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5話 公爵令嬢、根性で抗う

 


 前の人生でも、似たことがあった。

 確かあの時もわたくしは急に具合が悪くなり、アデリーンが聖女の力で癒してくれたのだ。


『ああ、まるで先ほどまでの体の重さが嘘のように軽くなって……。これが聖女様の癒しの力ですのね』

『はい、天から授けられた特別な力です。大好きなブライア様のお役に立てて、あたし嬉しいです』

『素晴らしい! やはりアデリーン様はこの国で最も貴き女性ですわ!』


 過去のわたくしは、聖女の癒しの力を疑いもしなかった。それどころかそのことを機に、すっかりアデリーンに心酔してしまった。


 ――けれど、違った。

 今ならわかる。

 この女の力は、癒しなどではない。むしろその逆。

 命を救うのではなく、弱らせ、奪うためのものだ。



    ◇◆◇



「ブライア様!」

「お嬢様、大丈夫ですか!?」


 崩れ落ちたわたくしを、ノーマンとパウラが慌てて支える。

 息がうまく吸えない。胸の奥が冷えきって、凍りついていくようだった。指先から力が抜けていき、立っているだけで精一杯だ。

 それでも、わたくしは顔を上げた。


「どうなさったのです? とても苦しそうですわ」


 アデリーンは慈愛に満ちた聖女の顔でこちらを見下ろしている。


「どうか無理をなさらず、あたしにお任せください」




 ふざけないで。




 その右手には、相変わらず赤黒い靄がまとわりついていた。白聖石の清らかな輝きにへばりつくような、不吉で、薄汚れた靄。けれど周囲の誰もそれに気づいた様子がない。


(見えていないの……?)


 ノーマンも、パウラも、聖騎士たちも、誰ひとり怪しむ気配を見せない。まるでアデリーンが本当にわたくしを助けようとしているようにしか見えていないのだ。


(どうして、わたくしにだけ……?)


 答えはわからない。けれど一つだけ、はっきりしていることがあった。

 あれは癒しではない。

 体の熱を奪い、力を削り、相手を衰弱させるものだ。そう考えれば、今この身に起きていることすべてに説明がつく。


 おそらく前の人生でも同じだったのだろう。わたくしは弱らされ、その後でアデリーンが“治した”ように見せかけた。それを奇跡だと勘違いしていたのだ。


(だったら……王都が落ちたあの夜も)


 ぞっとする。

 この力で兵たちをまとめて弱らせ、防衛網を崩したのだとしたら――


(なおさら、ここで屈するわけにはいかない!)


 わたくしは浅く息を吐き、震える膝に力を込めた。

 視界は揺れ、額からは汗が流れ落ちる。それでも意地で立ち上がる。


「ご心配には及びませんわ」


 声が掠れそうになるのを押し殺し、わたくしはアデリーンの手を勢いよく振り払った。


「少し目眩がしただけです。聖女様のお手を煩わせるほどではありません」

「ですが、ひどいお顔色ですわ」

「わたくしは元々、少々汗っかきなのです!」


 無理がある言い訳だと、自分でも思う。

 けれどここで触れさせるわけにはいかない。今以上に力を奪われたら、本当に立てなくなる。


「それでは失礼いたしますわ。アデリーン様、ごきげんよう」


 ノーマンに支えられながら、なんとか笑みを作る。

 公爵令嬢として、最後まで取り繕わなければ。

 すると背後で、アデリーンがくすりと笑った。



「……知りませんよ。後でどうなっても」

「…………」

「あたしじゃなきゃ、ブライア様の不調は治せないのに」



 脅しのようなその一言に、背筋が冷たくなる。

 けれど、振り返らない。

 わたくしはそのまま玄関ホールを後にした。世界が傾いでも、足元が頼りなく揺れても、あの女の前でだけは倒れるものですか、と自分に言い聞かせながら。

 ――だが。


「ブライア様!」

「誰か、早く!」


 鏡の間へたどり着いたところで、ついに限界が来た。

 視界が暗転し、全身から力が抜ける。床が近づく感覚だけを最後に、わたくしの意識はぶつりと途切れた。




   ◇◆◇




 次に目を覚ました時、わたくしの頭の中はまだぼんやりしていた。

 まぶたの裏に残るのは冷たい霧のような感覚。あの赤黒い靄に絡みつかれた時の不快さが、まだ身体の奥にうっすらと残っている。息をするたび胸のあたりが重く、全身から力が抜けていくようだった。


 ――けれど、その中にひとつだけ、やわらかなぬくもりがあった。

 まるで春の陽だまりのような、穏やかで優しい熱。

 それが少しずつ、冷え切ったわたくしの身体を溶かしていく。

 ゆっくりと目を開けると、心配そうにこちらを覗き込む(はしばみ)色の瞳が見えた。


「ブライア様……! 良かった、お目覚めになったのですね」

「……コレット」


 かすれた声で名を呼ぶ。

 そこは自分の寝室だった。灯りを落とした静かな室内に、ろうそくの火が揺れている。窓の外は真っ暗だ。


「今、何時かしら……」

「深夜の二時でございます。皆で交代しながら看病していたのですが、今は私がついておりました」

「そう……」


 喉がひどく渇いている。


「少し、お水をいただける?」

「はい、すぐに」


 コレットはわたくしの身体を気遣いながらそっと上体を起こし、水差しから注いだ水をゆっくりと飲ませてくれた。それから濡らした布で額を拭ってくれる。どの仕草も驚くほど丁寧で、壊れものに触れるように優しかった。

 その手が触れるたびに、身体の奥に残っていた嫌な冷たさが、少しずつほどけていく。


「わたくし……アデリーンを見送った後に倒れたのよね」

「はい。すぐに何人ものお医者様をお呼びしました。でも原因がわからなくて……そのまま三日間、眠り続けておられました」

「三日も……」


 思っていた以上に長い。

 やはり、ただの体調不良ではなかったのだ。

 あの女はわたくしを弱らせた。それも医師ですら原因を掴めない形で。


(それなのに、どうしてわたくしは目を覚ませたのかしら)


 ふと、視線がコレットの手元へ落ちる。

 そこで初めて気がついた。

 彼女の左手のひらに、うっすらと大きな傷跡が残っていることに。


「コレット、その手……」

「あ……」


 コレットは咄嗟に隠そうとしたけれど、わたくしは反射的にその手を取っていた。

 細くて、少し荒れた手。そこに残る傷跡は古いもののはずなのに、見ているだけで胸が痛くなる。



『この白聖石、実はあたしのものじゃないの。幼い頃、母がコレットの体内から抉り取ったものなのよ』



 前の人生で聞かされたアデリーンの言葉が、脳裏によみがえった。

 ああ、そうか。

 きっとこれが、その痕なのだ。

 白聖石を奪われた傷。幼いコレットが、何もわからぬまま刻まれた痛ましい痕跡。

 胸の奥で怒りがふつふつと煮えたつ。

 この人から本来あるべきものを奪い、傷つけ、虐げてきた者たちを、わたくしは絶対に許さない。

 でも今は、その怒りを押し込めて微笑んだ。


「ありがとう、コレット。あなたが看ていてくれたから、わたくしは戻ってこられたのね」

「そんな……」


 コレットは小さく首を振る。


「私にできたことなんて、本当に何も……」

「いいえ」


 否定しようとしたその手を、わたくしはそっと包み込む。

 温かかった。驚くほどに。

 ただ体温が高いというだけではない。

 じんわりと身体の芯へ染み込んでくるような、やわらかな力。

 あの赤黒い靄がもたらした不快さとはまるで違う。


(……まさか)


 息を呑む。

 アデリーンの右手に赤黒い靄が見えたように、今、コレットの左手からは白く淡い光の揺らぎのようなものが見えていた。

 光、としか言いようがない。

 まぶしいのに目を刺さない。

 静かで、あたたかくて、触れているだけで心まで落ち着いていくようなもの。

 希望。

 癒し。

 そんな言葉が、自然と胸に浮かぶ。



 白聖石を奪われた今もなお――コレットの中には聖女の力が残っているのかもしれない。






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