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1話 公爵令嬢、後悔す

バリバリのテンプレ公爵令嬢回帰モノです!

ただし悪役令嬢でも聖女でもなく、小姑が主人公です。対戦よろしくお願いします



 熱い。

 肺の奥に灼けた鉄でも流し込まれたかのような熱気に襲われ、わたくしはごぼりと血を吐いた。

 喉の奥へ込み上げる生臭さに激しく咽せながら、それでも何とか顔を上げれば、視界の向こうで業火が獰猛に踊っている。


 燃えていた。

 わたくしが生まれ育ち、誇り高き公爵家の象徴として君臨してきたライゼンブルグ公爵邸が、無惨にも紅蓮の炎に呑み込まれていたのだ。


 白亜の壁を舐める火の手。

 砕け散った調度品。

 天井から降り注ぐ火の粉。


 かつての栄華を物語っていた広間は今や地獄そのものの有様で、けれどわたくしにはそれを嘆く力すら残されていなかった。


 いいえ、燃えているのはここだけではない。

 今夜、カルドウェイン王国の王都は落ちた。

 外からは絶え間なく怒号と悲鳴が響き、街を蹂躙する戦火の音が届いてくる。つい昨日までの平穏が嘘のように、王都は一夜にして破滅へ叩き落とされたのだ。


 しかもわたくし自身、こうして血の海に沈んでいる。

 腹部の傷は深い。呼吸をするたび臓腑が引き裂かれるように痛み、指先からは容赦なく熱と力が失われてゆく。這って逃げようにも腕は言うことを聞かず、冷たい床に伏したまま震えることしかできない。



「ねぇ、今どんなお気持ちですか? ブライア様」



 耳に落ちてきたのはひどく甘やかで、それでいてぞっとするほど冷たい声だった。

 わたくしは血に濡れた唇を震わせながら、ゆっくりと声の主を見上げる。

 炎を背に立っていたのは、黄金の髪を揺らす可憐な少女。神話の女神もかくやと思わせる愛らしい容姿に、男ならずとも心奪われるような微笑み。

 もしその手に血塗られた短剣など握られていなければ、いつもの神々しい聖女そのものに見えたことだろう。


 アデリーン=ノヴァリス。


 百年に一度この国に現れると言われる奇跡の具現。

 神に愛されし聖女。

 そしてわたくしが心から信じ、可愛がり、いずれは弟の妻として迎えたいとまで思っていた娘。

 そのアデリーンが今、わたくしを見下ろしながら愉快気に笑っていた。


「まさかたった一夜で、ここまで綺麗に王都が落ちるなんて思ってもみなかったでしょう?」

「……っ」


 掠れた呼吸が喉を震わせる。

 問い返すより先に、アデリーンはくすくすと肩を揺らした。


「さすがは軍事国家ジスカよねぇ。あたしが手引きしてあげただけで、あっという間に王都を占領してしまったもの」

「……なっ……」


 息を呑んだ拍子に、腹の傷がずきりと痛んだ。

 今、何と言ったの? ――手引き、ですって?


「どうして……」

 

 ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。


「どうしてなのアデリーン……なぜ聖女であるあなたが、この国を裏切ったの……!?」


 国を守り、人々を救い、神の慈悲を地上へ示す存在。

 それが聖女のはずでしょう?

 なのに。

 なのに目の前の少女はわたくしの常識も、この国の信仰も、何もかも嘲笑うように口元を歪める。


「そんなの決まってるじゃない。あたしの思い通りにならない国も、人間も、全部壊れちゃえばいいのよ!」

「……っ!」


 背筋にぞっとするものが走った。

 あまりにも身勝手で、あまりにも幼稚で、けれどだからこそ底の見えない悪意。

 この娘は本気だ。気まぐれでも激情でもない。ただ自分の機嫌ひとつで国ひとつ滅ぼしてみせたのだ。

 けれどその言葉の奥に、わたくしはひとつの名前を見た気がした。


「それは……サイラスのこと?」


 一瞬、アデリーンの瞳が細められる。



 やはりそうなのだ。

 わたくしの弟、サイラス。

 ライゼンブルグ公爵家の跡取りであり、優しく誠実で、誰よりも真っ直ぐなあの子。

 あの子は聖女アデリーンではなく――彼女の姉であるコレットを妻に選んだ。

 聖女とは比べ物にならないほどみすぼらしい、ノヴァリス伯爵家の長女を。



「そうよ。あたしがあれだけ目をかけてあげたのに、サイラスはあたしを選ばなかった」


 するとアデリーンは、今度こそはっきりと憎悪を滲ませて唇を歪めた。

 吐き捨てるような声だった。


「よりによってコレットなんかを選んだのよ……!」

「……っ」


 その言葉に、腹の傷とは別の痛みが胸を鋭く抉る。


「コレットなんてどこがよかったのかしら? 陰気で、みすぼらしくて、何の価値もない女だったのに」

「……!」


 アデリーンのその言葉は、鋭い刃となってわたくし自身にも突き刺さった。

 なぜならわたくしもアデリーンの言葉を信じ、散々コレットを蔑ろにしてきた当人だからだ。

 サイラスとの結婚に反対し、公爵家の嫁とは認めず、屋敷の隅に追いやって無視し続けてきた。

 今のわたくしにアデリーンを責める資格などない。

 けれどアデリーンが最後に告げる真実は、わたくしにさらなる衝撃を与えた。


「本当にみんな馬鹿。あんたも、王都の連中も、騎士も神官も、誰一人として気づかなかったんですもの」


 そう言って、彼女は右手を掲げる。

 その手の甲で淡く輝いていたのは、白き石。

 白聖石――聖女の証。

 神から授けられ、奇跡の力をもたらす神聖なる石。

 それを見た瞬間、わたくしは反射的に息を呑んだ。するとアデリーンは待っていましたとばかりに、いっそう深く口角を吊り上げる。


「地獄への手土産に、とっておきの秘密を教えて差し上げましょうか。これ、実はあたしのものではないの」

「……え……?」

「あたしの母が、コレットから奪ったものなのよ」


 何を言われたのか、一瞬わからなかった。

 けれどアデリーンは、楽しげに言葉を重ねる。


「つまり本当はコレットが聖女だったの。あたしはその石を使って、それらしく振る舞っていただけ。まあ、完璧には扱えなかったけれど、人を騙すには充分だったわ」

「あ……」


 声にならない。

 本物の聖女はコレット。

 この国を守るはずだったのはコレット。

 サイラスが愛し、わたくしがふさわしくないと切り捨て、冷たく傷つけてきたあの女性こそが――


「そんな、こと……」


 否定したい。

 そんなはずがないと叫びたい。

 けれど、できない。


 思い返せば不自然な点はあったはずだ。

 国を裏切っても平然としているアデリーンの邪悪さは、落ち着いて考えれば見極められた可能性が高い。

 でもそれを見ようとしなかったのは、わたくしだ。

 自分にとって都合のよいものばかり信じて、サイラスの言葉も、コレットの痛みも、何一つ見ようとしなかった。

 わたくしが愛していたのは真実ではなく、聖女というわかりやすく華やかな肩書きだったのだ。


「アデリーン様!」


 甲冑の音を鳴らし、一人の騎士が広間へ飛び込んできた。煤で汚れた顔のまま片膝をつき、主に向かって報告する。


「東の尖塔でコレットを発見したとのことです!」

「コレット……!」


 わたくしの全身が跳ねた。

 痛みも忘れ、必死に腕を伸ばして床を掻く。血で滑る指先がかろうじてアデリーンの裾を捉え、わたくしは縋るようにそれを握りしめた。


「待ちなさい……! コレットに何をする気なの……!?」

「殺しはしないわ。すぐに死なれてはつまらないもの」

 

 見上げた先で、アデリーンはにっこりと微笑んでいる。

 ああ、なんておぞましいの。これほど邪悪なことを、そんな可憐な顔で告げられるなんて。


「あの女には、この後ジスカ兵たちの慰み者になってもらうの。身の程知らずの末路としてはお似合いでしょう?」


 頭の中が真っ白になった。

 慰み者。

 女性の尊厳をこれ以上なく踏みにじる、その言葉の意味を理解した瞬間、胸の奥で何かが焼き切れる。

 守る資格などない。

 わたくしこそ、彼女を傷つけ続けてきた張本人なのだから。

 それでも。


「……させない……」

「は?」

「絶対に……そんなこと、させませんわ……!」


 うまく声にならなくとも、これだけは言わねばならなかった。


「コレットに……これ以上、指一本触れさせない……! たとえわたくしにその資格がなくとも……あなたの好きにはさせないわ……!」


 一瞬、アデリーンの笑みが消える。

 次いでその顔が、醜く歪んだ。



「うるさいのよ!」



 鋭い蹴りが側頭部に叩き込まれ、視界が白く弾けた。わたくしの体は床へ横倒しになり、そのまま何度も何度も頬を蹴りつけられる。


「最後まで気に障る女! 昔からあんたみたいな傲慢な女、大嫌いだったんだから!」


 頬が裂ける。口の中に血が広がる。

 それでもわたくしは、這うようにしてアデリーンの足首へしがみついた。


「この……偽聖女……!」

「まだ喋るの?」


 アデリーンは忌々しげに眉を寄せると、騎士を振り返って命じた。


「何を突っ立っているの。さっさと片づけなさい!」

「……はっ」


 騎士が抜き放った剣が炎を映す。

 その冷たい光が一閃した次の瞬間、焼けるような激痛が背を貫いた。


「――ぁ、……っ」


 息が、止まる。

 何が起きたのか理解した頃には、剣はすでに深々とわたくしの身体を貫いていた。

 ああ、もう駄目なのだと嫌でも悟る。

 指先から力が抜け、足首を掴んでいた手が床へ落ちた。

 アデリーンはようやく解放されたとでも言いたげに息をつき、ドレスの裾を払う。


「ごきげんよう、わがままで愚かなお姉様」


 コツ、コツ、と足音が遠ざかってゆく。

 炎の中に一人残されたわたくしは、焼ける天井をぼんやりと見上げた。


 気づけば、瞳から涙がこぼれていた。

 痛いからではない。

 悔しくて、情けなくて、どうしようもなく惨めで、涙が止まらなかったのだ。


 サイラス。

 ごめんなさい。


 心の中で弟の名を呼ぶ。

 優しくて、誠実で、誰より人を見る目を持っていたあの子は、きっと最初から正しかった。コレットを愛したことも、アデリーンにどこか距離を置いていたことも、全部。

 なのにわたくしは耳を貸さなかった。

 姉であることに驕り、愛する弟の選んだ相手を踏みにじった。


 コレット。

 脳裏に浮かぶのは、いつも遠慮がちに伏せられていた榛色の瞳。痩せた肩。控えめな微笑み。何かを言いかけては飲み込み、傷つけられても言い返せずにいたあの人の姿。


 ああ、どれほど痛かっただろう。

 どれほど心細かっただろう。

 どれほど、助けてほしかっただろう。


 それなのにわたくしは、一度たりともその手を取らなかった。


「ごめん……なさい……」


 零れたのは、公爵令嬢らしからぬ、ひどくみっともない懺悔だった。


「ごめんなさい……コレット……」


 熱気が髪を炙る。ドレスの裾へ火が移り、じりじりと燃え広がっていく。

 けれどもう、払いのける力すら残されていない。


 もしも。

 もしも、もう一度だけやり直せるのなら。

 今度は決して見誤らない。

 サイラスが愛した人をきちんと見つめる。

 あの人を一人にしない。

 誰より大切にして、誰より守る。

 だから。

 どうか――




『……やり直してみる?』




 不意に、耳元で声がした。

 男とも女ともつかない、子供のようでもあり老人のようでもある不思議な響き。

 炎の咆哮が遠ざかり、代わりに深い水の底へ沈んでいくような静寂が広がってゆく。


『やり直したい?』


 わたくしは目を開けようとした。けれど、まぶたは鉛のように重い。

 それでも答えは決まっていた。


「……ええ」


 掠れた息に、必死に願いを乗せる。


「やり直したい……」


 これは命乞いではない。

 赦しを願う言葉でもない。


「今度こそ……間違えない……!」


 誰よりもまず、コレットのために。

 その言葉が届いたのか、闇の中で小さな光がひとつ揺れた気がした。


『わかった』


 次の瞬間、世界が裏返る。

 炎も痛みも、血の臭いも消えた。

 温かな奔流がわたくしの体をさらい、意識をどこか遠くへ引いていく。

 落ちているのか、昇っているのかもわからない。

 ただひとつだけ、胸の奥にはっきり残っていた。


 ――今度こそ、あの人を守る。


 そう誓ったわたくしは、全てが狂い始めたあの日へと引き戻されていった。





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