第八話 三年分の帳簿
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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書庫に戻りながら、アリシアはヴォルフとの会話を反芻していた。
帳簿が得意なのです、と言えた。それだけのことだが、この城に来てから、自分がどんな人間かを素直に話せたのは初めてだった。ゲルハルトには常に役割として話す。ヴィクトールとは短い言葉しか交わしていない。しかしヴォルフには「帳簿が好き」とただそれだけを言えた。それが不思議と、心の何かを解いた。
「変わった奥方ですね」と笑われた言葉が、悪い意味に聞こえなかった。貶されたわけでも、引かれたわけでもなかった。ただ面白そうに言われた。それだけのことが、歩きながら繰り返し浮かんでくる。王都の社交界では「変わっている」は婉曲な批判だったが、ヴォルフの笑いはそういう種類のものではなかった。この城にも、そういう人間がいる。それは小さな発見だった。
書庫の扉に鍵を差し込んで、中に入る。古い紙と埃の匂い。窓から差し込む傾いた光。慣れてきたこの空間が、今日は少し違って見えた。気のせいかもしれない。しかし壁を埋める帳簿の列が、今日は少し友好的に見えた。数日前は薄暗くて重苦しいと思っていた場所が、今は仕事場に感じられる。人間の感覚は変わるものだ。
棚の前に立って、アリシアは計画を立てた。
三年前の帳簿に異常が見つかった。一年前まで遡って同じパターンがあることは確認している。しかし「いつから始まったのか」はまだ分かっていない。それを知るためには、もっと古い帳簿も照合しなければならない。この書庫にある最も古い帳簿は、二十年前のものだ。全部を確認することはできないが、パターンの始まりを特定することはできる。
「全部を並べて確認しよう」
独り言を言いながら、棚から帳簿を順番に引き出す。一番新しいもの(三年前)、その前の年、さらにその前の年。三冊を並べてテーブルに広げた。比較するための紙を新しく取り出し、縦に月を、横に各年度を置いた表を作る。
精製費用の欄だけを抜き出して、三年分を並べて記入していく。数字を移す作業は単純だが、アリシアはていねいに進めた。急ぐと見落とす。見落とすと後で「気のせいだったのかもしれない」という疑念が残る。それが一番よくない。
出てきた。
三年とも、同じ業者名(表記は少しずつ違う)、同じ金額「八百二十銀貨」が、ほぼ同じ時期に計上されている。一年分だけ見たときは「あり得る」と思っていた。三年分を並べると、「これは設計されている」と感じた。ランダムなものは、並べると不規則に見える。しかしこれは規則的だ。規則性は、意図を示す。
次に証憑書類の束から、三年分の精製費用に関わる書類を探した。時間がかかった。分類されていないため、全部を一通ずつ確認する必要がある。書類の山を膝の上で一枚一枚めくりながら、関係するものを選り分けていく。一時間かけた結果——各年度に対して納品書は一通ずつしかない。
三年分の支払い記録に対して、証憑は三通。しかし各年度で複数月分が計上されているから、証憑と支払いの数が合わない。払っている回数と、証明書の数が一致しない。
アリシアは表に印をつけながら、数字を整理した。三年間で計上された「ヴェルナー系業者」への支払いの総額を概算した。
かなりの額になった。
一年ごとに見れば、見過ごせない金額かもしれない。しかし三年を積み上げると、農村の小さな村ひとつを一年運営できる金額に近い数字が、証憑のない形で記録されていることになる。アリシアの指が、その数字の上で止まった。
「もっと古い帳簿はどうだろう」
五年前の帳簿を引き出した。同じ欄を確認する。
あった。
業者名の末尾は今度は「商業」になっている。しかし金額は同じ「八百二十銀貨」。アリシアは表に列を一つ追加して、数字を書き込んだ。手が少し早くなっていた。心拍数が上がっているのを感じる。落ち着け、とアリシアは自分に言い聞かせた。数字を追うとき、興奮は敵だ。
七年前の帳簿を引き出した。同じ業者、同じ金額。
アリシアは一度ペンを置いて、椅子に深く座り直した。背中が少し張っていた。長い間同じ姿勢でいたらしい。窓の外で鳥の声がした。書庫の外にある世界は、変わらず続いている。しかし自分の中では、何かが大きく動いていた。
光の角度が大きく変わっていた。気づくと夕方近い時刻だった。昼食を取り忘れていた。お腹は空いているが、止まりたくなかった。もう一冊だけ、と思いながらアリシアは次の帳簿を棚から引き出した。
十年前の帳簿を開く。
同じ欄。同じ金額。同じパターン。
どこまで遡れば「始まり」が見つかるのか、この時点ではまだ分からなかった。ただ一つだけ確かなことがある。これは三年前に始まったのではない。もっとずっと前から、同じことが続いている。
アリシアは作成した表を眺めた。三年、五年、七年、十年——全部同じ構造だ。同じ業者名(末尾一文字だけ変えてある)、同じ金額、少ない証憑。これだけの期間、同じパターンを維持し続けているとすれば、それは偶然でも単純なミスでもない。
表を折りたたんで、自分の荷物の中にしまう。証憑の束も確認した分を元の場所に戻した。書庫に残す書類と、持ち帰る情報を分ける。核心的な情報はここに置いておかないほうがいい。そういう判断が自然に出てきた。
書庫の扉を施錠して、廊下に出た。夕方の光が石の床を橙色に染めている。アリシアは一度立ち止まって、表がきちんとしまわれているかを確認した。
明日も来よう。もっと古い記録を確認する。どこまで遡れるかを見る。それが今夜の仕事の続きだ。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




