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25話 聖女の片鱗

 



 泣き叫ぶ声が、四方八方から押し寄せてくる。

 暴走した馬はようやく取り押さえられたものの、凱旋門通りの混乱は収まらない。


「誰か、娘を助けて!」

「こっちにもケガ人がいるぞ!」

「押すな! まだ人が下敷きになっている!」


 人々は家族を捜して右往左往し、散乱した花飾りや靴を踏みつけていく。転倒した者のそばでは、助け起こそうとする者と逃げようとする者がぶつかり、また新たな悲鳴が上がった。


 あれほど民に手を振っていたアデリーンも、彼女を守る聖騎士たちも、すでにどこにもいない。

 残されたのは血の匂いと、突如として死の淵へ突き落とされた民衆の嘆きだけだった。



「大丈夫ですか!? お子さんの意識はありますか?」



 コレットはドレスの裾が血に濡れるのも構わず、幼い娘を抱きしめる母親のもとへ駆け寄った。

 少女は頭を強く打ったらしい。額の傷から流れた血が、青ざめた頬まで赤く染めている。


「うっ、うぅ……」

「しっかりして、アニス! お願い、目を開けて!」


 わたくしも馬車を飛び降り、二人のそばへ膝をついた。


「急いで止血する必要があるわ」

「お義姉様、布を……!」

「ええ。仕方ないわね」


 ほとんど同時に、絹を引き裂く音が響いた。

 わたくしとコレットは自分たちのドレスの裾を破ると、折り畳んだ布を少女の額へ当てた。母親にその上から押さえるよう言い聞かせ、周囲を見回す。


 石畳に横たわったまま動かない者。

 折れた腕を抱えて呻く者。

 泣きじゃくる子どもの傍らには、意識を失った父親が倒れている。


 助けなければならない。

 しかしこのままでは、混乱が広がるばかりだ。



「皆、落ち着きなさい!」



 わたくしは立ち上がり、腹の底から声を張った。


「歩ける者は大通りの端へ移動して、救護の道を空けて! 動けないケガ人を見つけた者は、無理に起こさず近くの騎士へ知らせなさい! この辺りに医者はおりますの!?」

「二つ先の通りに診療所があります!」

「薬屋もある!」

「でも誰が治療代を払うんだ? これだけのケガ人だぞ!」


 今にも駆け出そうとしていた男が、不安げに足を止める。

 こんな時まで金の心配をしなければならないなんて。

 しかしそれが民の暮らしなのだ。



「治療費も薬代も、ライゼンブルグ公爵家がすべて負担します!」



 わたくしの声に、再びざわめきが走った。


「四の五の言わず、ありったけの医者と薬師を連れてきなさい! 必要ならライゼンブルグ公爵家の名を使うことを許します!」

「は、はいっ!」


 男たちは弾かれたように走り出した。

 貴族の名も財も、このような時にこそ使わずして何の意味がある。


 わたくしとコレットは騎士や民に指示を出しながら、できる限りの手当てを続けた。

 出血している傷には布を当て、骨折した腕は添え木で固定する。意識のある者には絶えず声をかけ、眠らせないようにした。

 それでも、あまりにも重傷者が多すぎる。


「お母……さん……」


 目の前の少女が、朦朧としながら母を呼んだ。


「アニス! お母さんはここよ。だからお願い……!」


 母親が縋るように何度も娘の名を呼ぶ。

 布で押さえても、額から流れる血は止まらない。

 少女の小さな手から急速に力が抜け、指先が冷たくなっていく。


「駄目よ、アニス、目を閉じないで!」


 母親の慟哭が響くたび、わたくしの胸にも引き裂かれるような痛みが走った。

 振り向けば、ほかにも助けを求める声が聞こえている。

 父を、妻を、我が子を救ってくれという声が、あちらこちらから。


 ああ、ごめんなさい。

 全員を救うなんて、とても無理だ。

 わたくしは無力な自分が悔しくて、下唇を噛む。



「どうして……」



 わたくしの隣で、コレットもまた、全身を震わせていた。

 涙を滲ませた彼女は、左手をきつく握りしめている。

 白聖石があるべきだった――あの傷痕の残る手を。



「今こそ必要なのに。どうして、私の手元にないの……っ?」



 それは穏やかなコレットには珍しい、激しい怒りだった。

 白聖石を奪われた悔しさでも、聖女の座を奪われた恨みでもない。

 本当なら助けられるはずの命を、助けられない。

 ただ、そのことだけが許せないのだ。



「お願い……今だけでもいい。どうか、みんなを助けて――!」



 コレットは胸の前で両手を組み、固く目を閉じた。

 祈りに応えるように、彼女の周囲で空気が揺らめく。

 はじめは頬を撫でる、ごく弱い風だった。

 けれど、そこには春の花園を思わせる清らかな香りがあった。


「これは……?」


 わたくしは慌てて周囲を見渡した。

 ゆるい風が、コレットの前髪をふわり、と持ち上げる。

 組み合わせた両手から、淡いエメラルドグリーンの光がこぼれた。

 光は細い帯となって彼女のまわりを巡り、やがて無数の光の粒を巻き上げながら空へ昇っていく。


 次いで、花びらが開くように四方へ解き放たれた。

 血と埃の匂いに満ちていた大気が、温かな光の奔流に塗り替えられる。

 泣き声も怒号も、遠のいていくようだった。

 そしてまばゆい光の風が、母親の腕の中にいる瀕死の少女の頬を撫でた。


「……あ、あたたか…い……?」

「アニス!?」


 閉じかけていた少女の瞳が、ゆっくりと開く。

 額の傷はまだ残っている。

 けれど止まらなかった血が目の前ですうっと引き、青ざめていた頬にわずかな赤みが戻った。


「お母さん……」

「ああ、アニス……!」


 母親が泣きながら娘を抱きしめる。

 娘もまた、母の手をぎゅっと強く握り返す。



 でも奇跡は、それだけでは終わらなかった。



 光の風は波紋のように広がり、血に濡れた石畳を駆け抜ける。地面に倒れた人々を一人、また一人と包み込み、裂けた傷から流れる血を止め、苦痛に乱れていた呼吸を穏やかにしていった。



「痛みが……消えていく……」


「息ができる。息ができるぞ!」


「しっかりおし。痛いってことは、まだ生きている証拠だよ!」



 傷そのものが完全に消えたわけではない。

 折れた骨も、深く裂けた皮膚も、医者の治療を必要としている。


 それでも消えかけていた命の灯は、確かに繋ぎ止められていた。

 誰一人、死の淵へ渡すまいとするように。


 白聖石は、ここにはない。

 特別な道具も、飾られた地位もない。


 今、目の前にあるのは、ただ命を救いたいと願ったコレット自身の力――真なる聖女の『癒しの風』だった。



「患者はどこだ!?」

「重傷者から診る! 道を空けてくれ!」



 やがて医師や薬師たちが駆けつけ、本格的な救護が始まった。

 そしてコレットの光が静かに消えた時、死に瀕している者はもう一人もいなかった。

 あれほどの惨事でありながら、失われた命もなかったのだ。



「よかった……みんな、助かったのね……」



 コレットは肩で息をしながら、ゆっくりと手を下ろした。

 振り返った彼女の瞳には、これまでにない気高さと、強い決意が宿っている。


 わたくしも汚れたドレスの膝を払い、立ち上がった。

 胸の奥からこみ上げるものを堪えながら、愛する義妹へ力強く頷く。


(さすがだわ。これが本物の聖女の力……なのね)


 義妹が秘めていた圧倒的な奇跡の光景に、全身の毛穴が開くほどの鳥肌が立つ。

 同時に、圧倒的な絶望の暗闇が完全に吹き飛ばされたことに、涙が溢れそうになるほどの安堵が込み上げた。




 偽りの聖女が去り、白聖石が失われようとも、真の希望はこの手の中にある。


 ――そう、確信しながら。




 ◇◆◇




『ライゼンブルグ家には、もう一人の聖女がいる』


 そんな噂が王都中へ広まるのに、時間はかからなかった。


 当然だ。

 あの日、人々は間近で見ていたのだから。


 馬の暴走による多重事故。

 その被害者を救おうともせず、無情にも立ち去ったアデリーン。

 一方、自分のドレスを破きながら、人々を救うために祈ったコレット。


 多くの重傷者が出た。

 石畳みはいまだ血で汚れ、惨劇の生々しさを物語っている。


 けれども最終的に、一人の死者も出なかった。

 それはコレットの癒しの力が、人々の命をぎりぎり繋ぎ止めたからだ。



 さらにたまたま現場に居合わせたわたくしが、全ての治療費を肩代わりしたことで、ライゼンブルグ家への称賛も集まっていた。

 逆にアデリーンの評価は急降下する。



『事故の原因を作ったのに、逃げ出した聖女』


『特別な力を持ちながら、その力を有効に使わなかった聖女』


『民を見放し、ドレスの汚ればかり気にしていた聖女』



 容赦ない批判が、市井だけでなく王宮や神殿にも届く。


 そうだ、これでいい。

 こうして少しずつあの女の化けの皮を剥がすのだ。

 わたくしは一人、胸の空く思いでいた。






 けれど、それが間違いのもとだった。


 追い詰められた獣ほど、激しく牙を剥くものだと――


 この時のわたくしは、まだ気づいていなかったのだ。





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