18話 無粋な訪問者
ディミトリに手の甲へ口づけを落とされた後、わたくしは見事に固まった。
瞼すらぴくりと動かない。まばたきすることすら忘れてしまう。まるで時間の止まった絵画の中へ、そのまま閉じ込められたみたいだった。
「おい、ブライア。顔が真っ赤だ」
「……!」
確かに、わたくしの顔はとんでもない熱を帯びていた。
頬も、耳も、首筋までも、熟れた林檎のように赤くなっているのが自分でもわかる。
衝撃が強すぎて、両手で顔を覆うことすらできない。
「……ふっ、ははっ」
その様子がおかしかったのか、ディミトリがとうとう肩を揺らして笑い出した。
翡翠の瞳も、口元も、今まで見たことがないほど柔らかい。完璧な皇太子の仮面がぽろりと落ちて、そこにいたのは恋を知った青年の、照れくさそうな笑顔だった。
――ずるい。
心の中で思わず叫ぶ。
そんな顔、今まで一度だって見せなかったくせに。
皮肉めいた表情。皇太子として隙のない仕草。義務としての婚約。そういうものしか知らなかったのに、こんなにも無邪気で、柔らかくて、感情のこもった笑みを一体今までどこに隠していたのだろう。
顔がますます熱くなる。もう赤いどころか、燃えているのではないかと思うほどだ。
視線を逸らしたいのに、逸らせない。
「……慣れていないのよ」
ようやく喉からこぼれた声は、情けないほど掠れていた。恥ずかしさと、戸惑いと、嬉しさに似た何かと、不安と。全部が混ざり合って、胸の奥をぐちゃぐちゃに掻き回していく。
「うん。お前はそれでいい」
「……」
ディミトリの手が、そっと髪に触れる。
その腕に全てを預けてしまいたいような、危うい衝動が一瞬よぎった。
けれど次の瞬間、炎に呑まれていく王都の景色が脳裏に蘇る。
崩れ落ちる城壁。燃える屋敷。血と悲鳴。
そしてアデリーンの嘲るような声。
『さよなら、わがままで傲慢な公爵令嬢様』
アデリーンに騙され、本物の聖女を蔑ろにした結果、王国を崩壊へ導いた過去のわたくし。
あの時、たくさんの命と、誇りと、歴史が失われた。
――違う。
今はこんな甘い感情に流されている場合じゃない。
咄嗟に、自分が何をすべきかを思い出す。心に強くブレーキをかけると、さっきまで熱を帯びていた心も体も急速に冷えていった。
ゆっくりとディミトリの手を払って、わたくしはかすかに首を振る。
「ありがとう、ディミトリ。でも、わたくしにそんな資格はないのよ」
「え?」
「わたくしが今いちばん優先しなければならないのは、サイラスとコレットを命がけで守ること。でなければ、わたくしの罪滅ぼしは終わらない……」
「お前の罪? それって何だ?」
「……」
幼い子どもを慰めるみたいに、ディミトリの指が肩を優しく撫でる。
でも正直に話しても信じてもらえないだろう。人生をやり直している最中だなんて。
たとえ信じてもらえたとしても、それは結局、わたくし自身の愚かさと醜さを白日の下に晒すことになる。
ディミトリだって、今度こそわたくしの浅はかさに呆れ果てるに違いない。
「ごめんなさい」
「……まあ、いいさ」
ディミトリは、何も語ろうとしないわたくしを驚くほどあっさり受け入れた。
「誰にだって秘密はある」
「ディミトリ……」
「お前が何に苦しんでいるのかはわからない。でも、いつか俺にも共有させてくれ」
「……」
「十年以上待ったんだ。気の長さには多少自信がある」
「その言い方だと、わたくしがひどく鈍感みたいに聞こえるのだけれど……」
「実際鈍感だろ。サイラスだって俺の気持ちは知ってるぞ」
「嘘!」
けれどその後は、いつもの明るいお茶会へ戻っていった。
わたくしに気を遣ったのか、ディミトリは留学中の失敗談へ話題を移してくれる。
「あの雪の夜、師匠の剣が折れた拍子に、俺は雪だるまみたいに転がってな……」
ディミトリの声が軽やかに響く。翡翠の瞳が遠い記憶を映してきらきらと輝いた。
「そのまま斜面を滑り落ちて、気づけば川に突っ込んでいた」
「随分無茶をしたものね」
「まあ、ここでしか話せない失敗談だ」
照れくさそうに黒髪をかき上げる仕草が、またずるい。
さっきまでの気まずさはいつの間にか薄れ、わたくし達は久しぶりに幼馴染らしい時間を過ごしていた。
――けれど、その空気は不意に断ち切られる。
「殿下」
私室の扉が静かに開いた。
皇太子付きの侍従――普段はほとんど無表情な彼が、珍しく眉間に皺を寄せたまま膝をつく。
「来訪者が謁見を求めておりますが、いかがいたしましょう?」
ディミトリの笑みが、ぴたりと止まった。
「……誰だ? 皇太子と婚約者の茶会に割って入る無粋な輩は」
侍従は一瞬だけわたくし達を見比べ、それから声を潜めた。
「聖女アデリーン様でございます」
「!」
――諸悪の根源が、向こうから近づいてきた。
◇◆◇
「ディミトリ殿下!」
侍従の背後から、鈴を転がすような甘い声が飛び込んできた。
白いドレスの裾を翻し、金髪を輝かせながら、聖女アデリーンが皇太子の私室へ姿を現す。
「これはこれは、聖女殿。突然のお越しだったので、何のおもてなしの準備もできておらず申し訳ありません」
「あたし、そんなの気にしません! 殿下にお会いできただけで胸がいっぱいです!」
アデリーンは瞳を潤ませたまま、ディミトリの前まで近づいていく。
聖女とはいえ、皇太子と婚約者の私的な茶会に堂々と乱入するのか――という皮肉は、どうやら全く通じていないらしい。
「ごきげんよう、アデリーン様」
「まあ、ブライア様。失礼いたしました。急ぎ殿下にご相談したいことがありまして」
アデリーンの声は明るく、どこまでも芝居がかっていた。
ディミトリは立ち上がり、静かにわたくしの隣の席を示す。
「アデリーン殿。ちょうどブライアと茶を楽しんでいたところなのです。話を聞かせてもらえるかな?」
「はい、もちろんです」
アデリーンは微笑みを深め、すぐに腰を下ろした。
面倒ではあるけれど、相手は聖女だ。たとえ皇太子のディミトリでも、無下に追い返すことはできない。こうして直接押しかけられてしまった以上、しばらくは彼女の気まぐれに付き合うしかない。
「実は来週、巡礼パレードを行おうと思っているんです。その際にぜひ皇太子殿下にもご参加いただけないかと」
「私が?」
「はい。殿下のご帰国を王都の民も喜んでおりましょう。凛々しきそのお姿を披露するには、巡礼パレードがうってつけだと思うんです!」
自信満々にそう告げるアデリーンに、わたくしもディミトリも内心かなり引いていた。
巡礼パレードは、元々初代聖女カリスティアが城壁沿いを巡り、祈りを捧げた故事に由来する。けれどアデリーンの代になってからは、儀式はすっかり形骸化していた。派手な輿に乗り、多くの信者を引き連れて、聖女の権威を誇示するだけの催しに変わってしまったのだ。
つまり、それにディミトリを参加させるということは――
「まあ、アデリーン様と殿下が巡礼パレードで都中を回られたなら、お似合いの二人と評判になるでしょうね」
わたくしは、わざとらしく微笑んでみせた。
「まるで初代聖女様が夫を伴って巡礼したかのように」
「え? そ、そうでしょうか。そんな……夫だなんて恥ずかしい――!」
アデリーンは両頬に手を当て、真っ赤になってもじもじする。
やはりそういうことか。
初代聖女とその夫ヨアンの逸話をなぞり、自分とディミトリを衆人環視の中で“聖なる対”に見せたいのだろう。
……あら? でもおかしいわね。
アデリーンはサイラスに夢中なのだと思っていたのだけれど。
わたくしはそこで、顎に指をかけ推理する。
(もしかして狙いがサイラスからディミトリへ移った?)
うーん、それは充分あり得る。
前の人生ではディミトリは帰国せず、アデリーンの視界に入らなかった。けれど今は違う。サイラスも素晴らしい貴公子ではあるけれど、皇太子であるディミトリと比べれば、持つ威光にはどうしても差がある。
皇太子と聖女。
傍から見れば、たしかに完璧な組み合わせだ。
また歴史が、大きく変わろうとしているのかもしれない。
「申し訳ないが、アデリーン殿」
事の成り行きを黙って見ていたディミトリが、静かに口を開く。
「ありがたい申し出だが、あいにく来週は予定が詰まっていてね。今回は――」
「なら再来週はどうですか? あたし、殿下のご都合に合わせます!」
体よく断ろうとするディミトリに、アデリーンはなおも食い下がる。
表面上こそ穏やかな笑みを浮かべているが、ディミトリが内心うんざりしているのは長年の付き合いでなんとなくわかった。
その時、ディミトリがふいにわたくしの背後へ回る。
そして銀の髪を一房すくい、その毛先へ軽く口づけた。
「私は愛する人に不誠実でいたくない」
「え?」
アデリーンだけでなく、わたくしまで固まる。
「皇太子としてではなく一人の男として、ブライアを悲しませたくないんだ」
「……!」
なにを勝手なことを。
「どうしてもパレードに参加するなら、ぜひブライアも一緒に。彼女は未来の皇太子妃でもあるからね」
「はあ? わたくしはそんなの遠慮――むがっ!」
文句を言いかけた途端、ディミトリに口を塞がれた。
そのやりとりが仲睦まじく見えたのか、アデリーンの顔がみるみるうちに歪んでいく。
「そうですか……わかりました。あたしの配慮が足りず、申し訳ありません」
「いや。聖女殿のお気遣いは大変嬉しく思ったよ」
結局、パレード参加も断られたアデリーンは、悲しげに目を伏せた。
――その瞬間だった。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
わたくしは反射的にアデリーンの右手へ目を向けた。すると白聖石の周囲に、またあの赤黒い靄が滲んでいる。
「ブライア様が羨ましいです。こんな素敵な殿方と結婚できるなんて……」
「……」
それは邪心。
アデリーンの本性そのものを映したような、禍々しい闇。わたくしにしか見えないその靄が、薄いヴェールのように彼女の全身を覆っていく。
(以前はこの悪意の全てがコレットへ向いていた。でも今は……)
わたくしは静かに息を呑み、アデリーンと正面から向き合った。
もしアデリーンがディミトリへ執着し、わたくしを恋敵と見なしたのなら――
いいわ。
かかってきなさい。
コレットの代わりに、今度はわたくしが相手になる。
むしろアデリーンの悪意の矛先が自分へ向いたことに、どこか安堵すら覚えていた。
全身に突き刺さる嫉妬の視線を受け流しながら、わたくしは笑顔のまま紅茶を飲み干した。




