第九話 二十二年分の記録
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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三日目の朝も、アリシアは書庫に来た。
テーブルに昨日の続きを広げる。縦に月、横に年度を並べた照合表。すでに三年、五年、七年、十年分の欄が埋まっている。今日は十五年前から確認していく。作業の順序は昨日のうちに決めてあった。書庫の朝は静かだ。廊下の人の声も届かない。帳簿と自分だけの、閉じた時間が始まる。
帳簿を棚から引き出すとき、背表紙の年号を確認する習慣がついた。数字を読んで、棚に戻す。必要な冊だけをテーブルに持ってくる。余分なものをテーブルに積まないほうが、混乱が少ない。父の商会で教わった整理の基本だ。無駄な動きを省けば、それだけ目が疲れにくい。
十五年前の帳簿を開く。精製費用の欄を探す。同じ業者名——今度は末尾が「商会」に戻っている。金額は八百二十銀貨。証憑を照合する。一通。やはり足りない。支払い回数と証明書の数が合わない。
アリシアは数字を表に書き込みながら、静かに呼吸した。怒りでも驚きでもなく、確認の感覚だった。発見が積み重なるほど、感情は静まっていく。こういうときは淡々とやるのが一番いい。数字は語る。こちらは聞けばいい。父の商会で不正な仕入れが発覚したときも、アリシアは同じように帳簿と向き合った。感情が先に動くと、数字の読み方が歪む。
十八年前の帳簿を引き出した。同じだった。
二十年前の帳簿を開いた。やはり同じだった。精製費用の欄に、見慣れた金額が並んでいる。
ここで一度、ペンを止めた。二十年前まで同じ構造が続いている。書庫に残っている最古の帳簿は二十二年前のものだ。棚の一番奥の下段、埃が厚く積もった区画に、一番古い年度の帳簿が並んでいる。そこまで調べれば、パターンの始まりが分かるかもしれない。
アリシアは立ち上がって、その棚に向かった。膝をついて下段を覗くと、背表紙の文字が薄く、年号が読みにくかった。指で埃を払いながら確認する。二十二年前。それを引き出した。
二十二年前の帳簿は、背表紙が傷んで紙が乾燥してやや硬い。慎重にページをめくる。古い紙は力加減を間違えると破れる。精製費用の欄を探す。
あった。
「ヴェルナー商会」。金額は八百二十銀貨。
アリシアは照合表を見た。二十二年分の欄が、同じ数字で埋まっている。始まりがここだとすれば——ゲルハルトがアルバーン城に家令として赴任した年と、ほぼ重なる。
それを考えた瞬間、手が静止した。
偶然ではない。どこかで始まったものが今も続いているのではなく、一人の人間がこの城に在任している期間と完全に一致している。二十二年間、業者名の末尾を一文字ずつ変えながら、同じ金額を、証憑のそろわない形で計上し続けている。ミスではない。意図だ。設計だ。
扉が開いた。
アリシアは反射的に書類を重ねた。振り返ると、清掃道具を持ったマルタが入り口に立っていた。
「失礼いたしました。清掃の時間でしたが——」
マルタの目がテーブルを見て、アリシアを見た。何か言いかけて、口を閉じた。
「後ほど参ります」
それだけ言って、静かに扉が閉まった。
アリシアはしばらくそのままの姿勢でいた。マルタの顔に浮かんだ表情が気になった。驚き、というより、何かに気づいたような、少し複雑な表情だった。この書庫に誰かがこうして帳簿の前に座っている姿を、あの人はほとんど見たことがないのかもしれない。
前の奥方——エリーゼはここに来たことがあったのだろうか。聞けないことだが、おそらくなかった。マルタの反応がそれを感じさせた。初めて見るものを見たときの表情をしていた。
アリシアは気持ちを戻して、照合表の最終確認をした。二十二年間、同じ業者名、同じ金額、常に不足する証憑。総額を改めて計算した。
指がわずかに震えた。そうならないように、と思っていたが、止まらなかった。二十二年分の合計は、この領地の主要収入である魔石採掘の年間純益に匹敵するほどの大きな額になる。単純な計算ミスではない。構造的な、意図的な操作だ。何年もかけて、少しずつ、しかし着実に積み上げてきた数字だ。
言葉が自然に浮かんだ。
これは不正だ。
数字が示している。積み上げた照合表が示している。二十二年分の記録が、一つの事実を指し示している。
報告しなければならない。だが——誰に?
この城の財政を管理しているのはゲルハルトだ。書庫に出入りできる人間も、帳簿の正式な管理者も、すべてゲルハルトが関わっている。アリシアが何かを言えば、最初に届くのはゲルハルトのところになる。すでに二度、書庫から遠ざけようとされた。三度目があれば、今度はもっと強引な形で来るかもしれない。それまでに動かなければならない。しかし動く先が見えていない。
書庫の外では風が石廊下を抜けていく音がした。アリシアは照合表を丁寧に折りたたみ、自分の荷物の奥に収めた。帳簿を棚に戻し、証憑の束を元の場所に置く。何かが動かされた痕跡を残さないよう、手順を踏んで片付けた。
扉に鍵をかけて、廊下に出た。窓の外には曇った空が広がっている。北の山の稜線が、灰色の雲に半分隠れていた。石廊下は冷えていて、足元から寒さが上がってくる。
誰に報告するか。それだけを考えながら、アリシアは部屋への廊下を歩いた。答えは分かっている。問題は、どうやって届けるかだ。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




