第十二話 管轄の壁
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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翌朝の朝食に、ゲルハルトが来ていた。
扉が開いて白髪の家令が入ってくるのを見た瞬間、アリシアは袖の内側に折りたたんだ要約書の感触を確かめた。紙の端が指に触れた。今日は話せない。それだけを確認してから、視線をスープの碗に戻した。
朝食はいつもと同じように進んだ。ヴィクトールが文書を読みながら食事をする。ゲルハルトが城内の今日の日程を短く報告する。アリシアがそれを聞く。話の流れはすべてヴィクトールとゲルハルトの間にあって、アリシアが入り込む余地がない。「相槌を打てば不自然」と「何も言わないと無視している」の間のわずかな空白を、アリシアは慎重に歩いた。
食事が終わり、ヴィクトールが席を立った。アリシアは一瞬、声をかけるタイミングを探した——しかしゲルハルトが同じタイミングで立ち上がり、「では本日の東棟の点検について」と話し始めた。ヴィクトールの注意がそちらに向く。アリシアは声をかけるのをやめた。
廊下に出て、足音が遠ざかった後、アリシアはゲルハルトに向き直った。
「ゲルハルト様、少々よろしいでしょうか」
「はい、何でございましょう」。穏やかな声だ。
「書庫の帳簿を整理しておりましたところ、財務の記録について少し領主様にご確認いただきたい点が出てきまして」
「財務に関することでしたら」とゲルハルトが言った。いつもと変わらない、丁寧な口調だった。「家令の管轄でございます。奥方様がお気づきのことがありましたら、まず担当の者にお知らせください。適切に対処いたします」
想定内の返答だった。アリシアは表情を変えずに続けた。
「では、ゲルハルト様に直接お話しします」
そこで、ゲルハルトの目が動いた。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、何かを測るような目になった。それはすぐに消えて、また柔和な家令の顔に戻った。
「承りましょう」
アリシアは相手の目を見た。「承る」という言葉の意味を考えた。承ったとして——この人はどうするのか。財務の不整合について自分に話せば、その情報はどこへ行くのか。結論は明確だった。この人に話しても、情報は消える。あるいは消えないにしても、「処理された」という状態になる。それでは報告したことにならない。
「……少し整理が必要ですので、後日書面でお渡しします」
「かしこまりました。ご丁寧なご配慮、ありがたく存じます」
お辞儀をして廊下を歩き去るゲルハルトの背中を、アリシアは見た。礼儀正しい背中だ。何も問題がないような背中だ。しかしアリシアには、あの「一瞬の目」が残っていた。
廊下を歩きながら、次の手を考えた。ゲルハルトを経由する方法はない。ヴィクトールへ直接届ける方法を探さなければならない。週次の報告会という話をヴォルフから聞いた記憶がある。あれを使えるかもしれない。
廊下の角を曲がると、ちょうどヴォルフが正面から歩いてくるところだった。
「おや、奥方。良い朝ですね」といつもの気軽な挨拶。
「少し聞かせてください」とアリシアは言った。「領主様に直接ご報告できる定期的な機会はありますか。財務のことです」
ヴォルフの笑顔がわずかに変わった。笑顔のままだが、何かを判断している顔に変わった。
「週次の行政報告会があります。軍事と財務を合わせて、月に二回程度。私も出席することがあります」
「その場に私が出ることはできますか」
「……今年は奥方が来られてから制度を整えていますが、特に禁じる規則はないと思います。ヴィクトール様に一言申し入れれば、おそらく」
「分かりました」とアリシアは言った。「ありがとうございます」
「何かありましたか」とヴォルフが聞いた。
「確認したいことが少し」
それ以上は言わなかった。ヴォルフも聞かなかった。彼は「そうですか」とだけ言って、軽く頷いた。この人は押し込まない。それがありがたかった。
書庫へ向かいながら、アリシアは報告会までの日数を数えた。数日ある。その間に証拠の整理を完成させる。そして、機会が来たら話す。
それだけのことだ、とアリシアは自分に言い聞かせた。
「管轄」という言葉を使われた。それ自体は正しい言葉だ。城の財務は家令の担当で、家令の許可なく外部から指摘することは越権にあたる、という論理は制度的には成り立つ。しかし今アリシアが見つけたのは、その「管轄」を持つ者自身に関係する記録の問題だ。管轄者が自分の管轄内に問題を持っている場合、管轄者を通じて報告することは意味をなさない。
問題は感情ではなく、構造にある。
書庫の扉を開けて、棚の前に立った。日の光が細い窓から差し込んでいる。昨日確認した帳簿の並びを、メモと照らし合わせて確認する。今日は変化がない。昨日のままだ。
照合表の追加記入を続けながら、アリシアは頭の中で報告会の場面を想像した。ヴィクトールが座っていて、自分が事実を述べる。表を一枚見せる。それだけでいい。判断はヴィクトールが行う。自分の役割は、事実を正確に届けること。それ以上でも以下でもない。
数字を追うと、余計なことを考えなくなる。それがアリシアにとって、書庫という場所の価値だった。あの廊下でのゲルハルトの「一瞬の目」も、この空間では遠ざかっていく。数字は嘘をつかない。だから数字の前でだけ、アリシアは安心していられる。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




