第七話 礼儀正しい牽制
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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呼び出しは翌日の午後だった。
「奥方様に少しお時間をいただけますか。帳簿整理についてお話ししたいことがございまして」
ゲルハルトの使者が部屋を訪ねてきた。アリシアは「分かりました」と答えて、家政局の小会議室に向かった。
室内は整えられていた。テーブルの上に書類が揃えてある。ゲルハルトはすでに立って待っていた。アリシアが入ると深く頭を下げた。
「わざわざお運びいただき、恐縮でございます。少し失礼なお願いかもしれませんが、奥方様のためを思ってのことと、どうかご容赦を」
「いいえ」とアリシアは椅子に座った。「どうぞ」
「早速でございますが、奥方様のご体調を案じておりまして。書庫はこの季節、埃が舞いやすく、咳のもとになりやすいのでございます。先日もお伝えしたかと存じますが、ご体調に障るようなことがあっては、私どもとして申し訳ない次第でございます」
「ご心配いただいてありがとうございます。体は問題ありません」
アリシアは短く答えた。
「それはようございました」とゲルハルトは微笑んだ。「ただ、帳簿の整理につきましては——家令の管轄でございますので、今後は私どもにお任せいただければと存じます。奥方様のお手をわずらわせるようなことは、私どもの管理の至らなさを意味しますので、家令として責任を感じております」
「ご丁寧にありがとうございます。ただ、体は問題ありませんし、もう少し続けさせてください」
ゲルハルトが今度は少し別の角度から来た。
「ご記録の取り扱いには、家令室での一定の方法がございます。万が一、記録の順序や形式に変化が生じますと、後の照合で手間が生じることもあります。その点が少々、家令として気になっておりまして」
「年代順に並べているだけです。形式は変えておりません」
「はい、奥方様のご努力は承知しております。ただ——もし奥方様がお暇をお持て余しでいらっしゃるようでしたら、城内には腕の立つ刺繍職人や工芸の者がおります。ご才能をお持ちでいらっしゃる奥方様に、そのような場をご用意できればと思いまして」
アリシアはゲルハルトを見た。穏やかな表情。丁寧な声。親切心から言っている部分もあるかもしれない。しかしこの人は今、「体への心配」「家令の管轄」「記録の形式」「刺繍の紹介」と、四種類の言葉を使って同じことを言っている。内容はただ一つだ。書庫の整理をやめてほしい。
「ありがとうございます。刺繍は得意ではありませんので、また機会があれば、ぜひ。帳簿の整理は、もう少し続けます。体には気をつけながら」
「……分かりました」
ゲルハルトが言った。声は穏やかなままだった。「では、ご無理のないように」
会議室を出て、廊下を歩きながら、アリシアは考えた。
ゲルハルトは今日で二度目の牽制だ。最初は着任直後に「整理の必要がない」と言い、今日は四種類の理由を並べた。一度目は軽く流す感じで、二度目は少し圧力がある。言い換えの回数が多い。なぜそれほど急いで止めさせようとするのか。
縄張り意識の問題かもしれない。しかしそれにしては、説得の仕方が丁寧すぎる。何かを隠したいとすれば、理由はいくらでも思い浮かぶ。ただ今は、判断を急がない。
廊下の角を曲がったとき、明るい声がした。
「奥方様! よかった、ちょうどお目にかかりたかったんです」
振り向くと、騎士服の青年が手を上げて近づいてくる。背が高く、笑顔が裏表なさそうだ。アリシアは面識がなかった。
「初めてお目にかかります。副騎士団長のヴォルフ・ハルダーと申します。なかなか機会がなくて、ようやく」
「アリシアです。ヴォルフ様」
「気さくにどうぞ。そうだ、書庫の整理をされているとお聞きしました。帳簿ですか?」
アリシアは少し驚いた。「帳簿が多く残っていましたので、はい」
「帳簿が好きなんですか? 令嬢で帳簿が好きな方は初めてお会いしました」
悪意のない、純粋に面白がっているような口調だった。
「得意なので、はい」
「変わった奥方ですね」とヴォルフが笑った。からかっているのではなく、本当に興味深そうな笑顔だ。「なんなら護衛しますよ。書庫は暗いですし」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「そうですか」とヴォルフは軽く肩をすくめた。「一つだけお伝えしようと思いまして。ヴィクトール様は不愛想ですけど、悪い人ではないですよ」
それだけ言い残して、ヴォルフは廊下の先へ歩いていった。
アリシアはしばらくその背中を見ていた。
ゲルハルトとの会話の後に漂っていた、何か重いものが、少しだけほどけた気がした。廊下の窓から夕方の光が差し込んでいた。
ヴォルフ・ハルダー。副騎士団長。悪意のない、率直な人物だ、とアリシアは判断した。「変わった奥方ですね」という言葉に棘はなかった。本当に面白そうに笑っていた。この城の中で、そういう笑顔を向けてもらったのは初めてだった。
「ヴィクトール様は不愛想ですけど、悪い人ではないですよ」という言葉を反芻した。なぜそれを、わざわざ言いに来たのだろう。廊下でたまたま会ったというよりは、伝えようと思っていたように見えた。ヴィクトールを近くで見てきた人間が、新しい奥方に伝えようと思ったこと。それはどういう意味を持つのか。
まだ分からないことが多い。しかし、少しずつ見えてきている。それで十分だ。
部屋に戻り、窓の外を見た。北の稜線の向こうに、まだ雪が白く残っていた。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




