24話 パレードでの悲劇
聖アストラエア聖祭まで、残り40日ばかり。
つまりワイアデイッツ滅亡までの猶予も、それしかない。
コレットが自分こそ本物の聖女かもしれないと自覚したとはいえ、それだけで未来を覆すのは難しい。
何より、わたくしには知らないことが多すぎた。
なぜジスカは未来のあの時期に我が国へ侵攻してきたのか。
アデリーンはどうやって隣国と通じていたのか。
そもそも、ジスカとはどのような国なのか。
公爵令嬢として一般的な教養は身につけてきたけれど、わたくしは外交や軍事に疎すぎる。だから暇を見つけては、マダム・エレーヌやサイラスからジスカについて教えを受けていた。
「そもそもジスカは多民族国家です。元は砂漠に暮らしていたジスカ族が、周辺の小国を侵略しながら大きくなった国なのです」
「今の王はたしかクーデターを起こし、実の兄から玉座を奪ったのでしたわね?」
「ええ。50歳を過ぎた今も周辺国への野心は衰えず、大小問わず小競り合いを繰り返しております。元来、砂漠に生きる民族ですから、豊かな土地――中でも海へ通じる領土を欲しているのでしょう」
「ですから我が国も警戒を怠らず、国境には常に守備隊を置いているのですよ、姉上」
書斎のテーブルに広げられた地図を、サイラスが指先でなぞる。
ジスカから王都へ至る街道、その間にある砦や駐屯地。いずれも侵攻を食い止めるための備えがある場所だ。
マダム・エレーヌとサイラスの話を聞き、わたくしは心の中で唸った。
ワイアデイッツを脅かす存在として、ジスカはすでに仮想敵国と見なされ、十分に警戒されている。
それなのに未来では、侵攻を食い止められなかった。
アデリーンが国を裏切ったとしても、あれほどあっけなく王都まで攻め込まれ、すべてを焼き尽くされるものだろうか。
「姉上のご心配はもっともですが、国境守備隊も地方駐屯軍も、ジスカには常に目を光らせております。今は外交に明るいディミトリ殿下もいらっしゃる。過剰な心配は無用かと」
未来の惨劇を知らないサイラスはそう言うけれど、わたくしの胸には不安が黒い靄のように渦巻いていた。
わたくしは未来を知っている。
これからアデリーンが国を裏切ることも。
ワイアデイッツが滅びることも。
けれど知っているのはあくまで『結果』だけ。
その結果に至るまでの『過程』は、すっぽりと抜け落ちている。
ジスカはこれほどの守備網をどうやって突破したのか。
アデリーン以外にも裏切り者がいたのか。
まだ大きな謎が残されている。
おそらく、わたくしも、サイラスも、ディミトリも、現時点で何かを見落としているのだ。
国家の存亡にかかわる――決定的な何かを。
「お願い、サイラス。もし何かあったら、あなたは何よりも優先してコレットを守ってちょうだい」
「……姉上?」
地図を見つめたまま、唐突にこぼれた言葉だった。
サイラスが戸惑うのも無理はない。
けれど、わたくしだって時には弱音を吐きたくなる。
前回と同じ歴史を繰り返すつもりはない。わたくしにできることがあれば、何だってする。
それでも、もし。
どれほど足掻いても未来が変わらなかったら――
せめて、サイラスとコレットだけは絶対に守らなければならない。
今度こそ、二人を生きて未来へ送り出すのだ。
「姉上が何を危惧しておられるのか、私にはわかりませんが……もちろん、コレットは私が守ります。何があろうと、この命に代えても。どうかご安心ください」
迷いのない言葉に、わたくしは強く頷いた。
我が弟ながら、サイラスは騎士団でも一、二を争う剣の腕前だ。その点だけは信頼できる。
それと念のため、いざという時の国外への逃走経路も確保しておくべきかもしれない。
そんなもの、必要にならないに越したことはないけれど。
「皆さん、勉強熱心ですね。少し休憩いたしませんか?」
張り詰めた空気を和らげるような声とともに、ティーカートを押したコレットがやってきた。
彼女の淹れてくれたお茶の甘く芳しい香りが、書斎に広がっていく。
「そうね。コレットのお茶は本当においしいもの」
そこでわたくしたちは地図を片づけ、コレットを囲んで小休止を取ることにした。
自分が本物の聖女かもしれないと知った今も、コレットは何も変わらない。
慎まやかで、清楚で、いつも人を気遣って優しく微笑む。先ほども、わたくしのカップへ注いだお茶にだけ、疲れを癒やす香草を少し加えてくれた。
この優しい娘が、本来なら聖女として人々の敬愛を受けるはずだった。
ならば国を救うためにも、コレットの白聖石をアデリーンから取り戻す方法を考えなければならない。
うーん、わかってはいたけれど、問題は山積みだわ。
「そういえば……」
コレットはカップにお茶を注ぎながら、思い出したようにつぶやいた。
「明後日の午前10時から、アデリーンの巡礼パレードが行われるそうです。お義姉様、ご存じでしたか?」
「巡礼パレード?」
思わず頬が引きつった。
そういえば以前、ディミトリのもとへ押しかけ、そんなことを提案していたわね。すげなく断られていたのに、アデリーンはまだ諦めていなかったらしい。
あの女は、とことん派手な催しと贅沢が好きな聖女様だわ。
「巡礼パレードということは、外郭の中央凱旋門から出発するのかしら?」
「ええ。今回は王都の端から端まで練り歩く予定だとか」
「やれやれ。そのパレードに、一体どれほどの税金がつぎ込まれるのやら」
サイラスが呆れたように肩をすくめる。
とはいえ、アデリーンの動向には常に注意を払っておかなければならない。
あの女はほんの少し目を離した隙に、とんでもないことをしでかす災いの種だもの。
「ノーマン」
「はっ」
部屋の隅に控えていた執事へ視線を送る。
それだけですべてを察した優秀な執事は、深々と頭を下げた。
「明後日の朝、なるべく目立たない質素な馬車を一台ご用意いたしましょう」
◇◆◇
二日後の午前10時。
わたくしはパレードを見学したいというコレットを連れ、中央凱旋門近くまで馬車を走らせた。
王都の象徴たる中央凱旋門。その巨大なアーチの向こうから、金色の紙吹雪が空高く舞い上がる。
地鳴りのような歓声が石畳を揺らした。
「アデリーン様!」
「我らが聖女、アデリーン様!」
狂熱の中心にあるのは、純白の車体に銀の装飾を施した豪華な屋根なし馬車だった。
そこに立つ聖女アデリーンは、まさに天から降臨した女神そのもの。
光を透かすようなプラチナブロンドの髪が風に揺れ、透き通る青の瞳には気品に満ちた微笑みが浮かんでいる。
彼女が指先をわずかに掲げ、沿道の民へ慈愛に満ちた祝福の仕草を見せるたび、人々は感涙にむせび、その名を呼んで声を枯らした。馬車へ少しでも近づこうと押し寄せる人々を、警備の騎士たちが必死に押しとどめている。
誰も気づいてはいない。
完璧な微笑みの奥で、彼女の瞳が冷ややかな蔑みと傲慢さを宿していることに。
人々の熱狂を、自分の権威を飾るための肥やしとしか思っていないことに。
凱旋門通りを見下ろす緩やかな坂の上。大通りから一本入った場所に停めた黒塗りの馬車の中から、わたくしは日除けのカーテンを少しだけ開いた。
「相変わらず、完璧な演技ですこと」
「それにしても、すごい人気ですね……」
伯爵家で肩身の狭い暮らしを強いられてきたコレットは、アデリーンの巡礼パレードを見るのも初めてらしい。窓の外の光景に圧倒され、膝の上で両手を固く組んでいた。
本来ならば、あの賞賛はコレットに向けられるはずのものだったのに。
白聖石も、聖女の座も、人々の敬愛も、すべてアデリーンが奪い取った。
そう思うと、腹立たしくて仕方がない。
そして異変が起きたのは、パレードが始まって間もなくのことだった。
馬車を引く白馬の鼻先に、花飾りに誘われた大ぶりの蜂がまとわりついた。馬が鬱陶しそうに首を振った拍子に、蜂の尾が鼻面へ突き刺さる。
――ヒヒーーーーンッッ!
刹那、甲高いいななきが響いた。
痛みに驚いた白馬が前脚を高く掲げ、手綱を握っていた御者が大きく仰け反る。隣の馬までつられて暴れ出し、体勢を崩した御者は座席から石畳へ投げ出された。
「うわぁぁあっ、馬を止めろ!」
「道を空けろ! 早くっ!」
騎士たちの怒号が響くが、もう遅い。
御者を失った二頭の馬は、純白の馬車を引いたまま凱旋門通りを猛然と駆け出した。
「よけろ、ぶつかるぞ!」
「逃げろ、逃げるんだ!!」
民衆が悲鳴を上げ、顔面蒼白になりながら逃げ惑う。
けれど大通りは人で埋め尽くされ、逃げ場などなかった。前の者が倒れ、避けようとした者同士がぶつかり、さらに大勢が折り重なるように転んでいく。
「うわーーーーん、お母ちゃん!」
「ひぃ、お助けっ!」
母親が幼い子どもを胸に抱いてうずくまった。そのすぐ脇を、暴走した馬車の車輪が轟音を立てて通り過ぎる。
杖をついた老人が突き飛ばされ、石畳へ頭を打ちつけた。
祝福の金色に染まっていたはずの道が、瞬く間に赤く濡れていく。
「きゃあああっ!」
「誰か、誰か助けて!」
「子どもが下敷きになっているぞ!」
ようやく騎士たちが馬を取り押さえた時には、先ほどまでの華やかなパレードは見る影もなかった。
泣き叫ぶ者。家族の名を呼ぶ者。動かなくなった人を抱き起こそうとする者。
あちこちで、助けを求める声が上がる。
「聖女様、どうかお慈悲を!」
「母を助けてください!」
「うちの子が死にそうなんです!」
馬車の上にいたアデリーンなら、その声が聞こえないはずはない。
傷ついた人々に手を差し伸べれば、救える命がいくつもあるはずだ。
でもアデリーンは、駆け寄ろうとする民衆を前にして後ずさった。
白いドレスの裾についた小さな血の染みを目にした途端、慈愛に満ちていた表情が醜く歪む。
「なによ、これ……特注のドレスに血が!」
青ざめた聖騎士が「アデリーン様、皆をお救いください」と進言する。けれどアデリーンは聞く耳を持たなかった。
「聖なるパレードを血で穢すなど、万死に値するわ!」
「ですが、重傷者が――」
「今すぐあたしをここから連れ出しなさい!」
アデリーンは自分を守るよう聖騎士たちへ命じると、縋りつこうとした女性の手を振り払い、その場を立ち去っていく。
助けを求める声に、無情にも背を向けて。
「最低だわ……!」
怒りに任せ、わたくしはきつく拳を握りしめた。
こんな女が聖女として崇められ、コレットから何もかも奪ったなんて。
でも憤るわたくしの隣で、コレットは何も言わなかった。
ただ血に濡れた石畳を見つめている。
助けを求めて泣く子どもを。
ぐったりと動かない母親を抱き、必死に呼びかける少女を。
やがて膝の上で震えていたコレットの左手が、馬車の扉へ伸びた。
「コレット?」
止める間もなかった。
扉を開けたコレットは、ドレスの裾をたくし上げて馬車から飛び降りる。
「待って、コレット!」
「ごめんなさい、お義姉様!」
わたくしの声にも振り返らない。
自分に何ができるのかなど、まだわからないはずなのに。
それでも目の前で苦しむ人を放っておけず、コレットはたった一人、惨劇のただ中へ駆けていった。




