22話 聖女の秘密3
「待て」
四代目聖女リリアントの白聖石が奪われた。
その衝撃が場に落ちきる前に、低く鋭い声が空気を断ち切った。
ディミトリはフロレンツをまっすぐ見据えたまま、一歩前へ出る。
「白聖石が奪われた――それが事実なら、聖女信仰の根幹を揺るがす重大事だ。神殿にとっても王家にとっても、国家機密と呼んで差し支えあるまい」
静かな聖史庫に、彼の声だけが冷たく響く。
「それをなぜ今、俺たちに開示する?」
もっともな問いだった。
わたくしだって同じことを思っていた。
そんな重大な話を、なぜここで、なぜわたくしたちに敢えて伝えようとするのか。
けれどフロレンツは動じない。長い睫毛を伏せ、わずかに一礼してから口を開く。
「仰る通りです、ディミトリ殿下。白聖石にまつわる記録の一部は、王家と教会のみが共有を許された機密にあたります」
「ならばなおさらだ」
「ですが聖アストラエア教会はあなたを高く評価しております」
フロレンツは穏やかな口調のまま続ける。
「帰国して以来のご活躍、そして近頃のご功績は実に目覚ましい。あなたが次代の王となられることは、もはや疑いようもないでしょう」
ディミトリの表情は変わらない。
でもその言葉の意味はすぐにわかった。
「なればこそ、いずれ王が継ぐべき機密――王家と教会とで守るべき真実を、今あえてお伝えしております。これは教皇猊下のご指示でもあります」
教皇の指示。
つまり次代の王となる者が同席しているからこそわたくしたちは今、とんでもない聖女の秘密に触れることを許されているのだ。
隣を見ると、コレットがそっと左手へ視線を落としていた。
白聖石を奪われた聖女。
まさかそんな前例が、本当にあったなんて。
でも前例があるのなら、聞くべきことは絞れる。
「では未来の王妃からの質問にも、お答えいただけまして?」
わたくしが一歩前に出ると、フロレンツがこちらへ向き直る。
紫の瞳は変わらず凪いだ湖面のように静かだ。
「ええ。可能な範囲であれば。何をお知りになりたいのですか?」
「まず――白聖石を奪ったのは誰?」
「特定はできておりません。ただ当時の記録では、聖女リリアントに仕えていた下級神官の可能性が高いとされております」
「下級神官……」
神殿の内部にいた者。つまり外敵ではなく、内側の人間が奪った可能性が高いということだ。
「では次。白聖石は、奪った者でも使えるの?」
「使えます」
あまりにもあっさりした返答に、思わず眉がぴくりと動いた。
「ただし正しくは作用いたしません」
「……どういう意味?」
「力そのものが、反転するのです」
反転?
短く告げられたその言葉がすぐには理解できなくて、思わず腕を組む。
「反転って、何よ」
「本来、人を癒やし、支え、生かすはずの奇跡が、逆の性質を帯びるということです。命を潤すはずの力は命を削るものへ。守るはずの加護は蝕むものへ。白聖石を奪った者は、その反転した力にいずれ苦しむことになるでしょう」
その瞬間、息が止まった。
――それだ。
アデリーンのあの力。
人を弱らせ、追い詰め、何かを奪い取るような不気味さ。
あれはやはり、聖女の奇跡が正しく発現したものではなかったのだ。
脳裏に浮かぶのは、コレットが咲かせた花々。
疲れた者が元気を取り戻し、弱った命が持ち直していく、あの穏やかな力。
コレットの力が本来のものなら。
アデリーンが使っているのは、その正反対だ。
「……では白聖石を奪われた聖女はどうなるの? それでも聖女の力は使えるの?」
この問いには、コレットもはっきり顔を上げた。
フロレンツは小さく頷く。
「白聖石はいわば、女神より与えられた神聖力の増幅器であるとお考えください」
「増幅器……」
「ええ。ゆえに白聖石を失っても聖女が奇跡を行使できなくなるわけではありません。奇跡そのものの具現化は可能です」
そこまで聞いて、胸の奥がわずかに軽くなる。しかし説明には当然続きがあった。
「ただしその力は小さな範囲にとどまるでしょう。一人を癒やす、周囲の命を活性化させる、近しい者を守る――そういった小規模の奇跡なら起こせます。ですが国全体を救うほどの大きな力は使えなくなります」
やはりそうか。
コレットの周囲で起きているのは小さな奇跡ばかりだった。
花が長く咲くこと。
人の疲れが和らぐこと。
弱りきった馬が持ち直すこと。
あれは力が足りないのではない。
白聖石を失っているからこその発現だったのだ。
「……では、白聖石を奪われた四代目リリアントはどうなったの?」
問いかけた瞬間、空気が一段重くなる。
フロレンツはほんの少し間を置いた。
「残念ながら、リリアント様は事件の直後、歴史書から姿を消しております」
「姿を消した……?」
「はい。没年も不明。事件後の足取りを示す公的記録も、ほとんど残されておりません」
背中を撫でるような悪寒が走った。
聖女でありながら、国を守った存在でありながら、そんなふうに痕跡ごと失われることがあるなんて……。
本当ならあまりにひどい話だわ。
「ではもう一つ聞く」
今度はディミトリが口を開く。
こんなとんでもない話を聞かされているというのに、彼の声はあくまで冷静だ。
「我が国にだけ聖女が現れるのは、なぜだ」
そしてその問いに、フロレンツは初めて口をつぐんだ。
沈黙。
また、沈黙。
先ほどまで淀みなく続いていた説明が、そこでぴたりと止まる。
わたくしは思わず息を詰めた。コレットも緊張した面持ちでフロレンツを見つめている。
やがてフロレンツは、ゆっくりと本を閉じた。
「……私が開示の許可を得ているのは、ここまでです」
「つまりまだ奥深い闇があるということか」
「教会だけではありません。我々とともに歴代聖女を守ってきた王家もまた、共犯関係にあります」
共犯。
その言葉の持つ意味に、背筋がひやりとした。
「これ以上を知りたければ、まず手順を踏んでいただきたいのです」
「なるほど」
ディミトリが薄く鼻白む。その反応だけで十分だった。
要するに教会は言っているのだ。
これより先を知りたければ、あなた自身がこちら側に立つ覚悟を決めてから出直してこい、と。
おそらく表には絶対に出せない、聖女にまつわる何かがまだある。
しかもそれは、教会だけでなく王家までも巻き込んだ秘密。
……ああ、気味が悪い。
でもだからこそ知りたいという誘惑に、強く駆られてしまう。
「今日はここまでだ」
そう切り上げたのは、やはりディミトリだった。
「了解よ」
わたくしもすぐに頷く。
確かに今この場でこれ以上は、踏み込むべきではないのだろう。
「ご分別いただけて何よりです」
フロレンツは穏やかに一礼した。
そうしてわたくしたちは大神殿を後にした。
外へ出ると、冬の空気がひやりと頬を打った。神殿の中の静謐さが嘘のように、現実の冷たさが戻ってくる。
門前で馬車を待つ間も、コレットは何事か考え込んでいる様子だった。指先が無意識のうちに左手をそっと押さえている。
そして一歩前に進み出たディミトリが、わたくしたちを振り返った。
「俺は少しやることがある。先に帰れ」
「また一人で動くつもり?」
「おまえに止められてやめるようなら、最初から言わないさ」
いつもの憎まれ口。
けれど今は、その裏に別の緊張が見える。
「気をつけなさいよ」
「おまえもな」
それだけ言い残し、ディミトリは踵を返す。
わたくしとコレットは顔を見合わせ、やがて馬車へ乗り込んだ。
車輪が石畳を軋ませながら動き出す。窓の外では、大神殿の白亜の尖塔が少しずつ遠ざかっていった。
揺れる車内で、わたくしは目を閉じる。
謎の一部は解けた。
アデリーンが扱うあの不気味な力は、コレットの聖なる力が反転した結果だ。
だからあんなにも禍々しい。
コレットの奇跡とは真逆だったことも全て辻褄が合う。
でもそれらの事実がわかったことで余計に事態は厄介になった。
白聖石を取り戻さぬ限り――コレットの聖女の力は、本来の力を発揮できないのだから。
その現実の重さに、わたくしはそっと唇を引き結んだ。
◇◆◇
「どうして、どうして誰も思い通りに動かないのよ!」
ブライアたちが神殿から帰ってから数刻の後。甲高い叫び声が神殿内に響き渡っていた。
豪奢な室内の真ん中で、アデリーンが苛立たしげに手近な花瓶を払い落とす。
乾いた音を立てて砕け散った破片に、お付きの侍女たちが小さく悲鳴を飲んだ。
「ディミトリも! あの女も! みんな腹立たしいったらないわ!」
怒りに任せて腕を振るうたび、空気がどろりと淀む。
その場にいた侍女の一人が、急に顔色を失った。
「っ、ぁ……」
膝が崩れ、床へ倒れ込む。
続けてもう一人も胸元を押さえ、そのまま壁にもたれかかるようにうずくまった。
「ア、アデリーン様……」
「何よ、だらしないわね」
侍女たちがアデリーンの禍々しい力に当てられ、次々と倒れていく中。
扉の外で控えめなノックが鳴った。
「失礼いたします。新任のご挨拶に参りました」
現れたのは、白銀の祭服をまとった若い神官だった。
眉目秀麗な容姿に、女官たちが一斉に浮き立つ。
非の打ちどころのない穏やかな微笑が、暗く澱んだ空気を浄化しいくかのようだ。
一瞬、アデリーンがぴたりと動きを止めた。
「……だ、誰?」
まるで思いがけず美しいものを目にしてしまった時のように、アデリーンは目を見開いたまま、現れた神官を見つめた。
床に倒れた侍女たちにも、砕けた花瓶にも、もう視線は向いていない。
フロレンツはそんなアデリーンの前へ、静かに歩み寄った。
まるで最初からそうすることが決まっていたかのように優雅で、寸分の狂いもない所作。アデリーンの前で恭しく片膝をつき、深く頭を垂れる。
「アデリーン様。あなたは我が神殿がお守りすべき尊き聖女」
その声はひどく静かで、優しくさえあった。
耳にした者の意識を絡め取るような不思議な甘さ。
アデリーンは息をのむ。
先ほどまで怒りの熱に浮かされていた瞳が、今は別の熱を宿して揺れている。
「どうかこれから私にあなたを守らせてください」
見上げる紫の瞳は、どこまでも穏やかだった。
それなのにアデリーンはしばし言葉を失ったまま、彼を見下ろしている。
やがてようやく、アデリーンの赤い唇が緩やかな弧を描いた。
まるで面白い玩具を見つけた子どものように。




