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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第六十九話 この場所に

ヴィクトールの手が、静かに伸びてきた。


 アリシアはその手を取った。自分でもよくわからないまま、両手でその手を包んだ。温かかった。冬が近づいているのに、不思議なくらい温かかった。


 ヴィクトールが、もう一方の手でアリシアの手をそっと覆った。


「……これで、いいですか」


 静かに聞かれた。アリシアはそれが何を意味するかを、すぐに理解した。これでいいか、というのは確認だ。言葉で確かめようとしている。この人らしいやり方だと思った。


「はい」


 短く、はっきりと答えた。迷いはなかった。


 手の温もりが、じわりと伝わってきた。書庫の小部屋でこの人が隣に立っていたとき——あのときも温かさを感じた。けれどあれは違った。あれは、嵐の中で雨を防いでくれるような、保護に近いものだった。今のこれは違う。繋がっている。同じ場所に立っている。


「もっと早く言うべきでした」


 ヴィクトールが言った。


「いつ、ですか」


 アリシアは少し微笑みながら聞いた。


「書庫で、あなたがランプの光の下で帳簿を読んでいた日。あのとき思った——この人は、途方もない人だと」


 アリシアは笑った。この城に来て、こんなふうに笑ったのはいつぶりだろう。力を抜いて、自然に笑えたのは、初めてかもしれない。


「それは……ずいぶん変わったきっかけですね」


「そうかもしれない」


 ヴィクトールの口の端が、かすかに動いた。笑顔とは呼べないほど小さな変化だった。でもアリシアには見えた。この人の笑いはいつもこうだ。表情の端がわずかに緩む。それだけでいい。それがこの人だと、今では思う。


 二人はしばらく、そのままでいた。どちらも動かなかった。書斎の朝の光がゆっくり動き、窓の外では遠くの山が白く光っていた。


「この城に、いていいですか」


 アリシアは言った。言ってから、もう一度言い直したくなった。もっと正確に。


「いたいです。あなたが望む限り」


 ヴィクトールはしばらく黙っていた。手の力が、ほんの少し強くなった。それだけだった。言葉は出なかった。でも必要なかった。


 アリシアにはわかった。この人は言葉が少ない。でも、言葉にしないことは、何もないという意味ではない。言葉にならないものを、他の何かで伝える。これまでの数ヶ月で、それがわかるようになっていた。


 手が離れたのは、少しして後のことだった。互いに離した。どちらが先ということもなく、自然に。


「今日の予定を確認します」とヴィクトールが言った。


「越冬の物資手配と、来月の採掘計画の最終確認ですね」とアリシアが答えた。


 いつもと同じ、書斎の朝だった。ただ何かが変わっていた。空気の質が、どこか違った。


 書斎を出たのは、しばらく後のことだった。廊下の石の冷たさが足の裏に感じられた。城はいつも通りに動いていた。どこかで使用人が水を運ぶ音がした。厨房から昼食の準備が始まる気配がした。城はいつも通りだ。しかしアリシアの中では、何かが変わっていた。


 自室に戻って机の前に座ると、越冬の計算書が開いたまま残っていた。手に取って、最初のページから確かめた。数字は変わっていない。自分が書いた数字が、そのままそこにある。


 ただ、見え方が少し違った。


 これが自分の仕事だという感覚がある。義務として、ではなく。この数字を守ることが、この城を守ることに繋がっている。この城は今、自分の場所だ。そしてそこにいる人が——いてほしいと言ってくれた。


 翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、窓の外はまだ薄暗かった。冬の朝は遅い。それでも城は動き始めていた。厨房から音がして、廊下を誰かが歩いた。


 起き上がって、今日の仕事を考えた。やることはたくさんある。それはこの城に来た最初の頃と変わらない。


 でも今日は、その重さが少し違う感じがした。重さそのものは変わっていない。ただ、その重さをここで担っているという感覚が、今朝は確かだった。自分がここにいる理由が、数字を数えることだけではないと、今はわかっている。


 ここが自分の場所だという確かさが、今朝はある。



 昼が近づいた頃、ヴォルフが廊下を通りがかって扉の前で立ち止まった。


「奥方様、今朝は随分とお顔が明るいですね」


「そうですか」


「はい。なんというか……」ヴォルフは少し言葉を探すような間を置いた。「表情が、穏やかというか、以前とは少し違う感じがします」


 アリシアは思わず笑った。「そんなに変わりましたか」


「ええ、まあ」ヴォルフは何かを察したような、しかし深く聞かないようにしているような顔をした。「お邪魔しました」と言って、足を速めて廊下の先へ消えた。


 アリシアは計算書に目を戻した。ペンを取って、数字を書き始めた。明日、ヴィクトールに提出する。それだけのことだ。しかしその「それだけのこと」が、今朝はずいぶん別の光を帯びていた。


 この手で書いた数字が、この城を動かす。この場所で、自分が役に立つ。それが誰かのためでもあって、自分のためでもあって——そしてこれからも続いていく。


 父は言っていた。「毎年きちんと合った帳簿が、最終的にその家の信頼を作る」と。一年では分からない。しかし積み重なれば、本物になる。


 アリシアはその言葉を、今初めて別の場所で聞いた気がした。帳簿の話ではなく、ここで生きることの話として。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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