19話 不思議な夢
ある夜、わたくしは奇妙な夢を見た。
ゆるやかに流れる川。岸辺には色とりどりの花が咲き乱れ、やわらかな光が水面に揺れている。現実にはありえないほど美しく、どこか懐かしい景色だった。
その河畔に、見知らぬ二人が立っていた。
一人は十七歳ほどの少女。淡い色の衣をまとい、長い髪を風に揺らしている。もう一人は三歳くらいの幼い男の子で、少女の手をしっかりと握っていた。
二人はわたくしから少し離れた場所に佇んでいた。
(誰……?)
見覚えはない。ないはずなのに、胸の奥がきゅうと締めつけられる。息をするのも苦しいほど、ひどく切ない。
少女は悲しげに俯いていた。対照的に少年は無邪気な笑みを浮かべ、わたくしに向かって小さな手を振っている。
その仕草があまりにも自然で、まるで昔からわたくしを知っているみたいで――思わず一歩、踏み出した。
「待って」
呼びかけたつもりだった。
けれど声はひどく遠く、喉の奥で霧のようにほどけていく。二人には届いていない。少女は顔を上げないまま、少年の手を引いて歩き出した。
「待って。待ってちょうだい……!」
わたくしは夢の中で必死に駆けた。花を踏み分け、川辺の風を切って、ただ二人の背を追う。けれどいくら走っても距離は縮まらない。まるで最初からこの夢そのものに拒まれているかのようだった。
「あなた達は誰なの?」
問いかけても返事はない。
少年は一度だけ振り返り、また小さく手を振った。少女はそのまま前を向いていたけれど、二人の姿が白い光の向こうへ溶けて消えそうになった、その直前――ようやく、わたくしのほうを見た。
そして、ほんの少しだけ笑った。
ひどく儚くて、泣きたくなるような笑みだった。
そこで、夢は終わった。
◇◆◇
目を開けた瞬間、胸の奥に重たいものが沈んでいた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。見慣れた天蓋、見慣れた寝台。ここがライゼンブルグ公爵邸の自室だと分かっても、しばらく体を起こせなかった。
(……何だったの、今の)
奇妙な夢だった。
二人の顔立ちはもう曖昧だ。目の色も、髪の色も、思い出そうとすると薄れていく。なのにあの胸を掴まれるような感覚だけは、嫌にはっきり残っている。
普通の夢なら、朝のお茶を飲む頃には忘れてしまうはずだ。
けれど不思議な声に導かれて時を巻き戻り、二度目の人生を生きているわたくしにとっては、どうしてもただの夢とは思えなかった。
朝食の席に着いてからも、わたくしはずっとそのことを考えていた。
(何か意味があるのかしら)
だとしても、答えは出ない。夢の中の二人が誰なのか、なぜあんなにも胸を締めつけられたのか。考えれば考えるほど分からなくなる。
「食事が進んでいないようですが、どうかされたのですか。姉上」
不意に声をかけられ、わたくしは顔を上げた。
向かいに座っていたのは、弟夫婦――サイラスとコレットだった。
結婚してまだ間もない新婚夫婦が、なぜわざわざ朝から姉と同じ食卓にいるのかしら。わたくしは半ば呆れながら、ため息をつく。
「新婚なんだから、朝からわたくしのご機嫌伺なんてしなくていいのに。気を遣う必要はなくてよ」
「いいえ、私がお義姉様とご一緒したいって、サイラス様にお願いしたんです」
コレットはそう言って、少し不安そうに目を瞬かせた。
「あの……ご迷惑でしたか?」
うっ、と言葉が詰まる。
迷惑なはずがない。むしろその上目遣いは何なの。
可愛すぎるでしょう。反則ではなくて?
隣でサイラスが深々と頷いた。
「姉上。私の気持ちが、ようやくお分かりになりましたか」
「ええ、今しっかりと理解したわ……」
「でしょう。コレットは色々と卑怯なんです」
「え? え?」
一人だけ事情が分からず、きょとんとするコレット。その様子がおかしくて、わたくしとサイラスは同時に吹き出した。
ノーマンも、パウラも、控えていた使用人達もつられるように笑みをこぼす。
穏やかな空気だった。
前の人生では決して見ることのなかったライゼンブルグ家の朝。
――だからこそ、守らなくてはならない。
「ですが姉上、あまり悠長にもしていられませんよ」
ふっとサイラスが真顔に戻った。
「は? 何が」
「あのノヴァリス伯爵邸の夜会以来、アデリーン様がディミトリ殿下にご執心なのです」
ああ、やっぱりその話になるのね。
「最近は何かと理由をつけて殿下の執務室を頻繁に訪ねているそうです。まるで恋人同士のようだと、宮廷ではすでに噂になっています」
「え……」
コレットの顔が、分かりやすく曇った。
「アデリーン様の熱の入りようは公然の秘密です。このままでは本来の婚約者である姉上が蔑ろにされる危険もあります。それでなくても……」
「それでなくても?」
「……いえ」
「はっきり言ってよろしくてよ」
わたくしはバターを塗ったパンを皿に戻し、肩をすくめた。
「宮廷では二十四にもなった年増のわたくしを妃にするより、もっと若くて美しい令嬢を新たな婚約者に立てた方がいい――そういう声があるのでしょう?」
「何ですかそれ、ひどすぎます!」
今度はコレットが真っ先に怒った。
つい先ほどまで忠告する側だったサイラスが、慌てて妻を落ち着かせている。
「姉上もお人が悪い。既にご存じでしたか」
「まあね」
ディミトリが帰国して以来、彼の評判はうなぎ登りだった。
長く諸外国に留学していたせいで、帰国前までは誰も“放蕩王子”に期待していなかった。けれど実際に戻ってきた彼は、留学先で身につけた国際法や交渉術を生かして隣国との緊張関係を緩和し、さらに宮廷財政の透明化にも着手した。すでに文官による不正をいくつも摘発したと聞いている。
次代の王として十分すぎるほど有能。
そんな男を、貴族達が放っておくはずがない。
「アデリーンだけじゃないわ。伯爵家も侯爵家も、側室でもいいから自分の娘をディミトリに近づけたいと考えている家は多いはずよ」
「お義姉様、恋敵が多すぎます……」
「でもディミトリ殿下は昔から姉上一筋ですし。側室なんて絶対に置くはずありません!」
「サイラス、声が大きいわよ……」
あまりにも真っ直ぐな物言いに、頬が熱くなる。
できれば今はそこに踏み込みたくなかった。胸の奥に燻る甘い感情を、わたくし自身まだ持て余している。
それに今のわたくしにはもっと大きな懸念があった。
(コレットが我が家に嫁いできて、一か月と少し)
つまり――アストラエア誓祭まで、残り一か月半もない。
前回の人生で起きた悲劇を思い出し、指先が冷たくなる。
(何か手を打たなくては)
ディミトリの周囲で渦巻く思惑も厄介だ。けれど今は、それより優先すべきことがある。
「自分にかかる火の粉くらい、ディミトリなら一人で払えるでしょう」
「まあ……否定はしませんが。でも男としては、なんかこう……」
「なに?」
「いや、ここまで放置される殿下が、少しかわいそうだなって」
「まあ」
わたくしはサイラスと目を合わせ、思わず苦笑した。
相変わらずコレット一人だけが、納得いかないという風に口先をとがらせている。
そして――その時。
くすくす。
どこからか、小さな笑い声が聞こえた。
高くて軽い、子どもの声。
「……ん?」
わたくしは思わず顔を上げ、食堂を見回した。けれどノーマンも、パウラも、使用人達も、誰一人として反応していない。
気のせい――では、ないはずだ。
たしかに、今。
夢の中でわたくしに手を振っていた、あの幼子のような声がした。
けれど次の瞬間には、その笑い声はもう風に紛れて消えていた。
◇◆◇
一方その頃、聖女アデリーンを保護、そして監察する正アストラエア大神殿では、ある若き神官の叙任式が厳かに執り行われていた。
白亜の大神殿には、祈りの声と香の煙が静かに満ちている。高い天井に反響する鐘の音が、儀式の始まりを告げていた。
祭壇の前に進み出たのは、一人の青年。
ネイビーアッシュの髪。アメジストを思わせる紫の瞳。
年若いながら佇まいには妙な静けさと、人を圧するような気配がある。
白銀の祭服をまとった姿は端整で、ひどく目を引いた。
列席する神官達が見守る中、青年は膝をつき、頭を垂れる。古い祈祷文が読み上げられた後、奥から小箱が捧げ持たれてきた。
中に納められていたのは、精緻な意匠の印章指輪。
華美ではない。しかしそれがただの装飾品ではないことは、その場の空気だけで充分に伝わった。指輪が現れた瞬間、広間の気配がわずかに張りつめたからだ。
青年はそれを恭しく受け取る。
細い指に指輪が嵌められると、大神殿は水を打ったように静まり返った。
「すべては女神アストラエアの御心のままに」
青年の澄んだ声が、広間に静かに響く。
祈りの言葉としてはあまりに美しく、けれどどこか胸の奥に引っかかる響きだった。
その瞬間、誰もが彼を祝福しているように見えた。
けれど。
青年が指輪をはめた指先をそっと握りしめた時、その紫の瞳の奥には祈りだけではない別の光が一瞬だけ揺らめいていた。




