23話 真実を知る時
大神殿から戻って以来、コレットは目に見えて沈みがちだった。
食事の席では、いつものように柔らかな微笑みを浮かべている。
でもそれはあくまで“そうあろうとしている笑み”でしかなく、ふとした拍子に表情が抜け落ちる。呼びかけられてから我に返ることもあり、どこか心だけが別の場所をさまよっているようだった。
もちろんその変化を見逃すようなサイラスではない。
「……姉上」
夕刻、執務室へ顔を出したサイラスは、珍しくためらうように口を開いた。
「コレットのことなのですが」
「ええ、わかっているわ」
書類から顔を上げると、サイラスは小さく息を吐いた。
「やはりそう見えますか」
「見えるも何もあの子、ずっと一人で塞ぎこんでいるじゃない」
白聖石を奪われた聖女の前例。
四代目聖女リリアント。
そして白聖石を失ってもなお残る小さな奇跡。
あの話を聞いて、何も思わないはずがない。
サイラスは窓の外へ目を向けた。庭園の木々は夕暮れに色を失いかけ、細い枝先だけがかすかに赤く染まっている。
「私が聞いても、きっとコレットは笑ってごまかします」
「そうでしょうね」
「彼女は何でも一人で抱え込んでしまうところがあるから」
苦いような、でもどうしようもなく愛おしいような声音だった。
「ですから……姉上。もしよろしければコレットと話していただけませんか。女同士なら話せる悩みなのかもしれませんし」
「ええ。わかったわ」
そう答えながら、胸の奥では別の思いが重たく沈んでいた。
――とうとう、その時が来たのかもしれない。
いつかは向き合わなければならないとわかっていた。
コレットが自分の身に起きたことを、もう“何でもないこと”では済ませられなくなる日が。
できるなら、もっと先であってほしかった。
もっと穏やかな毎日の中で、少しずつ自分の幸せだけを信じられるようになってからであってほしかった。
あの子には、あまりにも苦しいことが多すぎたのだから。
庭園へ出ると、冬の空気は驚くほど澄んでいた。
噴水の水音だけが、暮れかけた庭に静かに響いている。コレットは、その噴水のそばに立っていた。
石の縁にそっと指先を置き、水面を見つめる横顔はひどく頼りなく見えた。いつもなら花や空を見て小さく笑う子なのに、今はそこにあるものを何ひとつ見ていない。
心が、ずっと別の場所にあるのだ。
「こんなところにいたのね」
声をかけると、コレットははっと肩を震わせて振り返った。
「お義姉様……。心配をおかけして、申し訳ありません」
無理に浮かべただろう笑顔に、胸がきゅっと痛くなった。
この子は本当に、どんな時でも先に周りを気にかける。
自分がどれほど苦しくても、それを見せたことで誰かを困らせてはいけないと思ってしまうのだ。
コレットは憂い顔のまま、そっと左手へ視線を落とした。白く残る傷跡に、指先が触れる。
「そんなこと、あるはずないのに……」
風が吹けば掻き消されてしまうほど、ごく小さな声だった。
でももちろんわたくしは聞き逃さない。
「あなたの考えていることを、当ててみせましょうか」
コレットの肩がびくりと揺れる。
「もしかして――幼い頃、イリーナ伯爵夫人から折檻を受けた時のことを思い出したのではなくて?」
「……っ」
コレットの顔色がさっと変わる。
「そして、その時。白聖石を奪われたことも思い出した」
「いいえ!」
否定はほとんど悲鳴のようだった。
「そんなはずはありません。私が、そんな……そんな大それた……」
言いながら、声が揺れていく。
否定したいのに、心のどこかではもう気づいているのだろう。
「コレット」
わたくしは一歩近づき、その手をしっかり握った。
冷たい。
思っていた以上に、その手は冷えきっていた。
なのに、奥ではどうしようもなく震えている。
必死で平気なふりをして、必死で何でもないふりをして、それでも心の奥底では、もう耐えきれないほど揺れているのが伝わってきた。
「思い出すだけで苦しいことを、無理に口にしなくていいわ。辛かったでしょう。怖かったでしょう。どうして自分ばかりって、何度も思ったでしょう」
「お義姉様……」
「でもね。あの時のあなたは、誰にも守ってもらえなかったかもしれない。でも、もう今は違うの」
わたくしは握った手に、そっと力を込めた。
コレットの瞳がゆっくり揺れる。
「わたくしも、サイラスも、あなたを一人にはしないわ」
その一言で、コレットの目に涙が滲んだ。
本当は。
本当は、このまま何も知らないままでいてほしい。
ただライゼンブルグ家の嫁として、朝には笑って、昼には庭の花を見て、夜にはサイラスの隣で穏やかに眠る。
そんな当たり前の幸せだけを抱いて生きていってほしい。
聖女の重荷なんていらない。
国を救う使命なんて背負わなくていい。
誰かの希望になる前に、まず自分が幸せになってほしい。
そう願うわたくしがいる。
だけどその願いを許さないものがある。
燃え上がる王都。
崩れ落ちる塔。
悲鳴。血の臭い。炎に呑まれる街。
やり直す前の人生。
ジスカに攻め落とされたあの日の地獄。
このまま何もしなければ、またあの悲劇が来る。
わたくし一人では止められない。
コレットが本物の聖女として目覚めてくれなければ――ワイアディッツは滅びる。
だから。
どれだけ残酷でも。
どれだけこの子に違う幸せを与えてやりたくても。
言わなければならない。
「コレット。あなたが本物の聖女よ」
その瞬間、コレットの目が大きく見開かれた。
握っていた手が、はっきりと震えた。
その震えが、わたくしの手のひらにまで伝わってくる。
「なぜ……そんなことを仰るのですか……」
「……」
「なぜお義姉様は、そう断言できるのですか……」
わたくしは息を吸う。
――わたくしは、人生をもう一度やり直しているから。
そこまで出かかった言葉を、喉の奥でのみ込んだ。
だめ。
ここで懺悔してはならない。
もし打ち明ければ、優しいコレットはきっとわたくしを許してくれる。
けれどそれは、わたくしが楽になるだけだ。
贖罪を果たすまでは。
コレットを守りきるまでは。
決して許しを乞うてはならない。
今わたくしがすべきことは、過去を打ち明けることではない。
この子の前にある暗い道を、せめて一人ではないと思わせることだけだ。
「証拠を並べて、あなたを言い負かしたいわけじゃない。ただ信じているの。あなたの中にあるその力を」
そう告げると、コレットは涙に濡れた目でわたくしを見た。
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「あなたがまだ自分でも知らない、優しくて、温かくて、誰かを生かす力を。わたくしは信じているの」
コレットの唇が、わななく。
「あなたはきっと、大勢の人を救うわ」
「買いかぶりすぎです……私なんて……」
「買いかぶってなんかいない。あなたは、自分を低く見積もりすぎるのよ」
今度は静かに、けれど強く言った。
コレットが息を止める。
「自分が耐えてきた痛みも、自分が誰かに与えてきたぬくもりも、まるで何の価値もないみたいに言う。でもそんなことないわ。絶対に違う」
コレットの目から、涙がぽろぽろと落ちていく。
「あなたがそこにいるだけで救われる人がいる。あなたが差し出した手に、何度も助けられてきた人がいる。あなたが気づいていないだけで、あなたはもうずっと誰かを救ってきたのよ」
言いながら、わたくしの目も熱くなる。
「だから……どうか、自分をそんなふうに言わないで」
お願いするような声になっていた。
コレットは泣いていた。
声も立てず、ただ、あふれるように涙を流していた。
「怖いわよね。急に今までのことが全部別の意味を持ちはじめて、自分が何者なのかもわからなくなるのは、怖くてたまらないわよね」
コレットが小さく頷く。
「あなたは今、深い森の中にいるのだと思うわ。どちらを見ても木ばかりで、光がどこにあるのかもわからない。どこへ向かえばいいのかも、自分が進んでいるのかさえわからない」
握った手に、少しだけ力をこめた。
「でもね。森がどれだけ深くても、暗くても、あなたはもう一人じゃない」
「……っ」
「あなたが立ち止まるなら、わたくしも立ち止まるわ。あなたが怖くて進めないなら、わたくしが隣にいる。道がないなら、一緒に探す。光が見えないなら、一緒に見つける」
コレットの肩が、しゃくり上げるように揺れた。
「どうすればいいのかなんて、本当はわたくしにもわからない。でも、これだけは言える」
わたくしは、その手を包み込むように握り直した。
「絶対に、この手を離さない」
「お義姉様……」
その瞬間だった。
噴水の水が、突然いつもより高く噴き上がった。
「きゃ……!」
コレットが目を見張る。
冬の陽光を受けた水しぶきが砕け、その向こうに大きな虹が架かった。
まるで空そのものが祝福を降ろしたような、鮮やかな虹だった。
それだけではない。
庭園の花々が、いっせいに息を吹き返したように咲き開く。冬枯れしかけていた花壇に、次々と色が戻っていく。
「な、何事です!?」
「お庭が……!」
使用人たちが驚いて駆け寄ってくる。
その中には、こちらへ急いでくるサイラスの姿もあった。
「姉上、コレット!」
彼もまた、虹を見上げて言葉を失っている。
けれど今、わたくしが見るべきはその奇跡ではなかった。
「それと、もう一つだけ。あなたが聖女であろうとなかろうと、そんなこと、本当は関係ないの」
わたくしは涙に濡れたコレットの顔をまっすぐ見つめた。
「わたくしにとってあなたは、たった一人の、大切で、可愛くて、かけがえのない義妹よ。だから一人で抱え込むのはもうおしまい。苦しい時はわたくしを頼りなさい。わたくしがだめならサイラスを頼ればいい。あの子は、あなたのためなら本当に何だってするわ」
こらえきれなかったように、コレットの涙がまたあふれた。
そこで少しだけ笑うように言うと、コレットは泣きながら、それでもかすかに笑った。
「はい……っ、はい……ありがとうございます……」
その声は震えていた。
でもさっきまでとは違う。壊れそうな震えではなく、誰かに支えられて初めてこぼれる震えだった。
少し離れた場所で、サイラスがこちらを見つめている。
何も言わない。
けれど、その目はすべてを悟ったように静かだった。
ライゼンブルグ家の庭園に現れた不思議な虹は、その日一日、消えることはなかった。




