15話 水鏡の罠2
神託の儀と称したその見世物は、やはりコレットを貶めるための茶番だった。
会場に集まった貴族達は聖女アデリーンの占いの結果を疑いもせず信じ込み、コレットへ非難がましい視線を向けている。
「ああ、おかわいそうなコレットお姉様。でも聖なる水鏡は嘘をつきません。辛いだろうけれど、これが現実です」
アデリーンはコレットに寄り添うふりをしながら、心の底では嘲笑っている。
コレットは悔しそうに唇を噛み、震える肩を必死に抑えていた。頬は蒼白で、瞳には涙が滲んでいる。それでも一歩も引かず、ただ静かに非難の嵐に耐えていた。
(なるほど。ここでも聖女の権威を利用するのね)
夜会の主催である伯爵夫人も、隠しきれない醜悪な笑みを浮かべている。その顔を見ているだけで、胸がむかむかした。
「なんと不吉な結果だ」
「コレット嬢は由緒ある公爵家を穢す気か」
悪意ある囁きが、またたく間に広がっていく。
同時に、わたくしの中で押し殺していた怒りが膨れ上がった。
(あなた達の思い通りになど、させないわ)
満を持して、わたくしは一歩前へ進み出る。
あくまで冷静に。
理性的に。
敵の土俵でこそ、取り乱したほうが負けなのだから。
「お待ちください。コレットが我が家に不幸を招くなど、到底信じられません」
わたくしの声が、大広間によく通った。
対するアデリーンも、反撃を予想していたのだろう。蒼い双眸が、静かに、しかし確かに険を帯びた。
「占いは女神アストラエアの意志です。ブライア様、あなたは聖なる水鏡を疑うのですか?」
「いいえ。でも、聖女様だって時には手順を誤ることもあるでしょう?」
「……え?」
わたくしはさらに歩を進め、コレットの横へ立つ。
「お義姉様……」
「確か聖水に手を浸すのでしたわよね?」
わざと周囲にも聞こえるよう、少し芝居がかった調子で口にする。
「あら、変ですわね。ご覧になってくださいませ。コレットの手には手袋がはめられているわ。けれど――」
わたくしは皆にも見えるよう、コレットの手を高く掲げた。
「その手袋は全く濡れていない。乾ききっております!」
「え……?」
アデリーンの顔から、すっと血の気が引いた。
指先が水盤の縁を強く握りしめる。けれど、もう遅い。
コレットを陥れることに夢中で、最後の詰めが甘くなったのだ。
「コレットはまだ聖水に手を浸していなかったのですね? これでは正しく占えないのも当然ですわ」
「そ、それは……」
「……」
わたくしはコレットと視線を合わせ、小さく頷いた。
これは予め話しておいた通り。アデリーンが何か仕掛けてきても、言われるがままに動かず、必ず一度用心すること。コレットは聖水に手を浸したふりをして、水面の上にかざしただけだったのだ。
「では今度こそ正しく占っていただきましょう。コレット、聖水に手を浸してごらんなさい」
「でも……」
コレットは一瞬ためらった。
もし本当に悪い結果が出たら。
もし皆の前で、また否定されたら。
そんな不安が浮かんだのだろう。
でもわたくしには確信があった。
そっとコレットの背に手を回し、ぽんぽんと励ます。
「大丈夫。きっと素晴らしい結果が出るわ。あなたのサイラスに対する想いを、ただ思い描けばいいの」
「……!」
「できるわね?」
「は……はい!」
コレットは大きく息を吸い込み、レースの手袋を外した。そして白い素手を、そっと聖水へ浸す。
目を閉じ、愛するサイラスの面影を胸に描く。
その瞬間だった。
「ま、まあ、これは……!」
「おおっ!」
水鏡の聖水が、突如として激しく渦を巻いた。
水は逆巻き、銀の縁を越えて高く舞い上がる。無数の水しぶきが燭台の灯りを受けて虹色に輝き、まるで天から光の雨が降り注いだかのようだった。
神秘的な虹のヴェールが、大きな波紋となって大広間いっぱいに広がっていく。
「素晴らしい!」
「なんて綺麗なの!」
貴族達が一斉に息を呑む。
アデリーンが口にした“暗黒”など、どこにもない。そこにあるのは眩いばかりの祝福の光だけだった。
「私、どうして……?」
いちばん驚いているのは、コレット自身だった。
わたくしはその肩をそっと抱く。
「あなたの想いが形になっただけよ。よくやったわ」
「お義姉様……ありがとうございます」
どこからともなく拍手が湧き起こり、それは瞬く間に会場全体へ広がっていった。
今度こそコレットは賞賛の渦の中心にいる。
一方でアデリーンは、水盤の傍らに立ち尽くしていた。美しい顔は怒りと屈辱で紅潮している。
(当然よ。だってコレットこそが、本物の聖女なのだから)
わたくしは内心でほくそ笑む。
偽聖女など恐れるに足りない。たとえ白聖石が手元になくとも、本物の聖女であるコレットだけが奇跡を起こせるのだと、わたくしは知っている。
けれどその真実は、まだ明かさない。
今はただ、彼女を愛する義姉として、細い背中を支えてやるだけでいい。
「皆様、ご覧になりましたわね。水鏡の占いが示したのは公爵家に訪れる眩いほどの繁栄です。これ以上疑う余地はございません」
「まさにその通り!」
「聖女様の占いですもの。今度こそ正しい結果が出ましたね!」
「水鏡があれほどの光を放つとは……まさしく神の御心!」
「さすがアデリーン様だ!」
……そう。
賞賛の声は、なぜか占者であるアデリーンにも降り注いだ。
彼女の頬は引きつり、瞳の奥では怒りが煮えたぎっているのがわかる。けれど人前で聖女の仮面を外すことはできない。
「……ええ、もちろんです」
そう言って微笑みを深めるしかないのだ。
もうひとりの首謀者である伯爵夫人も、扇を握りしめたまま静かに俯いている。あちらも怒りに耐えるので精一杯といったところだろう。
「素晴らしい占いでしたわ」
わたくしはコレットを伴って、観衆の前で深く一礼した。
「このような舞台を用意してくださった聖女アデリーン様とノヴァリス伯爵夫人に、心より感謝申し上げます」
それは完全なる勝利の瞬間でもあった。
こうして一歩ずつ、一歩ずつ、コレットの神聖さを多くの人々の前で示していく。そしていつか、アデリーンの聖女の仮面を完全に剥ぎ取る。
それが今のわたくしにできる、唯一の罪滅ぼしだと信じて。
◇◆◇
神託の儀が終わる頃には、夜会も静かに幕を閉じようとしていた。
招待客の笑い声は徐々に遠のき、大広間の扉が開くたび、外の冷たい夜気が忍び込んでくる。
わたくしはひとり、パウダールームへ足を運んだ。普段なら取り巻きを引き連れているところだけれど、今夜のわたくしは男装姿だ。わざわざ言い寄ってくる男もいないだろうと思ったのだ。
アデリーン達をやり込めた達成感もあり、わたくしはかなり上機嫌だった。
身なりを整え、足早に廊下へ出る。大階段へ差しかかったところで、下から残り少ない招待客のざわめきが聞こえてきた。
「ちょっと待て」
不意に背後から声をかけられ、わたくしは立ち止まる。
公爵令嬢であるわたくし相手に、こんな不遜な口を利く者はそういない。でも振り返った先には、顔を真っ赤にしたひとりの男が立っていた。
「お前のせいで……勇気を出して……誘った、のに……」
「なんですの?」
たしか名前はマーシャル……だったかしら。わたくしがダンスの相手をしたメアリー嬢の知り合いだ。
顔は真っ赤。正装は乱れ、離れていても強い酒の匂いが漂ってくる。
この時点で距離を取るべきだったのだ。
「お、お前……お前のせいでぇ!」
「……っ!?」
マーシャルは突然わたくしへ詰め寄り、両腕を振り回し始めた。最悪なことに周囲に人影はない。
「きゃっ!」
避けようとした拍子に、階段脇の冷たい大理石の手すりへ肘が当たる。体が大きく後ろへ傾き、両足が宙に浮いた。
――落ちる。
そう思った時には、もう遅かった。
わたくしの体は、そのまま階下へ吸い込まれていく。
「ブライア!」
けれど、その瞬間。
ひとつの影が動いた。
まるで夜そのものが形を得たような、流れるような動きだった。
落下の勢いは速い。一段、二段、三段と、階段を転げ落ちるように体が傾いていく。
もう間に合わない――そう思ったのに。
その影は、間に合った。
「っ!」
階段の踊り場から身を乗り出し、わたくしを背後からしっかりと受け止める。衝撃は、ほとんど感じなかった。
「ふう、危なかったな」
頭上で愉快そうな声がした。
この声……。
慌てて目を開くと、思い出の中にあったはずの美貌が、視界いっぱいに飛び込んでくる。
「ディミトリ!?」
「久しぶりだな、ブライア。相変わらず、面白いことに巻き込まれてるな」
ディミトリの翡翠の瞳が、ふっと細められた。
わたくしはただ驚愕し、全身を硬直させることしかできなかった。




