7話 聖女・アデリーンの私室にて
神殿の奥深く、最も神聖なる領域に設えられた聖女アデリーンの私室は、表向きこそ質素を装っていた。
白い石壁。簡素な寝台。祈りの祭壇。
清貧を尊ぶ聖女の居室として、人目に触れる部分は徹底して飾り気がない。
――けれど、扉の内側はまるで別世界だった。
東方から取り寄せた絹織りの絨毯。金箔の施された鏡台。棚に並ぶ香油や化粧道具。開いた宝石箱からは、ルビーやサファイアが惜しげもなくこぼれている。
数人の女官がソファに座るアデリーンの傍らに跪き、銀盆に載せた果実や葡萄酒を恭しく差し出していた。神官は脇で扇を動かし、ただひたすら聖女の機嫌を損ねぬよう息を潜めている。
「公爵家から、まだ何も言ってこないの?」
アデリーンは不機嫌を隠そうともせず、ワイングラスを指先で弄んだ。問いかけられた女官が、びくりと肩を震わせる。
「は、はい、聖女様。今のところは何の使いも……」
「おかしいわ」
ぴしゃりと吐き捨て、アデリーンはグラスをテーブルへ荒々しく置いた。
「あたしの癒しがなければ、ブライア様の体力は戻らないはずなのに」
すぐに泣きついてくると思っていた。
ライゼンブルグ公爵家ほどの家であっても、聖女の奇跡なしにはどうにもならないと、そう思い知らせてやるつもりだったのだ。
それなのに、公爵家からは一向に音沙汰がない。
(それに……ブライア様の様子もおかしかったわ)
アデリーンは苛立ち紛れに、右手の親指の爪を噛んだ。
この癖は、思い通りにいかない時ほど強く出る。
アデリーンは目立つことが好きだった。
いや、好きなどというものではない。
注目され、持て囃され、羨望の眼差しを向けられて当然だと思っていた。
夜会も舞踏会も、常に自分が中心でなければ気が済まない。貴族たちは聖女である彼女を見れば一斉に頭を垂れ、賛辞を惜しまない。それは王家に次ぐ権勢を誇るライゼンブルグ公爵家も同じだった。
「ごきげんよう、アデリーン様。今夜もお美しいこと」
「ブライア様こそ。本当にお綺麗で羨ましいです」
公爵令嬢ブライア。社交界の華。
多少気位は高いが、聖女であるアデリーンには好意的で、何かと目をかけてくれていた。
だからアデリーンも、彼女には愛想よく振る舞ってきた。
多少下手に出ることがあっても構わなかった。何しろ、ライゼンブルグ家にはサイラスがいるのだから。
公爵家の跡取り。将来を嘱望される若き騎士。
銀の髪に、凍てた湖のような蒼い瞳。立っているだけで視線をさらう、完璧な貴公子。
去年のアストラエア誓祭で、サイラスが護衛として傍に立ってくれた時、アデリーンは胸の高鳴りを抑えられなかった。
自分は聖女。
この国で最も尊い少女。
だからサイラスの隣に立つのは当然あたしだ――そう信じて疑わなかった。
なのに。
「ふざけんじゃないわよ!」
怒声とともに、傍らの香炉が床へ薙ぎ払われる。甲高い音を立てて転がった香炉から香が散り、甘ったるい焦げた匂いが部屋に広がった。
「ア、アデリーン様……!」
「なんであんな女なの!? どうしてコレットなんかが、サイラス様の隣にいるのよ!」
怒りに紅潮した頬が震える。
アデリーンがどれほど甘い言葉を囁いても、サイラスは一度もなびかなかった。なのに、姉のコレットにはあんなにも優しく、あんなにもまっすぐな眼差しを向けていた。
それが許せない。
認められない。
何より、惨めだった。
(もしかして……サイラス様、コレットが本物の聖女だって気づいていたの?)
その考えがよぎった瞬間、アデリーンの背筋を冷たいものが走る。
視線が、自分の手の甲へ落ちた。
そこに埋め込まれた白聖石は、今も清らかな光を湛えている。
十二年前。母に「今日からお前が聖女になるのよ」と言われ、どこから連れて来られたのかもわからない闇医者に、この石を埋め込まれた。
あの時の痛みは、今でも鮮明に覚えている。
けれどそれ以上に鮮烈だったのは、その後に手に入れた力だった。
人々は聖女と崇め、跪き、どんなわがままも叶えようとした。
本物から奪った偽りの力であっても、十二年も浴び続ければ、それが自分のものだと思うようになる。
(見てなさいよ、コレット)
アデリーンの瞳が、ぎらりと光る。
(サイラス様の妻の座は、絶対に取り返してやるんだから)
だからこそコレットとサイラスの結婚を聞きつけた時、真っ先にライゼンブルグ家へ向かったのだ。
ブライアなら、自分の味方になる。
誇り高いあの女が、弟の結婚相手としてコレットを認めるはずがない。そう思っていた。
それなのに。
『ご心配ありがとうございます。ですが弟が素晴らしい妻を娶ることができ、わたくし心から喜んでおりますのよ』
『え?』
『昨日の結婚式も、本当に素敵でしたわ』
ブライアは笑っていた。
本当に心から祝福しているように。
しかもそれだけではない。以前までのような親しげな空気が消えていた。笑顔の裏にあったのは余所余所しさ――いや、それどころかはっきりとした警戒だった。
『ご用件はそれだけでして? 申し訳ありません。わたくし、本日は予定が詰まっておりますの』
『……』
『ノーマン、パウラ。聖女様を丁重にお見送りして』
あの時、アデリーンは心の底から焦った。
まずい、と。
なぜだかわからない。けれどブライアは確実に、自分を警戒している。あれほど好意的だった相手が、こうも急に態度を変えるなど普通ではない。
だから、力を使った。
『お待ちください、ブライア様。強がっていらっしゃるのでしょう?』
『は?』
『大事な弟が、自分の望まぬ女と結婚したのですもの。ああ、とてもお顔色が悪いですわ』
本来なら、人を癒すはずの白聖石の力。
けれどアデリーンが使うと、それはなぜか相手の命を削り、弱らせる。
案の定、ブライアの顔色はみるみるうちに青ざめ、膝から崩れ落ちた。
(そうよ。それでいいの)
奇跡を見せられて感動しない人間などいない。
苦しみから救われれば、誰だって聖女にすがりつく。
そう、信じていたのに。
『ご心配には及びませんわ』
ブライアはふらつきながらも立ち上がり、アデリーンの手を強く振り払った。
『少し目眩がしただけです。聖女様のお手を煩わせるほどではありません』
あの瞬間、アデリーンは本気で混乱した。
どうして。
なぜ拒むの。
こんなの、今まで一度もなかったのに。
たしかにブライアは弱っていた。執事に支えられなければ歩けないほどに。
それでも最後まで振り返らず、アデリーンの前から去っていったのだ。
『知りませんよ、後でどうなっても。あたしじゃなきゃ、ブライア様の不調は治せないのに』
あれは脅しでもあり、忠告でもあった。
だからこそあの場はあえて深追いしなかったのだ。どうせすぐ公爵家のほうから助けを乞うてくると思っていたから。
なのに――来ない。
(まさか、本当にあたしの力なしで回復した……?)
爪を噛む音が、小さく部屋に響く。
不安がじわじわと広がっていく。
このままではブライアを味方に引き込むどころか、公爵家への足掛かりそのものを失いかねない。
どうするべきか。
重苦しい沈黙の中、不意にひとりの女官が前へ進み出た。
「アデリーン様。私に妙案がございます」
中年の女だった。
伯爵家の頃から母に仕えてきた侍女、ダイアン。
「妙案?」
「結婚祝いの使者と称して、私を公爵家へお遣わしくださいませ」
「あなたを?」
「はい。アデリーン様をないがしろにした者には、相応の罰を与えねばなりません」
ダイアンは深々と頭を垂れたまま、口元にだけ冷たい笑みを浮かべていた。
アデリーンはその顔を見つめ、やがてゆっくりと笑う。
そうだ。
この女は使える。
母にも自分にも、いつだって都合よく働いてきた手駒だ。
何より、ダイアンを公爵家へ送り込めば、コレットはきっと怯える。
その顔を思い浮かべるだけで、胸のつかえが少し晴れる気がした。
「いいわ。行ってきなさい」
アデリーンはソファに深くもたれ、唇の端を吊り上げる。
「コレットに、きついお仕置きをしてあげて」
「かしこまりました」
獲物を見つけた獣のような笑みが、アデリーンの顔に浮かぶ。
その場に控える女官も神官も、誰ひとり声を上げなかった。
聖女の醜い本性を知っていても、逆らうことなどできないのだ。




