16話 6年ぶりの再会
ディミトリは片足を浮かせたままのわたくしを、ゆっくりと床へ下ろした。
けれど腕は離さない。腰に回された手は、まるで「もう逃がさない」とでも言うように、しっかりとわたくしを支えていた。
「ディミトリ、苦しいわ」
「おっと、これは失礼」
わたくしが身をよじってようやく、ディミトリは少しだけ距離を取る。
次の瞬間、彼の唇が緩やかに弧を描いた。完璧な貴公子の微笑み。けれどその奥には、悪戯を思いついた少年のような無邪気さが潜んでいる。
「その衣装、似合ってるぞ、ブライア」
「は?」
「六年ぶりに会えたと思ったら、わが婚約者殿は男より女にモテている。さすがの俺も嫉妬していいものかどうか迷ったぞ」
ディミトリは楽しげに笑った。
わたくしは思わず、その胸を拳でどんと叩く。
「からかわないで。助けてもらったのはお礼を言うけれど、あなたいつ帰国したのよ?」
「つい半日前だな。サイラスの奥方が社交界デビューすると聞きつけて、こっそり忍び込んでいた」
「……気軽に歌劇を見物しに来たような言い方ね」
一気に脱力する。
「殿下、この男はどうしますか?」
階段の上では、わたくしを突き飛ばしたマーシャルがディミトリの護衛に取り押さえられていた。泥酔したまま、うめき声を漏らして抵抗している。
「公爵令嬢を害そうとするとは、大胆不敵な奴だ」
「待って。できれば大事にしないで。見逃してあげてほしいの」
わたくしは改めて周囲を見回し、他の招待客の姿がないことを確かめた。今の一件を目撃していたのは、当事者のわたくしとマーシャル、そしてディミトリの側近だけだ。
「いいのか? 一歩間違えば命がなかったかもしれないんだぞ?」
「それは……驚いたし、怖かったわ。でも元を辿れば、わたくしが無遠慮にマーシャルのダンスの相手を奪ってしまったのが原因ですもの」
わたくしは小さく息をつく。
「女の嫉妬には慣れているけれど、男の嫉妬までは計算していなかったわ。落ち度はわたくしにもあるの」
だからお願い、と少し上目遣いで頼むと、ディミトリはあっさり折れてくれた。
「了解。ブライアがそう言うのなら。ただし本人には自分のしたことをきちんと反省してもらおう」
翡翠の瞳が冷たく細まる。
「父親であるグルーバー子爵に、事の経緯をすべて報告するように」
「御意」
こうしてマーシャルは、ディミトリの護衛に引きずられるようにして玄関へ運ばれていった。
その後ろ姿を見送りながら、ディミトリは再びわたくしの腕を取る。
「では行こうか?」
「は?」
「夜会はまだ終わっていない」
「え、ちょっと!」
半ば強引にペアにされ、そのまま大広間へ連れ戻される。
背筋を伸ばし、豪奢な外套を翻しながら赤い絨毯を進むディミトリの姿は、悔しいけれど実に絵になった。
そして大広間の扉が開いた瞬間、ざわめきが波のように広がる。
「あれは……もしや皇太子殿下!?」
「ディミトリ殿下がご帰国なされたのか?」
「聞いてないわ。でも相変わらず凛々しくていらっしゃる……」
貴族達が一斉に振り返り、グラスを置く音があちこちで重なった。女達は頬を染め、男達は慌てて頭を垂れる。
シャンデリアの光が、ディミトリの黒髪と翡翠の瞳を妖しく照らし出す。彼が軽く微笑んで会釈しただけで、広間全体が息を呑んだ。
「こ、これは皇太子殿下。今夜お目にかかれるとは思っておりませんでした……!」
「わがノヴァリス邸へようこそお越しくださいました」
ディミトリの来訪を聞きつけ、伯爵夫人だけでなくアデリーンまで慌ててサロンから飛び出してくる。
ディミトリの隣に立ちながら視線を流せば、壁際に控えていたコレットも驚いた顔をしていた。
「突然の来訪、驚かせて申し訳ない」
ディミトリは穏やかに微笑む。
「我が国のために神聖な祈りを捧げ続ける聖女アデリーン殿へ、一言お礼を申し上げたくて参上しました」
そう言うと、ディミトリは右膝を軽く折り、まるで儀式のようにアデリーンの前へ跪く。
「聖女アデリーン。あなたの祈りが私を無事に帰国させてくれました。その祝福に心より感謝を」
「で、殿下……」
左手でアデリーンの細い指をそっと取り、右手の甲へ軽く口づける。
そのあまりに出来すぎた寸劇を、わたくしは冷めた目で眺めていた。
(相変わらず、こういう立ち回りだけは抜群に上手いんだから……)
案の定、アデリーンは頬を染め、瞳を潤ませてディミトリに見惚れている。
「以前お会いした時はまだ幼い少女であられましたが……お美しく成長されましたね」
「そんなもったいないお言葉でございます。皇太子殿下こそ、ますます素敵な男性になられて……」
アデリーンは祈るように両手を胸に当てた。その視線は完全にディミトリへ釘づけだ。
傍から見れば、皇太子と聖女――いかにもお似合いの二人に見えるだろう。実際、周囲の女達から羨望の視線が集まっていた。
「では本日はこれにて失礼させていただきます。夜も更けてまいりましたから」
「あ、殿下……!」
アデリーンが慌てて一歩踏み出す。白いドレスの裾が波打ち、差し伸べた手が空を掴んだ。でもディミトリは振り返りもせず、片手を軽く上げただけ。
「続きは、また別の機会に」
声音は優しいのに、不思議と人を追わせない強さがあった。そのままわたくしを伴い、玄関先へ向かう。
「お義姉様!」
馬車の前まで来たところで、コレットが息を弾ませながら追いかけてきた。ディミトリはコレットと視線を合わせ、ふっと相好を崩す。
「初めまして、コレット嬢。サイラスは素敵な奥方を見つけましたね」
「お、畏れ多いお言葉でございます」
「それに先ほどの水鏡の占い、私にはまるで聖女が二人いるかのように見えました。あなたが聖水に触れた瞬間、すべてが虹色に光った。あの美しい光景は忘れられそうにありません」
聖女が二人。
その言葉に、わたくしの胸がどくんと大きく鳴る。
ディミトリの女への軽口はいつものことだ。けれどこの男は案外さらりと真実を言い当てるから侮れない。
「それじゃあブライア。また後日連絡する」
「ああ、はい。了解よ」
立ち去ろうとするディミトリに、わたくしもいつものように形式的な挨拶を返す。
婚約者といっても、わたくし達の間にあるのは所詮、王家と公爵家の間で結ばれた契約だ。そこに甘い空気など必要ない。
「ブライア」
「?」
一歩踏み出しかけたところで、ディミトリがぴたりと足を止めた。
前髪の一房が夜風に揺れ、翡翠の双眸が何かを確かめるように細められる。
周囲には、まだ大勢の招待客。馬車を待つ列、別れを惜しむ会話、酔いの残る笑い声。誰もが皇太子である彼の動きを気にしていた。
「……何か忘れ物?」
「ああ、そうだな。大事なものを忘れていた」
声は低く、囁くようだった。
咄嗟に嫌な予感が走り、わたくしは眉をひそめる。
「大事なものって……」
問い返そうとした言葉は、最後まで続かなかった。
次の瞬間、ディミトリの美貌が至近距離まで迫ったかと思うと――
唇に、熱を感じた。
柔らかい。けれど確かな圧力を伴った口づけ。
六年ぶりに再会した皇太子と、その婚約者であるわたくしとの接吻に、周囲から悲鳴にも似た歓声が上がる。
わたくしの頭の中は、真っ白になった。




