感があるんだけど……」
すると、ヒエイも複雑そうに眉をひそめて言った。
『俺もだよ……でも、討伐しないと増えるから』
ヒエイも言い聞かせるように言い、その場に沈黙が落ちた。
二人とも、しばらく巣の中を見つめたまま動かなかった。寝息を立てているボアの腹が、ゆっくりと上下している。それを見ていると、何かが胸の内側を静かに締めつけた。
ヒエイはゆっくりと息を吐いた。
静かにホルスターへ手を伸ばし、銃(M1911)を抜く。セーフティを外し、草むらに体を沈めたまま、照準を合わせた。
引き金を引く。
乾いた銃声が五度、草原に響いた。
一発ごとに短く区切れながら、それが止む。
あたりは静まり返った。風だけが草を撫でていく。クリスは目を閉じ、小さく息を吸った。
顔を上げると、空のどこかで雲が切れていた。灰色の隙間から、薄い光が細く差し込んでいる。
二人は草むらから姿を現し、仕留めた幼体を無言でひとつずつ回収していった。
「これで全部だね」
『だな』
その時だった。
背後から、大きな影が落ちた。
太陽が陰ったのではない。影の形が違う。何か大きなものが、すぐ後ろに立っている。草の揺れ方が変わり、風向きが変わった。地面の奥から、微かな振動が足の裏に伝わってくる。
クリスはそっとヒエイの顔を見て、お互いに顔を見合わせた。ヒエイも、同じ顔をしていた。
「ヒエイ、この影…… まさかだよね……」
『多分そう……』
二人は同時に、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、巨大なボアだった。
体長は5から6メートル。四本の足が地面にめり込むように立ち、一歩ごとに土が押しつぶされる。額の角は大人の腕ほどの太さで、先端が鈍く光っている。鼻孔が大きく開き、荒い息が白く漏れた。小さな目が、二人をまっすぐに、じっと見ていた。
幼体たちの、親だろう。
クリスとヒエイは顔を見合わせ、口の端をわずかに歪めた。
『「だよね~」』
そう、ボアは大層お怒りだった。
「フゴォォォォォォォォ」
地の底から湧くような雄叫びが草原を震わせ、巨体が動いた。
『避けろーーーー』
ヒエイの声が響くより早く、二人は左右へ跳んだ。巨大なボアが二人の間を切り裂くように通り抜け、地面を深く抉りながら止まる。蹄が抉った土が宙を舞い、草が根ごと剥がれた。
ヒエイはすでに銃(M1911)を構えていた。照準をボアの脇腹に定め、引き金を二度引く。
弾が命中した。
しかしボアは振り返り、一歩も揺らがなかった。分厚い皮膚が、弾丸を受け止めている。
『全然効いてねえ!』
クリスは距離を取りながら詠唱しようとした。
「サンダーアロー、あれ?」
魔法が、発動しなかった。
クリスは術式を頭に思い描こうとしたが、焦りから術式の一部を明確にイメージ出来ず、術式の構築が出来ずに魔力が霧散する。焦りが焦りを呼び、意識が空回りを始めた。あの巨体が、また動こうとしている。
「魔法が発動しない~~~っ!」
ヒエイはその声を聞いた瞬間、クリスを見た。青くなった顔が、完全にパニックに陥っている。
それを察したヒエイは自身にボアの注意を引きつける。
『こっちだーーー!』
ヒエイは声を張り上げ、銃(M1911)を構えると、ボアの目を狙い、弾丸を放つ。しかし、ボアが頭を動かし、弾丸の狙いが反れる。だがボアの大きな目がヒエイを捉え、鼻孔が大きく開き、地を踏み鳴らし、再び突進してくる。
ヒエイは走りながら頭を回した。
(拳銃ではあいつの皮膚を貫けない。別の手が要るな、もっと大きな、破壊力のある何かが………あれしかな)
『銃作成』
MPが一気に底をついた。代わりにSPが削られていくのが、体の芯から感じられた。足元がふらつく。それでも手だけは動かした。
手の中に、重い金属の感触が生まれた。長く、太く、肩に担ぐような重さがある。
ロケットランチャー——RPG-7。
膝が笑っている。体が傾く。それでもヒエイは踏みとどまり、突進してくるボアの巨頭へ照準を据えた。距離が縮まる。地面の振動が足から腰まで伝わってくる。
『くらえ。ファイヤー』
発射炎が後方へ噴き出し、砲弾が草原を真っすぐに走った。
着弾の瞬間、爆発が空気を揺らした。
炎が広がり、黒煙が立ち上る。草が焼け焦げる匂いが一瞬で辺りを覆った。衝撃波が空気を叩き、クリスの白銀の髪が波のようになびいた。
煙の向こうで、ボアがまだ立っていた。
頭の半分を失い、血を流しながら、それでも前へ踏み出そうとしていた。生命の最後の力で、ヒエイの方へよろめいてくる。
そしてヒエイには、限界が来た。
SPが空になった体で、なんとか耐えていたものの、限界だったようで、草の上へ崩れ落ちた。膝から落ち、そのまま横へ倒れ、ヒエイの意識は、遠くなった。
巨大なボアは数歩よろめき、一歩、また一歩と前へ進み、そして動かなくなった。
「ヒエイ!!」
クリスが駆け寄った。
膝をついてヒエイの肩を掴み、仰向けに返す。手を取り、脈を確かめた。規則正しい鼓動が、クリスの指先に伝わってくる。
「よかった……生きてる」
クリスは小さく息を吐いた。吐いてから、ようやく自分の手が震えていることに気づいた。
焦げた草の匂いが漂い、黒煙がゆっくりと空に溶けていく。遠くで鳥が鳴き、ボアの巨体が、草むらの向こうで静かに横たわっている。
ヒエイは、目を覚まさなかった。
クリスはしばらくの間、ヒエイの顔を見ていた。それから、ため息を一つついて立ち上がった。ボアの死体を一人で回収する。ラビッホーンを探して、三匹を仕留めた。手を動かしながら、ヒエイの呼吸がそこにあることを、何度も確認しながら。
日が傾き始めた頃、曇り空もあっという間に晴れ、草原が橙色に染まりはじめた。
『うっ……』
低い声がして、クリスは視線を落とした。
ヒエイはゆっくりと意識を浮かび上がらせながら、頭の下の感触に気づいた。柔らかく、温かい。焦げた草の匂いの中に、それとは違う甘い匂いが混じっている。
ゆっくりまぶたを持ち上げると、夕焼けの中にクリスの顔があった。逆光で輪郭が光っている。
「よかった……目が覚めた」
クリスは安心したようにふっと息を吐く。
ヒエイの頭は、確かに彼女の太ももの上に乗っていた。その柔らかな感触と眼前に映るクリスの姿、耳に髪を掛けるその仕草。かつて男だった親友が異世界に来て女性になった。そう自身の頭では理解しているヒエイだが、そのあまりにも可愛い姿に、ヒエイの心臓の鼓動が徐々に跳ね上がる。ヒエイは自身に、あれは男で親友だと言い聞かせるが、言い聞かせるたび、妙な気持ち悪さに襲われる。それでもドキドキした感情は消えず、その二つが入り混じってヒエイは結局、どう整理すればいいのか分からないまま、口を開いた。
『目が覚めたよ……ところでなぜ膝枕?』
ヒエイは顔が熱くなる。
そのようすに、クリスは小悪魔のようにニヤリと笑った。
「顔、赤いよ、美少女に膝枕されて嬉しいのか?」
しかし、内心では膝枕してる本人も冗談でやったこととはいえ、恥ずかしさがあり、クリス自身の耳の先もほんのり赤かった。
『自分から美少女とか言うの残念だぞ』
ヒエイはくすりと笑い、ゆっくりと身体を起こした。頭がまだ少しふわふわしていたが、なんとか起き上がる。夕焼けの色が、草原全体に広がっていた。
「ヒエイ、ごめんパニックになって冷静に対処できなかった」
クリスは申し訳なさそうに俯きながら言った。申し訳なさからか、クリスの声は、少し小さかった。
ヒエイは静かに笑って答えた。
『パニックになって冷静に対処できないのは、いつものことだからな。それに、補い合うのがパーティってもんだろ』
クリスは顔を上げ、嬉しそうに頷いた。ヒエイも笑みを返し、立ち上がると、手を叩き切り替えるように言った。
『よし、残りのラビッホーンを探そう!』
「……あ、そうだ」
クリスが思い出したように言った。
「ヒエイが寝てる間にラビッホーン3匹倒した。てへぺろ」
ヒエイは一拍置いてから、呆れたように笑った。
『それじゃ、街に帰るか』
ヒエイが歩き出そうとすると、クリスが腕を伸ばして袖を掴んだ。
「待って」
『どうした? まだなにかあるのか?』
ヒエイが不思議そうに訪ねると、クリスは神妙な顔で言った。
「足が痺れた」
ヒエイは思わずずっこけた。
夕日が地平線に沈みかけた頃、二人はカルの街へ向かって歩いていた。
橙色の光が草原を染め、二人の影が長く伸びる。空の端が赤く燃えていて、その色が草の緑と混ざり合い、不思議な景色を作っていた。風は昼間よりも穏やかになり、草の揺れ方がゆっくりになっていた。
二人は他愛もない会話をしながら、街の門へ続く馬車道を歩いていた。
その時、二人は同時に足を止めた。
上空を、巨大な影が横切っていく。羽音が低く、腹に響くような振動を残して。
見上げた先に、大きな生き物が飛んでいた。四枚の翼を緩やかに羽ばたかせ、六本の脚を折りたたみ、長く細い腹部を真っすぐに伸ばして飛んでいる。
『大きいな、ドラゴンか?』
「いや、トンボじゃない? 四枚の羽と足が六本あるし」
しかしその体には、至るところにドラゴンの面影があった。鋭い牙を覗かせる頭部。硬質な鱗と鋭利な爪で覆われた六本の脚。胴体を包む鱗の光沢が、沈みかけた夕日を反射してきらりと光る。
『いやドラゴンだろ頭がドラゴンぽいし、足もと体も鱗で覆われていたし』
そして、ヒエイが言う通り、その姿には至るところにドラゴンを思わせる特徴があった。
鋭く牙を覗かせるドラゴンを思わせる頭部、硬質な鱗と鋭利な爪で覆われた六本の脚、そして体のいたるところにドラゴンのような鱗があった。
「たしかにそうか……あれだね、ドラゴンとトンボを合わせたような感じ」
『まさにそれだ!!』
ヒエイはスッキリとしたようすで言い放つ。
その生き物は二人を気にする様子もなく、夕暮れの空を悠々と飛び去っていった。翼音が遠くなり、やがて見えなくなる。
二人はしばらく空を見上げたまま立っていた。言葉は出なかった。この世界にはまだ、自分たちの知らないものが無数にある。それをただ、体で感じていた。




