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2話 最初の分岐点

 


「お嬢様! ブライアお嬢様、どうなさったのですか!?」



 その声に、わたくしははっと顔を上げた。

 つい先ほどまで全身を苛み、わたくしの命を焼き尽くそうとしていたはずの熱も、血の臭いも、もうどこにもない。

 代わりに鼻腔をくすぐったのは、焼きたてのパンと紅茶の香り。目の前には白いテーブルクロスが清らかに広がり、銀食器が朝の光を受けて眩くきらめいていた。


「……え?」


 呆然と声を漏らし、手元を見下ろす。

 わたくしの左手にはナイフ、右手にはフォーク。

 震える指先には火傷も血もなく、つい先ほど剣で貫かれたはずの腹部を探ってみても、そこには何の傷痕も残っていなかった。


 まるで悪い夢でも見ていたかのよう。

 でもあれは夢などではない。

 アデリーンの嘲笑も、燃え盛る屋敷も、コレットの名を叫びながら死んでいった全てが鮮烈すぎて、夢と呼ぶには生々しすぎた。


「ノーマン……?」


 恐る恐る名を呼べば、父の代からライゼンブルグ家に仕える老執事が、怪訝そうに眉を寄せて一歩進み出る。


「はい。ここにおります」


 見慣れた顔。

 見慣れた食堂。

 朝の陽光に照らされた、見慣れた公爵邸の光景。


 燃えていない。

 壊れてもいない。

 誰も死んでいない。

 胸がどくどくと激しく波打ち始めた。


 まさか。

 まさか本当に――



『……やり直してみる?』



 脳裏に、あの不思議な声が蘇る。

 あれは死の間際に見た幻ではなかったの?

 神の気まぐれか、あるいは罰か慈悲か――とにかく、わたくしは本当に戻ってきた……?


「お嬢様、どうかなさいましたか? お顔色が優れません。もしや体調がお悪いのでは」

「い、いえ……」


 声が少し裏返った。

 落ち着きなさい、ブライア。取り乱している場合ではないでしょう。

 重要なのは、ここがどこかではない。

 いつなのか、どこまで戻ったのか、それを確かめることだ。


「ノーマン」

「はい」

「今日は……何か特別な予定があったかしら?」

「予定、でございますか?」

「ええ。大事な用事でも」


 ノーマンの表情がますます曇る。

 無理もない。さっきまで普通に朝食をとっていた主人が、急に記憶をなくしたようなことを言い出せば、戸惑いもするだろう。

 けれど遠回しに言葉を選んでいる余裕など、わたくしにはなかった。


「どうしたの、聞こえなかったの? 今日は何の日なのかと尋ねているのです」

「……まさか本当に、お忘れなのですか」

「だから忘れているから聞いているのよ。早くお言いなさい」


 急かすように言えば、ノーマンは困惑を滲ませながらも口を開いた。




「本日は、サイラス様とコレット様の結婚式当日でございます」

「――!」




 その瞬間、わたくしの中で何かが弾けた。

 サイラスとコレットの結婚式。

 その言葉だけで、すべてが一気に蘇る。


 そうだ。そうだった。

 前の人生で、わたくしは二人の結婚に激しく反対したのだ。

 ライゼンブルグ公爵家の跡取りであるサイラスにふさわしいのは聖女アデリーンであって、姉のコレットではない。そんな愚かで傲慢な思い込みに囚われ、弟の願いを頭ごなしに退けた。

 あの日のことは、今も鮮明に思い出せる。



『ノヴァリス伯爵令嬢を妻に迎えたい』



 サイラスにそう告げられた時、わたくしは天にも昇る心地だった。

 てっきりアデリーンのことだと思ったからだ。

 あの聖女がいずれライゼンブルグ公爵家の女主人になる。そう思えば誇らしく、これ以上の縁談はないとすら考えた。

 けれど――


『私が愛しているのは、コレット=ノヴァリス嬢です』


 その言葉を聞いた瞬間、わたくしの喜びは凍りついた。

 どうして。

 なぜアデリーンではないの。

 どうしてよりによってあの地味で冴えない、聖女の陰に隠れてばかりの娘だというの。


 今となっては、その認識自体がどれほど浅はかで残酷だったか痛いほどわかる。けれどあの時のわたくしはただただ苛立ち、声を荒げ、サイラスの言葉を聞こうともしなかった。



『姉上、どうか一度彼女と会ってください』

『嫌です。そんな女、わたくしは認めません!』

『私は彼女以外を妻にするつもりはありません』

『ならば、わたくしを殺してからになさい!』



 ああ、なんて醜い言葉だろう。

 愛する弟の幸せより、自分の見栄と思い込みを優先した。

 相手を知ろうともせず、ただ肩書きと評判だけで拒絶した。

 その結果、サイラスはわたくしから祝福を得ることを諦め、コレットと二人きりでひっそり式を挙げることになったのだ。

 そしてそこから全てが狂い始めた。


「お嬢様……?」


 ノーマンが心配そうにこちらを見ている。

 気づけば、わたくしは勢いよく立ち上がっていた。椅子が大きな音を立てて後ろへずれる。


「まずいわ」

「は?」

「まずいどころではない!」


 思わず声が高くなる。

 結婚式当日。

 つまり今まさにここが最初の分岐点なのだ。


 ここでまた前と同じように二人を追い詰めれば、その先に待つのは破滅。

 わたくし一人の破滅ではない。サイラスも、コレットも、ひいてはこの国すら巻き込んだ最悪の結末だ。

 けれど逆に言えば――今ならまだ間に合う。


「ノーマン! 馬車を出しなさい、今すぐに!」

「えっ!?」

「それからパウラを呼んで。衣装係も装飾係も、手の空いている者は全員よ!」

「お、お待ちくださいお嬢様! 一体何がどうなって――」

「説明している時間はありません!」


 わたくしは食堂を飛び出した。

 背後から慌てふためく声がいくつも追いかけてくる。


「お嬢様!?」

「ブライア様、お待ちくださいませ!」

「ノーマン様、いかがいたしましょう!?」


 どうもこうもない。

 わたくしはもう二度と同じ間違いを繰り返さないと誓ったのだ。

 裾を翻し、大股で廊下を進む。途中、ちょうど曲がり角の向こうからメイド長のパウラが姿を現した。


「ブライア様、何やら騒がしいですが――」

「パウラ、ちょうどいいところへ。すぐに支度なさい」

「支度、でございますか?」

「ええ。花嫁衣装一式。できれば当家に伝わる婚礼用のものを。新郎用も忘れては駄目よ。それから装花、敷布、祭壇周りを飾れるもの、侍女も数人。腕の良い者を選びなさい」


 矢継ぎ早の命令に、パウラはぽかんと目を丸くした。


「ま、まさか……サイラス様のご結婚式へ……?」

「そうよ。今から向かうわ」

「ですがブライア様は、死んでも参列なさらないと……」

「その死んでも、という部分は撤回します!」


 きっぱりと言い切ると、胸の奥がちくりと痛んだ。

 以前のわたくしは、本当にそれくらいひどいことを口にしていたのだ。

 けれど今は後悔に足を取られている場合ではない。


「急ぎなさい、パウラ。式が終わってしまえば、何もかも手遅れよ」


 パウラはまだ混乱しているようだったけれど、わたくしの剣幕に押されたのか、すぐに背筋を伸ばして一礼した。


「……かしこまりました!」

「ノーマン!」

「は、はいっ」

「御者には最短で飛ばすよう伝えなさい。多少揺れようと構わないわ」

「承知いたしました!」

 

 使用人達が一斉に散ってゆく。

 その様子を見届けながら、わたくしはきつく拳を握りしめた。


 どうか間に合って。

 お願いだから、まだ終わらないで。


 前の人生で、わたくしは二人の門出を踏みにじった。

 サイラスを悲しませ、コレットを独りぼっちにした。

 だから今度こそ、みすぼらしい気持ちのまま二人を祭壇に立たせたりはしない。


「ブライア様、準備が整いました!」


 パウラの声に振り向けば、玄関前にはすでに馬車が用意されていた。後方には衣装箱や装飾品を積み込んだ馬車まで待機している。

 さすがは我が家の使用人達。仕事が早い。

 わたくしはためらうことなく馬車へ乗り込み、窓を開け放った。


「出しなさい!」

「はっ!」


 鞭の音とともに馬車が走り出す。

 勢いよく車体が揺れ、体が大きく傾ぐ。でもそんなことを気にしている余裕はなかった。

 王都の石畳を抜け、街並みを離れ、森へ向かう。

 教会は郊外の奥。前の人生でサイラスは、わたくしを避けるように、ひっそりとあの場所を選んだ。

 その事実を思い出すたび、胸が締めつけられる。


 どれほどわたくしは、弟を追い詰めていたのだろう。

 どれほどコレットを怯えさせていたのだろう。


 いいえ、今は違う。

 後悔は後でいくらでもできる。

 まずは間に合うこと。

 全てはそこからだ。

 木々の間を縫うように馬車は進み、やがて見覚えのある石造りの教会が視界に入った。


「あれです、ブライア様!」

「止めなさい!」


 馬車が完全に止まるより早く、わたくしは扉を開けて飛び降りた。

 砂利を蹴り上げ、裾を掴み、教会の扉へ向かって駆ける。

 扉はわずかに開いていた。

 その隙間から、老いた牧師の厳かな声が漏れ聞こえてくる。


「――この二人の結びつきに異議のある者は、今ここで申し出なさい。さもなくば永遠に――」


 間に合った。

 その瞬間、胸が大きく鳴った。

 前のわたくしなら、本当にこの言葉に異議を唱えただろう。


 けれど今のわたくしは違う。

 壊しに来たのではない。

 運命を変えるためにやってきたのだ。

 わたくしは勢いよく扉を押し開けた。



「お待ちなさい、サイラス――!」




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