17話 公爵令嬢、ときめく
「解せないわ」
伯爵家の夜会から五日が過ぎた。
わたくしは相変わらず、コレットの淑女教育に没頭している。けれど休憩のたび、どうしても思い出してしまうのは、夜会の最後にディミトリに奪われた“忘れ物”のことだった。
解せない。
本当に、解せない。
なぜ衆人環視の前で、あのような振る舞いをする必要があったのか。
「それはそのぅ……六年ぶりの再会に心が高ぶったがゆえの、恋人達の抱擁……と言いますか」
「ブライア様がディミトリ殿下に熱烈に愛されているのが、よくわかりましたわ」
コレットとマダム・エレーヌはそんなことを言う。けれど、そもそも前提が違うのだ。
わたくしとディミトリの婚約は、あくまで政略的なもの。わたくし達の間に、恋愛感情などない。
「でもあの時のお義姉様、帰りの馬車の中でずっと真っ赤になっていて……。失礼な言い方かもしれませんけれど、大変可愛らしかったです」
「だ、誰だって驚くでしょう!? ディミトリにあんなことされたの、初めてだったんだもの!」
「え、そうなのですか?」
「まあ、婚約されてからも離れていた期間が長かったですからねぇ」
マダム・エレーヌはお茶を注ぎ足しながら、穏やかに微笑む。
「ですがお二人とも美男美女でいらっしゃるから、わたくし達下々の目にはまるで夢物語のような光景でしたわ」
「……」
駄目だわ。
いくら説明しても、まるでわかってもらえない。
わたくしは早々に説得を諦め、匙を投げた。胸の奥には相変わらず正体不明のもやもやが渦巻いている。これはもうディミトリ本人に直接ぶつけるしかなさそうだ。
「それにしても、帰国されたディミトリ殿下は早速お忙しいようですね」
マダム・エレーヌが空気を変えるように話題を切り替えた。
そういえば宮廷には、ディミトリのことを遊学を繰り返す“放蕩皇子”と糾弾する者達がいる。
まあ早い話、側室腹の第二皇子や第三皇子を推す勢力なのだけれど。
「なんでも国王陛下に公開朝議の義務化を進言なさったとか。これは隣国ヴィルヘルム公国での経験を基にしたもので、議事録の写本を即日地方領主にも送付する政策なのだそうです」
「あー……ええと……」
だんだん話が難しくなってきて、わたくしの口数が途端に少なくなる。
「つまり地方領主も中央の動きを迅速に知ることができるようになる、ということですか?」
「その通りでございます、コレット様。もし王宮で何らかの事件や陰謀が起こったとしても、地方を治める貴族や騎士達が素早く事態を把握し、対処できるようになるのです」
ようやく理解が追いついた。
(もしジスカが王国へ侵攻してきても、地方と連携が取れる? 悲劇を回避できる可能性が高まるってことかしら)
やり直す前の人生では、カルドウェインにそんな仕組みはなかった。そもそもディミトリが帰国していないのだから。
(もしかして、歴史が変わり始めている……?)
わたくしは腕を組んで考え込む。
これまではアデリーンのコレットへの嫌がらせに対処するだけで精一杯だった。けれど社交術に長けていても、政治の世界のことなどさっぱりわからないわたくしに、これ以上何ができるのか。
『味方なら一人、心強い方がいらっしゃるのでは?』
(うーん……)
やはりここはサイラスの進言通り、ディミトリを頼ってみるのも悪くないのかもしれない。先日の口づけの件は、まだ許していないけれど。
そして渡りに船とばかりに、翌日ディミトリから茶会の誘いが届いた。
場所は輝皇宮。
白大理石の壁に太陽の紋章が刻まれた、皇太子だけに許された巨大な公邸である。
◇◆◇
「ブライア、どうした? もしかして先日のこと、まだ怒っているのか?」
「お、怒ってなどいないわ。ただ不愉快に思っているだけで」
「それは同じ意味だろう」
輝皇宮の一角。窓から差し込む午後の光が、白いティーポットを金色に染めていた。
婚約者としての親睦を深める茶会は、これまでも何度か開かれてきた。けれど今日のわたくしは、あからさまにディミトリと距離を取り、かなり鋭い目で彼を睨みつけている。
「貴族達の前での芝居だったとしても、事前に相談してほしかったわ」
「ふーん。あれが芝居だと、ブライアは思っているんだな」
「芝居じゃなかったら何だと言うの」
怒りたくなんかないのに、口をついて出る言葉は棘だらけだ。
対するディミトリは相変わらず余裕たっぷりで、それがまた腹立たしい。
「そもそも急に帰国するなんて聞いてないし」
「まあ、俺ももう少しベルダンド共和国に滞在する予定だったんだけど」
ディミトリはティーカップの蓋を開け、紅茶の香りを楽しむように鼻先を寄せる。そして、
「うん、春摘みだな」
「今、そこ重要?」
「俺には重要だ」
などなど、会話の途中で茶々を入れてくる。
まったく……相変わらず、調子を狂わされてばかりだわ。
「……で、なぜベルダンド共和国から急に帰国したの?」
「ああ、サイラスが結婚したと聞いて、急に気が変わったんだ」
「サイラスの結婚?」
「最初に聞いた時は驚いた。まさかお前が二人の結婚を認めるなんて思わなかったからな」
痛いところを突かれ、思わず「うっ」と言葉に詰まる。
「しかもブライア自身が立会人となって、心温まる結婚式を挙げたそうじゃないか」
「そんな情報、どこで手に入れたの」
「王家の諜報が優秀なのは知っているだろう?」
「なんでもお見通しってわけね」
わたくしは早々に白旗を上げ、軽く肩をそびやかした。
「正直、今も半信半疑でいる。俺の知っているブライアなら、まずサイラスとコレット嬢の結婚は認めなかっただろうし、場合によっては二人とも公爵家から叩き出していてもおかしくないからな」
「……」
叩き出してはいない。でもそれと同じくらいひどい仕打ちをしたことは確かだ。
わたくしは思わず視線を落とす。
「悪かったわね。性格の悪い姉で」
「別に責めているわけじゃない。お前の中では公爵家の権威を守ることが何より大事だっただけだ。貴族として生まれた以上、血統至上主義を貫かざるを得ないこともあるだろう。――でも」
ディミトリはぐっと身を乗り出し、わたくしとの距離を詰めた。
「お前は変わった。多分、良いほうに。その理由が知りたくなってな」
「そんなことで、わざわざ帰国したの?」
「俺にとっては“そんなこと”で片づけられる話じゃない。重大懸念事項だよ」
「もの好きね」
「お前と婚約するくらいだからな」
ああ言えばこう言う。
わたくしはなんだか緊張しているのが馬鹿らしくなって、少しだけ肩の力を抜いた。
「何なら、そろそろ婚約を解消して差し上げてもよくてよ。ディミトリだって帰国したなら、本気で皇太子妃を探さなきゃならないでしょう?」
「いや、俺の妃はお前だろ? 他に誰がいる?」
「は?」
「は?」
声がぴたりと重なる。
目を見開くわたくしに対し、彼は片眉を上げただけだった。
一瞬、冗談かと思った。けれどその瞳は驚くほど真剣だ。
「サイラスが結婚したなら、お前もようやく子守りから卒業できるだろう」
ディミトリはさらりと続ける。
「つまり俺達の結婚を妨げるものは、もうほとんどないわけだ」
「ちょ、何を……言っているの?」
心臓の音が耳元で暴れる。
これがたちの悪い冗談なら、今すぐやめてほしい。
「傲慢な女は嫌いなのよね?」
「傲慢な女は嫌いだが、誇り高い女は好きだな」
「……っ!」
「そもそも俺、お前を傲慢だとは一言も言った覚えはないんだが」
「え……」
十年前の会話を慌てて思い返すけれど、記憶が曖昧で自信がない。
そんなわたくしの様子がおかしかったのか、ディミトリはくすりと笑った。
「まあ、お前が俺を男として意識していないことは、重々承知しているよ」
「!」
「だからこそ諸外国に留学し、皇太子としての資質を磨いてきたんだ」
ディミトリの声が、少しだけ低くなる。
「お前に認めてもらえる男になるために」
「――」
息が止まった。ディミトリはまっすぐにわたくしを見つめる。
「改めて宣言しておくぞ。俺はお前以外の女を妃に迎える気はない」
――衝 撃 発 言。
ディミトリの熱を帯びた眼差しが、胸の奥を強く締めつける。
息が浅い。指先が勝手に痺れていく。
この十年、わたくしはこの婚約を“義務”だと思い続けてきた。王家と公爵家の間で必要だから結ばれた、ただそれだけのものだと。
なのに今、彼は“お前だけだ”と言う。
冗談?
策略?
それとも――本気?
「いいか。これから全力で口説くから、覚悟していろ」
ディミトリはわたくしの手を優しく取り、その甲へそっと口づけた。
その予想外の求愛が、怖い。
苦しい。嬉しい?
わからない。頭の中がぐるぐると回る。
逃げたいのに、足が動かない。
彼の瞳が、わたくしを捕らえて離さない。
今まで一度も向けられたことのない熱が、そこにあった。
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