第十話 確信
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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部屋のテーブルに照合表を広げた。
昨日まで書庫でやっていた作業の最終確認だ。書庫での作業は、あくまで収集だった。ここからが整理になる。二十二年分の記録を自分の目でもう一度なぞる。感情ではなく、数字だけを見る。それ以外の何も混ぜない。
表の列は左から年度順に並んでいる。各年度の行には、業者名、計上金額、証憑の有無、証憑と支払い回数の差分を書き込んである。縦に視線を走らせると、金額の欄は二十二年間ほぼ一定だ。業者名の末尾だけが「商会」「商店」「商事」「商業」と年によって変わっている。証憑の差分欄は、すべての年度でプラスになっている。つまり、証憑の数が支払い回数より常に少ない。一度も例外がない。
横に視線を走らせると、変化がない。変化がないこと自体が意味を持つ。二十二年間、インフレも物価変動も関係なく、同じ金額が計上されている。実際の取引であれば、コストは年によって変動する。原材料費が上がれば精製費用も上がる。それが変動しないということは、実際の取引ではないか、あるいは実際の金額と関係なく一定の数字を入れているということだ。どちらであっても、正常な記録ではない。
証憑の問題も同じだ。二十二年間、一度も証憑が揃ったことがない。業者との取引で書類が揃わないことは、稀にある。しかし二十二年間、毎年、同じように書類が足りないとすれば、それは取引の問題ではなく、意図の問題だ。書類を揃えてしまうと、取引先が実在しないことが明らかになる。だから揃えない。いや、揃えられない。
アリシアはペンを置いた。手元の表を、もう一度最初から見直した。見落としがないか。自分に都合のいい解釈をしていないか。反証を探した。二十二年間この金額が変わらない理由として、正当な説明ができるものを考えた。長期固定契約、という可能性がある。しかし長期固定契約であれば、更新書類が存在するはずだ。それが見当たらない。
「間違いない」
声に出した。誰もいない部屋だから、言葉は壁に吸い込まれた。しかし声に出すことで、自分の中でも確定した。迷いが残っているときは声に出せない。今は迷いがない。二十二年分の記録が、一つの事実を指し示している。
窓の外で、人の気配があった。
アリシアは立ち上がって窓に近づいた。中庭が見える部屋だった。石畳の庭に、一人の人影がいた。黒い外套を着て、ゆっくりと歩いている。
ヴィクトールだった。
朝の光の中で、その背中は少し小さく見えた。足元に目を落としながら、ゆっくりと石畳を歩いている。立ち止まって空を見上げた。北の山を見ているのか、あるいは何も見ていないのか、この距離では分からない。ただ、その姿には何か静かな重さがあった。毎朝こうして庭を歩いているのかもしれない。
アリシアは少しの間、その姿を見ていた。
報告先はヴィクトールしかいない。この城の主に、この城の財政の不正を伝える。それが正しい手順だ。家令はゲルハルトで、財政管理もゲルハルトの管轄だが、その管理者本人が関わっているとすれば、報告先は主君でなければならない。ゲルハルトを飛ばして主君に届ける。それ以外の道はない。
問題は、どうやってヴィクトールに直接話すかだ。
この城の日常的な業務連絡は、ほとんどがゲルハルトを通じて行われている。アリシアがヴィクトールに会いたいと申し出れば、その申し出はまずゲルハルトの耳に入る。何の用件かを確認されれば、財政の話だとは言えない。言えば、話が伝わる前に状況が動いてしまう。証拠の書類を書庫から持ち出すことはできる。しかし持ち出したとしても、届ける相手に届かなければ意味がない。
窓から離れて、椅子に座り直した。
庭のヴィクトールは、もうそこにいなかった。気づかないうちに歩き去っていた。石畳だけが残っている。
ゲルハルトを通じずにヴィクトールに届ける方法がある。そう信じないと、ここから先が動かない。しかし今の時点では、その道筋が見えていない。
ふと、「間違っていたら」という考えが浮かんだ。
自分の読み違いで、実は問題のない記録だったとしたら。全部を正直に話して、ゲルハルトに「これは正常な取引です」と説明されたら。アリシアは一瞬、その可能性を考えた。
しかし、すぐに首を振った。心の中で、だが。
二十二年間、業者名を変え続けながら同じ金額を証憑なしに計上し続ける「正常な取引」など、存在しない。それが正常であれば、業者名を変える必要がない。証憑を揃えない理由がない。照合したときに矛盾が生じる形にする必要がない。商取引には誠実さが要る。アリシアは父の商会でそれを教わった。不正な帳簿には特有の「歪み」がある。この照合表の歪みは、その種類のものだ。
間違っていない。だから、報告しなければならない。
照合表を折りたたんで、荷物の奥にしまった。
ゲルハルトを通じずに、ヴィクトールに直接話す機会を作る。それが次の課題だ。やり方はまだ分からない。しかし手がないわけではない。この城に、もう少し話を聞ける人間がいるはずだ。
ヴォルフ・ハルダーの顔が浮かんだ。副騎士団長。率直で、悪意のない人物だ、とアリシアは判断している。ヴィクトールと近い立場にいる。何かを知っているかもしれない。少なくとも、ゲルハルトの管轄の外にいる人間だ。
表を荷物にしまいながら、アリシアは次の一手を考えた。急いではいけない。しかし、これ以上待つ理由もない。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




