20話 聖女の秘密1
わたくしの周りでは、このところ小さな異変が続いていた。
一つ一つは些細なこと。けれど、どれも見過ごせない変化だった。
「実は北の庭園の花が、今年はなぜか散らないのです」
朝の支度を整えていたわたくしに、パウラがそう告げたのは数日前のことだ。
北の庭園は冬の気配がいち早く差す場所で、例年なら今ごろ花壇はすっかり色を失っているはずだった。
「散らない、ですって?」
「はい。霜が降りた朝もあったのに、まるで春の盛りのように咲いたままで。庭師も首をひねっております」
気になって足を運んでみれば、確かに花々は瑞々しいままだった。
冷たい風に揺れながらも萎れる気配はなく、むしろ前より鮮やかさを増しているように見える。
その花壇のそばで、コレットがしゃがみ込んでいた。小さなシャベルを片手に、土の具合を確かめている。
「まあ、お義姉様。どうかなさいましたか?」
「北の庭園の花が散らないと聞いたのよ」
そう言うと、コレットは目を丸くして、それから少し困ったように笑った。
「私、いつも通りお世話しているだけなのですけれど……。庭師さんにも同じことを言われました」
本当に心当たりがないらしい。
でもわたくしにはわかる。これはただの偶然ではない。
不思議な話は、それだけでは終わらなかった。
「コレット様のお淹れになる薬草茶を飲むようになってから、使用人達の体調不良が目に見えて減りまして」
ある日の午後、書類を届けに来たノーマンが、何気ない調子でそう言った。
「風邪で寝込む者も減りましたし、疲れを訴える者も少のうございます。台所の者達など、最近は朝からずいぶん動きが軽いと申しておりました」
そこで彼は少し言葉を切った。
「それだけではございません。厩舎に老馬が一頭おりましたでしょう。先月はもう長くはあるまいと皆が覚悟していたのですが、コレット様が様子を見に行かれるようになってから持ち直しましてな。今では以前と変わらず役目を果たしております」
「……本当に?」
「ええ。本当に不思議なお方でございます、コレット様は。ライゼンブルグ家にとって、まるで女神のような存在です」
ノーマンは大げさに言ったつもりはないのだろう。
むしろ、心からそう感じているのが伝わってきた。
小さな奇跡。
ひとつひとつはささやかで、派手さはない。
しかし確かに誰かを癒やし、支え、弱った命にそっと力を与えている。
それはもう何度目かもわからない確信。
やはりコレットこそが本物の聖女。
白聖石などなくてもいい。
あれは力の証ではなく、奪われた権威の象徴にすぎない。
コレットの内にあるものは、もっと穏やかで、もっと深くて、誰かを生かす力だ。
だからこそ、アデリーンが白聖石を手にしたまま好き勝手に振る舞っている現状が、ますます不気味に思えてならなかった。
癒やしとは真逆の、何か。
聖女と呼ばれながら、人を蝕むような力。
「そもそも……聖女の力って何なのかしらね」
気づけば、考えていることがそのまま口をついて出た。
お茶の時間、向かいで刺繍をしていたコレットが、
「そういえば私も、今まで深く考えたことはございませんでした」
と、手を止めてから首を傾げる。
「ワイアディッツにだけ現れる奇跡の具現。女神アストラエアからの恵み……とは幼い頃から聞かされてまいりましたけれど。ではなぜこの国だけに聖女が現れるのか……と問われると、私にもわかりません」
「誰も疑問に思わなかったのよね。聖女が現れるのが当たり前すぎて」
「ええ……」
この国では、聖女はいるものだった。
季節が巡るように、朝が来れば日が昇るように、女神の加護は与えられるものだと、誰もが信じてきた。
けれど未来を知るわたくしは、もうそんなふうに無邪気ではいられない。
白聖石を奪ったアデリーンが振るう、あの禍々しい力。
聖女の歴史。
そして、この国の繁栄を支えてきた奇跡の正体。
それらを知らなければ、きっと反撃の糸口は見つからない。
もしかしたら、わたくし達は聖女のことを何ひとつ理解しないまま、ずっとその恩恵だけを享受してきたのかもしれないのだから。
「聖女について知りたいことがあるのか?」
「!?」
不意に背後から声がして、わたくしは椅子から飛び上がった。
「っ……ディミトリ!?」
振り返れば、いつの間に入ってきたのか、壁際にディミトリが立っていた。
まるで最初からそこにいたような顔をしているのが腹立たしい。
「なぜここにいるのかしら」
「つれないな。さすがの俺も厄介な火の粉を払うのに少々手こずっていてな。ここは婚約者殿の手を借りようかと」
「見返りが怖いわ」
「よくわかっているな」
皮肉げに唇を持ち上げるものだから、思わず反論も鈍ってしまう。
うう、悪かったわよ。あの性悪女の相手を、ほとんどあなた一人に押しつける形になって。
けれどディミトリは、すぐに軽口を引っ込めた。
「……もっとも、俺自身も前々から不思議には思っていた。留学先で各国の史書を漁っても、聖女の存在はワイアディッツにしか見当たらなかったからな」
「他国には、やはりいないのね」
「ああ。だからこそ聖女の存在は他国にとって絶大な脅威だ。聖女がいたからこそワイアディッツは幾度も他国の侵略を退け、五百年以上ものあいだ異例の繁栄を続けてこられたと言っていい」
当然のように享受してきたものが、外から見ればどれほど異質か。
その事実を突きつけられて、わたくしは低く唸る。さらにディミトリは腕を組んだまま、言葉を続けた。
「聖書や大神殿の記録を詳しく知りたいなら、聖アストラエア大神殿へ赴く必要があるだろう。その気があるなら手配するが」
「お願いするわ!」
ほとんど食い気味に答えると、コレットも身を乗り出す。
「もし許されるのでしたら……私もご一緒したいです」
「もちろんよ。一人で行くつもりなんてないわ」
三人同時に視線を合わせた後、わたくしは力強くうなずいた。
◇◆◇
そうしてディミトリの手配のもと、数日後。
わたくし達は聖アストラエア大神殿へ向かうことになった。
大神殿は王都の中でも一際高い丘に建っている。
白亜の外壁は冬の光を受けて淡く輝き、幾重にも連なる尖塔は空を貫くようだった。荘厳という言葉すら、どこか足りない気がする。
重厚な門をくぐった先で、わたくし達を出迎えたのは、年若い一人の聖職者だった。
ネイビーアッシュの髪。
アメジストを思わせる紫の瞳。
白銀の祭服を隙なくまとった姿は端整で、ひどく目を引いた。
まだ若い。
それなのに、纏う空気には不思議な落ち着きがある。
「司教枢機卿フロレンツ・アドラーと申します」
司教枢機卿。
その肩書きに驚くわたくしの隣で、ディミトリがわずかに目を細めた。
「最近、枢機卿に任命された若き神官とはあなたのことか」
「ええ。未熟者ではございますが」
フロレンツは穏やかに微笑んだまま答える。
ディミトリはちらり、と彼の手元へ視線を向けた。何やらいわくありげな指輪が、冬の光を受けて厳かに輝いている。
「なるほど。ずいぶんと権威のある案内役をよこしてくれたものだ」
「もちろんです」
フロレンツの笑みはますます深くなる。
「次代の王と王妃のご用命とあらば、大神殿としても誠心誠意おもてなしせざるを得ません」
穏やかな受け答えなのに、不思議と場の空気が引き締まる。
ふーん。こんなに若くて、人目を引く神官がいるのね。
しかもディミトリとのやり取りから察するに、ただ美しいだけではないらしい。
「聖アストラエア大神殿へようこそ」
ゆるりと差し出されたフロレンツの手の先に、白亜の回廊が奥へ奥へと続いている。
聖女とは何か。
白聖石とは何か。
そしてコレットの力の正体とは何なのか。
その答えに近づく時が、とうとう来たのだ。




