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11話 公爵令嬢、忘れていた婚約者を思い出す

 


 柔らかな秋の陽光が、公爵家の庭園を金色に染めていた。

 整然と刈り込まれた生垣の向こうで、色とりどりの薔薇が風に揺れ、遠くの噴水からは涼やかな水音が響く。


「先日無礼を働いた侍女達は、聖女との目通りも叶わず、神殿から問答無用で追い出されたそうですね」


 わたくしは庭園の端にある四阿(あずまや)で、弟夫婦とお茶の時間を楽しんでいた。ダイアン達への報復に満足したのか、サイラスはどこか愉快そうに微笑んでいる。


「あら、そうなの。彼女達の自業自得ね」

「姉上も人が悪い。侍女達の悪事を見抜いていたなら、聖女本人にも直に聖具密売の罪を問いただせたでしょうに」

「それは無理ね」

「え?」


 澄ました顔で紅茶をひと口飲むと、サイラスは目を瞬かせた。


「だって、物的証拠がないもの」

「ないのですか?」

「あるのは聖具を高値で売りつけられた者達の証言だけよ」

「それは証拠にならないのですか?」

「捜査が入れば、みな一斉に口を噤むでしょうよ。ありがた~い聖女様への忖度でね」


 サイラスは唖然とし、コレットまで目を丸くした。


「ではあの時のお義姉様の強気の態度は……」

「勝手にあの者達が、わたくしの追及に慌てて自白しただけよ。少し脅しすぎたかしら」

「まあ、お義姉様ったら」


 コレットがくすくすと笑う。その声は風に揺れる葉音のように軽やかだった。

 我が屋敷に来てからというもの、コレットは以前よりよく笑うようになった気がする。とても喜ばしい変化だと、わたくしの頬も自然と緩んだ。


「けれど聖女ともあろうお方が非合法な手段で私腹を肥やしているなんて……。王国に仕える騎士として、看過できる事実ではありません」

「覚えておきなさい。あの女の本性は、決して善ではないわ」


 その途端、サイラスもコレットも笑みを消した。

 きっと薄々は感じていたのだろう。我がライゼンブルグ家にとって、アデリーンはすでに敵なのだと。


「聖女の神聖性と権力は絶大だわ。王家やアストラエア正教会、そして国民の支持も厚い。ライゼンブルグ家の力をもってしても、容易に牙城は崩せない」

「はい……」

「聖女であるがゆえの暴走。その危険性に気づいているのは、今のところわたくし達だけよ。だからこそ、こちらも監視の目を緩めてはならないの」

 

 庭園を渡る風がテーブルの上のレースのクロスをかすかに揺らした。

 わたくしはカップを置き、指先で卓を軽く叩く。



「味方が欲しいわ……」



 思わず本音が吐息とともにこぼれる。

 未来で起こる悲劇を知っている立場としては、保険としてできるだけ多くの味方を増やしておきたい。わたくし一人でできることなど、たかが知れているのだから。

 するとサイラスが少し身を乗り出し、いたずらっぽくこちらを見た。


「味方なら一人心強い方がいらっしゃるのでは?」


 その瞬間、ある人物の顔が脳裏に浮かび、思わず眉間にしわが寄る。



「もしかしてディミトリのことを言ってるの?」

「他に誰がいますか」

「あー……」



 思わず視線を逸らし、わたくしは大きくため息をついた。

 サイラスの提案はもっともだ。もっともなのだけれど素直に頷けない。

 急に居心地が悪くなったわたくしを見て、コレットが不思議そうに首を傾げた。


「あの、ディミトリ様って……」

「皇太子殿下で、姉上の婚約者だよ」


 サイラスがあっさり答える。



「姉上は未来の皇太子妃なんだ」

「ええっ!?」



 コレットは驚きのあまり勢いよく立ち上がった。テーブルのティーカップがかたんと揺れる。

 予想通りの反応に、わたくしは思わず苦笑した。


 未来の皇太子妃。

 ええ、間違ってはいない。

 実はこう見えてわたくし、この国の第一皇子ディミトリ=イェー=カルドウェインと婚約を交わしているのだ。


「も、申し訳ありません! 私、本当に不勉強で……。お義姉様がご婚約なさっていること、存じませんでした」

「わたくしのこと、本当に行き遅れだと思っていたの?」

「と、とんでもないです!」


 コレットは顔を真っ赤にしながら、ぶんぶんと首を振る。

 元々が究極の箱入り娘なのだ。皇太子の名は知っていても、わたくしとの婚約までは知らなくて当然だろう。


「婚約者といっても、当のディミトリ殿下は留学と称して各国を渡り歩いていらっしゃるから、もう六年はお会いしていないの」

「六年も?」

「姉上、殿下から連絡はないのですか?」

「半年前に一度、留学先から手紙が届いたけれど、いつも通りの社交辞令だけ」

「殿下とは一応、幼馴染でもあるんですよね?」

「幼馴染というより利害が一致した契約関係、と言ったほうが近いかしら」


 淡々と事実だけを述べる。

 わたくしが二十四になってもなお、どこにも嫁がず実質行き遅れと囁かれている理由。それは両親を亡くしたあの時期にまで遡る。



    ◇◆◇



 ――今から十年前。

 大好きだった父が国境の防衛戦で戦死し、優しかった母までもがその後を追うように亡くなった頃のことだ。



「なあ、ブライア。俺と婚約しないか?」

「は?」



 悲しみのあまり屋敷の奥へ閉じこもっていたわたくしを訪ねてきたのが、他ならぬディミトリだった。


「何の冗談?」

「冗談に聞こえるか? 俺は本気だぞ」

「わたくしとディミトリが……婚約?」


 漆黒の絹糸を思わせる黒髪に、冷たく澄んだ翠の瞳。わたくしより一つ年上のディミトリは、若き日の国王陛下の美貌をそのまま受け継いだような少年だった。

 皇太子と公爵令嬢の政略結婚。家柄だけを見れば、あり得ない話ではない。それに現国王陛下と亡き父は、主従を超えた親友同士だった。わたくしも幼い頃から王宮へ出入りし、第一皇子であるディミトリとは兄妹のように過ごした時期がある。


「わたくし、傲慢な男は嫌いなの」

「俺も傲慢な女は苦手だな」


 けれどわたくしもディミトリも双方負けず嫌いで、他人に合わせることを知らずに育った。甘い感情など生まれる余地もない。


「でもお前、今困ってるだろ?」

「……」


 当時十四歳。

 女であるがゆえに家督は継げず、かといって社交界で発言力がある年齢でもない。九歳のサイラスを姉として支えねばならぬ立場にありながら、わたくしにできることは何一つなかった。

 見も知らぬ外戚が、次の公爵位を巡って醜く争うのを見ているしかなかったのだ。


「もし俺と婚約したなら、お前は未来の皇太子妃だ。俺だけでなく父上や母上の後ろ盾も得られる」

「……」

「サイラスが成人するまでの間だけでもいい。俺と婚約しないか」


 つまりそれは王家からの救済であり、戦死した父への最大限の返礼でもあった。

 実際、その後王家の計らいで中継ぎの公爵に大叔父様が選ばれているのだから、その誠意は本物だったのだろう。


「でもわたくしと婚約してディミトリに何の得があるの?」

「そうだな。ま、他の令嬢との縁談が減る。正直うざいし、ライゼンブルグ家との婚約なら文句を言う奴も少ない」

「打算的……」

「それに婚約が決まったら、親善大使も兼ねて隣の大公国に留学してもいいって許可をもらったんだ。それからキシェタ騎士団領、ゾハム海洋帝国、パナママ大名領……」

「つまり諸国を外遊して回りたい……と」

「楽しそうだろ!」


 目をきらきら輝かせて、自分の夢を語るディミトリに、わたくしは呆れるばかりだった。

 彼はとにかく広い世界を知りたがっていた。それが皇太子として正しいのかどうかは、当時のわたくしには判断がつかなかったけれど。


「それにどうせお前はサイラスサイラスって弟ばかり溺愛して、他の男に興味ないだろうし」

「そんなこと……大いにありますけど」

「正直だなあ」


 ディミトリはくすりと笑い、わたくしの肩にぽんと手を置いた。


「だから俺の婚約者になっておけって。損はさせないから」

「つまり契約ってこと?」

「まあ、そんなところだ」

「わかりました」


 わたくしは、案外あっさりその提案を受け入れた。

 それが幼い姉弟が生き残る唯一の道だと理解していたし、ディミトリなりの優しさも感じ取れたからだ。







 それからというもの、当初の宣言通りディミトリは親善大使として各国を渡り歩いている。王宮では『放蕩皇子』と陰口を叩かれているとか、いないとか。

 そんな経緯があるものだから、婚約者であるわたくしまで『忘れられた皇太子妃』と囁かれる羽目になった。もう何年も言われ続けているので、今さら腹も立たないけれど。


(まあ、確かに聖女に対抗するには、ディミトリはうってつけの人物ではあるけれど……)


 すっかり冷めた紅茶を、スプーンでかちゃかちゃとかき回しながら、わたくしは前の人生を思い出す。


 アデリーンに心酔し、コレットをないがしろにしていた以前の歴史の中で、ディミトリは一度もカルドウェインへ帰ってこなかった。

 王都にジスカ国の軍隊が侵攻し、我が公爵家が焼け落ちた時でさえ、彼はわたくしの前に現れなかったのだ。



(うん、ないわね)



 わたくしは脳内で、あっさりとディミトリを戦力外とした。

 彼はライゼンブルグ家の危機を救ってくれた恩人ではある。けれど心の距離で言えば果てしなく遠い。ほとんど他人に等しい存在なのだ。


「そんなことより、もっと現実的な案を考えたほうがよさそう……」

「皇太子殿下をそんなこと扱いですか」


 即断即決するわたくしに、サイラスが苦笑を漏らす。隣ではコレットが、ひたすら申し訳なさそうに身を縮こまらせていた。


「お話中、失礼いたします」


 そろそろ茶会も終わりという頃、石畳を打つノーマンの靴音が近づいてきた。銀のトレイに載せられているのは、封蝋の押された一通の書状。


「ノヴァリス伯爵家より、夜会の招待状が届いております」

「え」


 その名を耳にした瞬間、庭に満ちていた薔薇の香りすら重く感じられた。

 わたくしは書状を受け取り、ノヴァリス家の紋章――白百合を象った赤い封蝋をじっと見つめる。


 それは聖女の実家から、公爵家へ向けて差し出された一通の招待状。

 同時に、挑戦状でもあった。






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