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6話 コレットの悲しい過去



 前の人生のわたくしは、コレットをろくに見ようともしなかった。


『わたくしの前に現れないでちょうだい。その顔を見ているだけでも不快なの』

『申し訳ありません、お義姉様』

『その呼び方もやめてちょうだい。わたくしはあなたを当家の嫁とは認めていません』

『……はい』


 胸の奥が鈍く痛む。

 あれほど冷たく突き放しておきながら、わたくしは何ひとつ知らなかったのだ。

 コレットがどんな暮らしをしてきたのか。何を奪われ、何を耐えてきたのかを。

 知ろうともしなかった、その報いが今さらのように胸へ返ってくる。


 ああ、神様。

 この痛みもきっと、わたくしが犯した罪への罰なのですね。



    ◇◆◇



 翌朝。

 三日ぶりに目を覚ましたわたくしの寝室には、思いのほか多くの人が集まっていた。ノーマンやパウラをはじめとする使用人たちに、サイラス、コレット、そして普段は奥の棟で静かに暮らしている大叔父様まで顔をそろえている。


「いやあ、目を覚ましてくれて本当によかった」


 大叔父様が白い髭を撫でながら、ほっとしたように笑う。


「神様も迎えに来るなら若い者ではなく、先に老いぼれのところへ来いと毎日祈っとったわ」

「まあ、そんなことをおっしゃらないでくださいませ。大叔父様には、まだまだ長生きしていただかなくては困りますわ」


 わたくしは苦笑しながら身を起こした。

 十年前、両親が急死してライゼンブルグ家が大きく揺らいだ時、すでに隠居同然だったこの方が一時的に公爵位を預かってくださった。今も実務の多くはわたくしとサイラスが担っているとはいえ、この人がいてくれたからこそ、家は持ちこたえたのだ。


「ブライア様」


 遠慮がちに声をかけてきたのはコレットだった。


「よろしければ、こちらのお茶を召し上がりませんか。亡き母がよく淹れてくれた薬草茶なのです」


 差し出されたティーカップからは、やわらかな甘い香りが立ちのぼっている。


「ありがとう。いただくわ」


 ひと口含むと、琥珀色の液体が喉をやさしく滑り落ち、身体の内側へじんわりと染みこんでいった。まるで心までほぐれていくような、穏やかな味だった。


「おいしい……。なんだか少し元気が出るわ」

「本当ですか? 勇気を出してお勧めしてよかったです!」


 コレットの顔がぱっと明るくなる。頬をほんのり染めて微笑む姿は、あまりにも慎ましく、愛らしい。


「亡きお母様が、よく淹れてくださったお茶なのね」

「はい」

「お母様を亡くされたのは、いつ頃だったのかしら」

「……父が再婚する少し前です。私が六歳の時でした」


 六歳。

 その年齢に、胸の奥がざわりとした。


「よければ聞かせてちょうだい」


 わたくしはティーカップを置き、まっすぐコレットを見つめる。


「あなたが、今日までどんなふうに生きてきたのかを」

「ブライア様……」


 コレットは戸惑うように視線を伏せた。けれど隣に立つサイラスがそっと肩へ手を置くと、やがて静かにうなずく。




「……決して楽しい話ではございませんけれど。それでも、よろしいのなら」




 部屋の空気が、しんと静まる。

 そしてコレットは、ぽつりぽつりと、自分の過去を語り始めた。



     ◇◆◇



 コレットの母、マリアはノヴァリス伯爵の正妻だった。

 けれど伯爵は女癖が悪く、コレットが生まれてまもなく愛人イリーナを屋敷へ住まわせるようになった。アデリーンはイリーナの娘だという。

 欲深いイリーナの意向で、正妻であったマリアと幼いコレットは古い離宮へ追いやられた。ろくな使用人もつけられず、母娘はわずかな菜園を作り、自分達だけで生活していたらしい。


 それでも母と娘で支え合う日々は、ささやかながら穏やかだった。

 その暮らしが壊れたのは、マリアが病に伏してからだ。

 病弱だった母の容態は少しずつ悪化していった。けれど夫である伯爵は顧みず、イリーナも手を差し伸べなかった。幼いコレットは、たった一人で母の看病を続けるしかなかったのだという。



 そして、ある日。

 コレットはイリーナに突然本邸へ呼び出され、激しい折檻を受けた。


「その時のことは……よく覚えていないんです」


 コレットは左手を胸元でそっと握る。


「気がついたら、手のひらに大きな傷ができていて……」


 わたくしは無意識に、その左手を見つめていた。

 あの傷。

 きっと、あれが白聖石を奪われた痕なのだ。

 前の人生でアデリーンは言っていた。

 白聖石は自分のものではなく、母がコレットから奪ったのだと。

 ならばすべて辻褄が合う。

 六歳の少女から本来あるべきものを奪い取った。しかもろくな説明もなく、暴力とともに。

 胸の奥が、ぐらりと煮え立つ。



 その直後、コレットは再び離宮へ戻され、傷を負ったまま母のもとへ帰った。けれどほどなくして、マリアは亡くなった。

 もしあの時、コレットが本来の力をその身に宿したままだったなら、母の命をもう少し繋ぎ留められたのかもしれない。

 そう思うと、あまりにも残酷だった。


 それから先の話は、なおひどかった。

 コレットは伯爵家の令嬢でありながら、娘として遇されることはなかった。使用人以下、いいえ、奴隷のように働かされ、外出すらほとんど許されなかったという。



「唯一、外に出ることを許されたのは、年に一度のアストラエア誓祭だけでした」

「誓祭だけ?」

「はい。毎年、星詠みの誓団に加わるよう命じられていて……」


 星詠みの誓団。

 アストラエア誓祭で、聖女とともに王都を巡る乙女達の列だ。若い貴族令嬢が選ばれ、祈りを捧げながら行進する、いわば祭礼の象徴でもある。

 そこまで聞いた時、近くに控えていた若い侍女達が小さく声を上げた。


「星詠みの誓団といえば、毎年ルミナス円庭で聖女様が見せる奇跡、本当に見事ですものね」

「去年は真冬なのに花を咲かせて、その前の年は病人を何人も一度に癒して……!」


 皆が口々にアデリーンの奇跡を称える。

 けれどわたくしの中では別の考えがゆっくりと形を成していた。

 アデリーンに癒しの力はない。あるのは人を弱らせ、奪うような禍々しい力だけだ。

 ならば、あの“奇跡”を起こしていたのは誰なのか。


「コレット。祭の時、あなたも星詠みの誓団の一員として祈っていたのね?」

「はい。それが姉の役目だと……」


 ――やはり。

 霧が晴れるように、頭の中で点と点がつながっていく。

 アストラエア誓祭で奇跡を起こしているのは、アデリーンではない。本物の聖女であるコレットの力なのだ。

 白聖石を奪ったアデリーンは聖女の証だけを手にしていても、その力を正しく扱えない。だからこそ大勢の前で奇跡を示さねばならない祭の日には、本物の聖女であるコレットを近くへ置いて、その力を利用していたのだろう。

 十二年前、国王陛下の病が癒えた時も、同じからくりだったのかもしれない。

 そう思えば、すべてが一本につながる。



「実は……一年前の誓祭で、私もコレットと出会ったのです」



 不意に口を開いたのはサイラスだった。

 わたくしが視線を向けると、サイラスは少し照れくさそうに笑った。


「その時、私は護衛任務についていました。ひどい熱があったのですが、任務を外れるわけにはいかず、無理をして出ていたんです」

「あなた、あの時風邪をこじらせていたわね」

「はい。今思えば無茶でした」


 サイラスは困ったように肩をすくめた。


「準備の最中に倒れかけたところをコレットが支えてくれました。周りに騒がれないよう薬まで用意してくれて……その時、なぜか私にはアデリーン様よりコレットのほうがずっと神々しく見えたんです」

「まあ」

「多分、あれが最初でした。彼女から目が離せなくなったのは」


 耳まで赤くして俯くコレットと、そんな彼女を見つめるサイラスの目は、呆れるほど真っ直ぐだった。



 ああ、この子は本当に最初から見抜いていたのだ。

 華やかな見かけや肩書きではなく、その人の中身を。



 そのことが、どうしようもなく胸に刺さった。

 前の人生のわたくしは、何ひとつ見えていなかったのだから。

 不意に、視界が滲む。


「あ、姉上?」

「ブライア様……?」


 慌てたような声が重なる。気づけば、わたくしの頬を一筋の涙が伝っていた。


「……ごめんなさい。泣くつもりなんてなかったのに」


 自分でも驚きながら、指先でそっと涙をぬぐう。

 けれど今、わたくしは感動して泣いているわけではない。

 これは悔しさだ。情けなさだ。

 心から愛し合っていた二人を肩書きと偏見だけで否定し、踏みにじろうとしていた自分への怒りだ。


「……」

「……」

「……」


 そして部屋の中に気まずい沈黙が落ちる中、コレットがそっとこちらへ手を伸ばした。


「ブライア様」


 遠慮がちに握られたその手は、やはり温かい。


「ブライア様にしてみれば、私のような者がサイラス様の妻になったこと、きっと許しがたいことだったのだと思います」

「違うわ」


 反射的に首を振る。

 けれどコレットは、かすかに震える声で続けた。


「でも私、サイラス様を好きになってしまいました。サイラス様となら、違う未来を歩めるかもしれないって……そんなふうに、願ってしまったんです」


 胸が締めつけられる。

 どれだけ傷つけられても、この人は誰かを恨むより先に、自分を責めてしまうのだ。

 だからこそ、もう二度とそんなふうに思わせてはいけない。

 わたくしは手を伸ばし、コレットの両手をしっかりと握った。


「ええ。あなたには責任を取っていただきますわ」

「……え?」

「我が弟を一目惚れさせた責任です。未来のライゼンブルグ公爵夫人として、これからみっちり鍛えて差し上げますから、覚悟なさって」

「ブライア様……」


 涙に濡れた榛色の瞳が、大きく揺れる。


「それから」


 わたくしは、少しだけ意地悪く微笑んだ。


「わたくしのことは、ブライアではなく義姉(あね)と呼んでくださる? あなたはもう、ライゼンブルグ家の一員なのですもの」

「……え」

「わたくしからのお願いよ」

「……!」


 コレットの唇が震えた。

 信じられないものを見るように目を見開き、それから全身が小刻みに震え始める。


「お義姉……様?」

「ええ」

「そう、お呼びしても……?」

「もちろんよ」

「……っ」


 次の瞬間、コレットの目尻に大粒の涙が盛り上がったかと思うと――

 突然、堰を切ったように泣き出した。



「うぅ……っ、あ…あぁぁ……っ!」



 声を押し殺すこともできず、子供のように泣きじゃくりながら、わたくしの手に強く縋ってくる。その姿が痛々しくて、愛おしくて、わたくしまでまた泣きたくなった。


「ありがとうございます……お義姉様……っ、私、私……」

「いいのよ」


 わたくしは栗色の髪をそっと撫でた。



「今は好きなだけ泣きなさい」



 静かに見守っていた大叔父様が、満足そうに頷く。


「見直したぞ、ブライア。これからは姉弟仲良く、この子を支えてやるのだぞ」

「はい、大叔父様」


 サイラスもまた、目元を潤ませながら深く頭を下げた。


「ありがとうございます、姉上。私も必ず、コレットとともに家を支えてまいります」

「期待しているわ」



 部屋の空気は、いつのまにかやわらかくほどけていた。

 窓から差し込む朝の光が、白いシーツの上で静かにきらめいている。

 まるでこれから始まる新しい日々を、誰かがそっと祝福してくれているかのように。







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