26話 変わり始めた未来1
「どうしてこうなるのよっ!」
甲高い叫びとともに、白磁の花瓶が床へ叩きつけられた。
色鮮やかな花が水浸しの絨毯へ散らばり、砕けた破片が神殿の豪奢な私室に飛び散る。
「落ち着いて、アデリーン。誰かに聞かれたらどうするの」
母イリーナが娘の腕を掴み、必死になだめる。
その少し後ろでは、神官フロレンツが口を挟むこともなく、荒れ狂うアデリーンを眺めていた。
「落ち着けるわけがないでしょう!? 誰も彼も、あたしの悪口ばかり! 夜会にも出られないし、神殿の者まで腫れ物みたいに扱うのよ!」
先日の巡礼パレードで起きた事故以来、アデリーンの評判は地に落ちていた。
助けを求める民を見捨てた聖女。
怪我人よりも自分のドレスを案じた、冷酷な女。
王都では、そんな噂が面白おかしく語られている。
それだけでも耐え難いのに、今や人々の口に上る聖女の名は、アデリーンではなかった。
「コレット、コレット、コレット……! どうしてあの子ばかり!」
「心配しなくていいのよ。聖女の証である白聖石は、あなたの手元にあるでしょう?」
言われたとおり、アデリーンの右手では白聖石が白く淡く輝いている。
しかしその言葉はアデリーンを安心させるどころか、さらに顔を強張らせた。
「でもあの子は、白聖石なしで人を救ったのよ!!」
あの日、コレットは大勢の命を救う奇跡を起こした。
王宮でもその話題で持ちきりだという。
このままでは、白聖石さえあれば聖女を装える自分と、本物の力を持つコレットの違いに誰かが気づいてしまう。
アデリーンの怒りの奥には、隠しきれない恐怖があった。
だが次の瞬間、
「ならばアデリーン様も、それ以上の奇跡を起こせばよいのです」
それまで沈黙していたフロレンツが、甘く囁いた。
「……それ以上の奇跡? どういう、こと?」
「人の心は移ろいやすいもの。より大きな奇跡を目にすれば、先日の失態などすぐに忘れます」
アデリーンは訝しげに眉を寄せたものの、美しい神官の微笑みから目をそらせない。
「一体、何をすればいいの?」
「その前に、ぜひご紹介したいお方がいらっしゃいます」
フロレンツが扉へ視線を送ると、待ち構えていたように一人の青年が入ってきた。
鮮やかな金髪に、上品でありながら人目を引く華やかな衣装。
唇には、どこか軽薄さを感じさせる笑みを浮かべている。
兄ディミトリとはまるで異なる印象だが、女性の目を惹きつける容姿を持つ青年だった。
第一側室を母に持つ、第二皇子セルジオである。
「ご機嫌うるわしゅう、アデリーン殿」
セルジオは彼女の前に跪くと、差し出された手の甲へ口づけた。
「あなたが兄上をお慕いしていることは存じています。ですがあれは決してあなたには振り向かない。婚約者である公爵令嬢を溺愛していますからね」
「……っ!」
アデリーンの顔が悔しさに歪む。
「それをあたしに教えてどうしようというのですか」
「私と手を組みませんか――私の婚約者として」
セルジオは立ち上がり、今度は逃がさぬようアデリーンの手を包み込んだ。
「私ならあなたの聖女としての立場をお守りできる。今以上の栄華もお約束しましょう」
「でもあなたは第二皇子で……」
「第二皇子だからこそ、私にも力が必要なのですよ」
セルジオはフロレンツへ意味ありげな視線を送った。
「ご覧の通り、私は神殿からの支援も受けています。兄は優秀すぎるのです。それを厭い、今のうちに排除したいと願う者はいくらでもいる。それにこのままでは、コレットとかいう卑しい女に聖女の座を奪われてしまいますよ」
――卑しい女。
その言葉は、アデリーンの胸へ甘い毒のように染み込んだ。
そうだ。
コレットは自分の足元にひれ伏していればいい。
自分よりも賞賛されることなど、あってはならないのだ。
アデリーンは、迷うことなくセルジオの手を取る。
「いいわ、これはいわば契約。コレットをもう一度引きずりおろすための――ね」
アデリーンの返答にイリーナは目を見開き、セルジオは満足そうに笑った。
欲望に駆られるセルジオと、恐怖に突き動かされるアデリーン。
互いを利用しているつもりの二人は、自分たちもまた何者かの思惑の上で踊らされていることに気づいていない。
その様子を少し離れた場所から眺めながら、フロレンツはひっそりと笑みを深くした。
彼が望んでいるのは、神殿の威信か、セルジオの即位か。
それとも、まったく別の何かなのか。
穏やかな微笑の奥に隠されたものを知る者は、彼のほかに誰もいなかった。
◇◆◇
12月に入り、聖アストラエア聖祭まで一か月を切った。
巡礼パレードでの一件以来、ライゼンブルグ家には連日のように夜会やお茶会の招待状が届いている。どれももう一人の聖女と噂されるコレットを目当てにしたものだ。
「私にはどれももったいないお誘いばかりです」
コレットは以前と変わらず、すべての招待を辞退していた。
わたくしとサイラスも、今の彼女を不用意に人前へ出すべきではないと考えている。アデリーンの評判が落ちた今、誰がコレットを利用しようと近づいてくるかわからないからだ。
その夜も三人で夕食後のお茶を楽しんでいると、ノーマンが銀盆を手に入ってきた。
「失礼いたします。王宮より急ぎの招待状が届いております」
王家主催の夜会で、宛名はわたくしだけでなく、サイラスとコレット夫妻にもなっていた。
しかも夜会が開かれるのは、明日の夜だという。
「あら、随分と急ですわね」
「何か事情がありそうですね、姉上」
サイラスの言葉に頷き、封筒を改める。招待状とは別にディミトリからの短い書状が忍ばせてあった。
『これはごく一部の人間しか知らないが、明日の夜会で我が弟セルジオとアデリーンの婚約が発表される』
「アデリーンが、セルジオ殿下と……婚約!?」
声に出して読んだ途端、和やかだった空気が一変した。
アデリーンが婚約する。
それもディミトリとあからさまに敵対する第二皇子セルジオと。
前回の人生で、アデリーンはサイラスに異常なほど執着していた。
ほかの男性との婚約など、到底あり得なかったはずだ。
(待って待って、これって一体どういうこと……?)
あまりに変わりすぎている未来に、さすがのわたくしの頭も追いつかない。
「ディミトリ殿下が留学先から帰国し、華々しく政治改革に乗り出されたことで、第二皇子派は焦っているのでしょう」
サイラスは表情を険しくし、第一皇子派ならではの見解を述べ始めた。
「セルジオ殿下の母君、第一側室マルガリータ様は現軍務大臣の娘です。ディミトリ殿下とセルジオ殿下、お二人の年齢も一歳しか違わない。ディミトリ殿下の帰国以来、セルジオ様は“凡庸な第二皇子”という空気を嫌というほど味わっているはずです」
「なるほど。つまり正攻法では敵わないから、聖女と神殿の権威を手に入れようとしているのね」
「おそらくは」
つまりは聖女アデリーンを利用した、皇位継承争い。
彼女一人でも厄介なのに、第二皇子派と神殿まで手を結んだとなれば、看過できる問題ではない。
「明日の夜会には、出席するしかなさそうですわね」
わたくしは書状を折りたたみながら、短く息を吐く。
早急にディミトリとも話し合わなければならない。
彼もまた、この事態を見過ごせないはずだ。
「お義姉様……」
そしてふと横に視線を移すと。
コレットは俯き、膝の上で両手を強く握りこんでいた。不安そうなその手に自分の手を重ね、その細い指を包み込む。
「大丈夫。何があっても今度こそあなたのことは、わたくしが守るわ」
「“今度こそ”……?」
「な、何でもないわ」
しまった。つい口が滑った。
慌てて笑って誤魔化そうとしたけれど、コレットはわたくしの手を強く握り返してきた。
「お義姉様は、何かとてつもなく重いものを抱えておられるのではないですか?」
「!」
まるで胸の内に積もる悔恨を見透かすような問い。
わたくしは咄嗟に言葉を失う。
「わかっています。きっととても簡単には口に出せないことなのでしょう」
「コレット……」
「無理に聞き出そうとは思いません。サイラス様もお義姉様の決心がつくまで待とうと仰っています」
「え」
驚いて弟を見れば、サイラスは少し困ったように微笑んだ。
「話せない事情があることくらい、私たちにもわかります。ですが姉上が話してくださる時が来たなら、必ず信じると決めています」
どうやらすべて隠し通せていると思っていたのは、わたくしだけだったらしい。
そうよね。
わたくしと違って、サイラスもコレットも賢いもの。
いつまでも内緒にできると思っていた、わたくしの見通しのほうが甘かったのだわ。
「……ええ。そんなに待たせないと思うわ」
――だからもう少しだけ時間をちょうだい。
そう頼むと、コレットもサイラスも「もちろんです」と微笑んでくれた。
時間を巻き戻し、二度目の人生を生きている。
そんな荒唐無稽な話を、本当に信じてもらえるだろうか。
いいえ。この二人なら、きっと信じてくれる。
未来は、もう前回の知識だけでは測れないほど変わり始めている。
だからこそ本物の聖女であるコレットと、その夫であるサイラス。
そしてこの国を動かせるディミトリの力が必要なのだ。
――明日の夜会が終わったら、三人にすべてを打ち明けよう。
わたくしはようやく、秘密をさらけ出す覚悟を決めた。
けれど、この時は思ってもみなかった。
わたくしとサイラス、コレット、ディミトリ。
その四人が揃う日が、二度とやってこない……なんて。




