第十一話 報告前夜
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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夜になってから、アリシアは部屋の卓上灯に火を入れて、紙を一枚取り出した。
報告用の要約書を作る。口頭で全部を話すことはできない。数字が多く、年度が多い。相手に正確に伝わるためには、手元に一枚、整理された紙が必要だ。
まず見出しを書いた。「精製費用に関する記録上の不整合について」。感情的な言葉は一切入れない。事実だけを書く。
内容は三つに分けた。一、計上パターンの概要。二、証憑との不一致。三、期間と総額の試算。それぞれに具体的な数字を添える。感想は書かない。断定もしない。「このような記録上のパターンが確認されます」という書き方にとどめる。解釈を押しつけるのではなく、事実を見せる。それを判断するのは聞く側だ。
アリシアは慎重に文字を書き進めた。ペンの先が紙を走る音が部屋に響く。一文書くたびに読み返した。感情的な言葉が混じっていないか確認する。「不審」「不正」「意図的」という言葉は使わない。「記録上のパターン」「証憑の不足」「金額の一貫性」という言葉を使う。主張ではなく記録だ。
一時間ほどかけて、一枚の要約書が完成した。
読み返した。過不足ないと思った。余分な言葉はない。伝えるべき事実は入っている。
次に、報告の機会について考えた。
最も自然な機会は朝食だ。ヴィクトールとアリシアは、同じ食堂で朝食を取ることが多い。毎日ではないが、週に何度かは同じ卓に着く。その場であれば、ゲルハルトを通じずに一言伝えることができる。「財政に関して、少しお時間をいただけますか」それだけ言えれば、後は書類を見せる場を設けてもらえるかもしれない。
ただ、問題がある。
ゲルハルトが朝食に同席することがある。毎日ではないが、月に数回は顔を見る。ゲルハルトがいれば、財政の話を振ることができない。振れば即座に「それは私が承っています」と引き取られる。アリシアが割り込む隙がなくなる。
明日の朝、ゲルハルトが来るかどうかは分からない。分からない以上、準備だけして臨むしかない。来ていれば機会を待つ。来ていなければ話す。それだけだ。
ランプの光の中で、アリシアは要約書をもう一度折りたたんだ。明日の朝、ドレスの袖の内側に入れておく。テーブルに出すときに不自然に見えないよう、薄く折る。
窓の外が少し明るかった。
中庭を挟んだ向こう側、主棟の角に近い部屋の窓に、灯りが見えた。ヴィクトールの部屋だと聞いていた場所だ。夜遅くなのに、まだ光がある。
アリシアはしばらくその光を見ていた。
書類仕事をしているのだろうか。眠れないのかもしれない。あるいは、ただ夜が長い人なのかもしれない。理由は分からない。しかし、この城で働いている人間が、夜も灯りをつけている。それは分かった。
自分も今夜、同じように灯りをつけていた。別々の部屋で、別々の書類に向かって。
アリシアは視線を戻して、卓上の要約書を確認した。明日の朝食だ。ゲルハルトがいなければ、話す。それだけを考えて、今夜は眠る。
ランプの火を消した。部屋が暗くなった。窓の外の灯りだけが、まだそこにあった。
アリシアはしばらく暗闇の中で立ったまま、その光を見ていた。
失敗したらどうなるか、という考えが浮かんだ。ヴィクトールに「見当違いだ」と言われる可能性がある。数字の読み方を間違えていた、という可能性が完全にゼロとは言えない。自分の帳簿の読み方が、この領地の独自の慣習に沿っていないという可能性もある。
しかし、それはないと思う。
アリシアは自分の判断を信じていた。感情からではなく、根拠から信じていた。同じ業者名の末尾だけが変わり、同じ金額が繰り返され、証憑の枚数が合わない。これを「そういう慣習」で説明しようとすれば、その説明のほうがよほど不自然だ。
怖いのは、間違いではない。間違っていても、それは修正できる。怖いのは——「正しかったのに、それでも何も変わらなかった」という結果だ。
そうなっても、自分には何もできない。
アリシアはゆっくりと息を吐いた。要約書を書いた一時間と、朝食のことを考えた時間を合わせると、もう深夜に近い。体は疲れているが、頭はまだ動いている。こういうときに焦ると、翌日の判断が鈍る。休まなければならない。
妹のクラウディアのことを、ふと思った。本来はクラウディアがここへ来るはずだった。社交が得意で、笑顔が明るくて、人に好かれる妹。もしクラウディアが来ていたら、書庫に入ることも、帳簿を読むことも、なかっただろう。そういう才能がある場所にいなければ、才能は見えない。
自分がここへ来たことは、偶然でなかったのかもしれない。そんな考えは普段は好まない——できごとに意味をつけると、失敗したときに傷が深くなる。しかしこの夜だけは、少しそういうことを考えた。
もし明日の朝食でゲルハルトが来なければ、話す。来ていれば別の機会を待つ。ただそれだけのことだ。怖がることは何もない。自分は数字を読んで、読んだことを伝えるだけだ。その先は自分の管轄ではない。
寝台に横になって目を閉じた。眠れないかもしれないと思っていたが、思いの外早く眠りに落ちた。窓の外の灯りが消えたかどうかは、もう確認しなかった。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




